第11話 王子様の知られざる奔走と、今すぐ会いたい人
翌日の月曜日。
四時間目が終わった昼休みの教室は、机をくっつけてお弁当を広げる生徒たちの賑やかなおしゃべりで満ちていた。
窓際の席で、美咲と机を向かい合わせにしていた小春は、母の手作りの甘い卵焼きを箸で掴んだまま、ぽかんと口を開けて完全に固まっていた。
「……え? な、なにそれ」
小春が思わず間の抜けた声で聞き返すと、向かいの席で鮭おにぎりを頬張っていた親友の美咲が、「あんたねえ、ほんっとうに鈍感なんだから!」と呆れ果てたように大きなため息をついた。
「だからぁ、あんた本当に何も知らなかったの? 先週、あんたが木曜日の放課後から久世くんを徹底的に避け始めてから、久世くんたら学校中で本当にすごかったんだから!」
「……す、すごかったって、何が?」
「何がって、あんたと少しでも仲がいい女子や図書委員の子を、十分休みのたびに片っ端から捕まえて、必死に聞いて回ってたのよ!」
美咲はおにぎりをラップに置き、身振り手振りを交えて、先週の目撃談を興奮した様子でまくし立てた。
「金曜日なんて、移動教室の合間にわざわざうちのクラスの廊下まで走ってきてさ! 『小春が最近何か悩んでないか?』『俺が木曜日に何か決定的に気に障るようなことしたか、心当たりはないか?』『小春が水曜日に持ってたピンクの手紙のこと、誰宛てか何か聞いてないか?』って、質問攻めよ!」
「……えっ……なにそれ……」
小春は箸で卵焼きを掴んだまま、メデューサに睨まれたみたいに石のように固まった。
「もちろん一番の親友の私のところにも放課後こっそり聞きに来たし、図書委員で小春とシフトが一緒の三組の佐藤さんのところにも、わざわざ頭下げて聞いて回ってたわよ。
『小春をこれ以上追い詰めたくないから、俺が聞いて回ってることは小春には絶対に内緒にしてくれ』ってすごい剣幕で口止めされてたから今まで黙ってたけど、あんな風に王子様のプライドも体裁も何もかもかなぐり捨てて、髪振り乱して必死になってる久世くん、私、この高校に入学してから初めて見たもん」
「…………」
「しかもさ、普段他の女子に向けるみたいなキラキラした営業スマイルなんてゼロで、すっごい深刻で、目の下にクマ作って今にも泣きそうな顔してさあ。
『小春に嫌われたかもしれない、どうしよう』って本気で青い顔してたのよ?」
美咲はそこでいたずらっぽく目を細め、頬杖をついてくすくすと笑った。
「学校中の女子が憧れてるあの完璧な久世くんが、他の可愛い女子からの誘いも全部断って、たった一人の幼馴染の機嫌を直すために、周りの目も噂も一切気にせずあんなになりふり構わず必死になって駆け回ってるんだもん。
そりゃあ、金曜日には『久世くんが篠宮さんを苛めてた』っていう噂がひっくり返って、『実は久世くんの方が篠宮さんに昔からベタ惚れで、振り向いてもらえなくて必死らしい』って学年中の噂にもなるわよ」
小春は、彩り豊かなお弁当箱の上に視線を落としたまま、ぷるぷると小さく肩を震わせた。
耳の奥で、自分の心臓の鼓動がドクンドクンと早鐘のように鳴り響いている。
顔面が、ストーブの前に顔を近づけたみたいに火傷しそうなほど熱い。
それなのに、胸の奥の一番深いあたりが、柔らかい羽毛でくすぐられているみたいにむず痒くて、温かくてたまらない。
あのとき。
自分が勝手に早合点して、自分の狭い殻に閉じこもって、彼を悪者にして逃げ回っていたあの数日間。
遥斗は、小春に突然冷たく突き放された本当の理由も分からないまま、それでも小春の笑顔を取り戻すために、自分のプライドも噂も全部捨てて、学校中を駆け回ってそんなにも必死にもがいてくれていたのか。
そして昨日、そんな自分の苦労なんて一言も恩着せがましく言わずに、ただあの不器用な『反省文』だけを持って、公園で笑わせてくれたのか。
「……ばか」
「え? なになに小春、今なんて言ったの? ニヤけてるわよ!」
「……遥斗の、大ばか……っ」
小春は箸を置き、お弁当の蓋を閉めるのも忘れて、両手で真っ赤になった自分の顔を覆った。
けれど、覆った指の隙間から、どうしてもだらしなく緩んでしまう口元が美咲に見えてしまう。
まさに、そのときだった。
机の脇に置いていた小春のスマートフォンが、ブブッ、と小さく震えて画面を明るく光らせた。
小春は顔を覆っていた手を少しだけずらし、眼鏡の奥から恐る恐る画面を覗き込んだ。
ロック画面にポップアップで表示されたメッセージの送り主は、『久世遥斗』。
指先を震わせながら画面をタップして開くと、そこには短い一文が表示されていた。
『今日、放課後、何時に会える? 今度こそ、ちゃんと小春に渡したいものがある』
小春はしばらくの間、教室のざわめきも忘れて、その短い文字列をじっと見つめていた。
昨日の夕暮れの公園での、彼の赤い耳と、何かを言いかけてデニムジャケットの胸元をそっと押さえていたあの仕草が、ふと脳裏に鮮やかに蘇る。
『今度こそ、ちゃんと渡したいもの』
それが一体何なのか、鈍感な小春にも、今なら痛いほど分かった。
机の横に掛けた通学鞄の中で眠っている、まだ渡せていない小春の『桜色の封筒』と、今朝、一番大切なペンケースの中に丁寧に折りたたんでしまってきた彼からの『反省文』が、小春の背中を「行っておいで」とそっと温かく押した気がした。
小春はスマートフォンを両手で宝物のように包み込むように持ち、ゆっくりと、けれど今度こそ一ミリの迷いもない指先で文字を打ち込んだ。
『放課後なんて待てない。
今すぐ、中庭の二階の渡り廊下で』
紙飛行機の送信ボタンを押す。
まるで画面の前で待っていたかのように、ほぼゼロ秒で「既読」の文字がつき、数秒後にすぐ返事が返ってきた。
『どうした? 何かあった?』
小春は黒縁眼鏡の奥の瞳を柔らかく細め、ふっと小さく微笑んだ。
もう、自分が地味だとか、彼と釣り合わないとか、そんなつまらない遠慮はどこにもなかった。
彼が他の誰でもない、この私を見てくれているのだから。
『ううん。
ただ、今すぐ遥斗に会いたくなっただけ。
私も、渡したいものがあるから』
もう一度、送信。
校舎の反対側の教室で、画面の向こうの彼が今どんな風に目を見張り、どんな風に耳まで真っ赤にしてこのメッセージを読んでいるのか、十年以上隣にいた幼馴染には手に取るように分かる気がした。
数秒の沈黙のあと、画面に短い通知がポンと浮かび上がる。
『俺も。
今すぐ走っていくから、そこで待ってろ』
たったそれだけの言葉。
ただそれだけで、小春の頬は、窓の外で春の風に舞うどの桜の花びらよりも鮮やかな色に染まった。
「……ほんと、ばか。
美咲、ごめん、私ちょっと行ってくる!」
「えっ、ちょ、お弁当は!? あらら、行っちゃった……青春ねえ」
親友の呆れたような笑い声を背中に受けながら、スマートフォンと、鞄から取り出した桜色の封筒を胸に抱きしめて教室を飛び出した小春の足取りは、春の陽だまりみたいに軽やかで、どうしようもなく、幸せそうだった。
最後までお読みいただき、本当にありがとうございました!
不器用な二人の恋の行方を楽しんでいただけていたら嬉しいです。
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