ゴールまで
三月の富士は、晴れていても暖かくはなかった。
司郎は白いヘルメットを脇に抱え、黒い革のレーシングスーツの襟元へ、白い絹のマフラーを巻いていた。自分ではそれなりに収まりよく巻いたつもりだったが、ピットの前をうろついていた水野が一目見るなり顔をしかめた。
「おい司郎、それ貸せ」
「何?」
「マフラーだよ。その巻き方じゃ邪魔になる」
司郎は首から外して渡した。
「水野のおっさん、こういうの分かるの?」
「分かるから言ってんだ」
水野は白絹を一度伸ばし、司郎の首へ巻き直した。結び目を横へ逃がし、余った端を短くまとめて革服の襟の内側へ押し込む。手つきに迷いがない。
司郎は首を左右へ振った。
「へえ。なんか格好いいな」
「格好でやってたんじゃない」
「何に使うの?」
「寒けりゃ巻く。汚れりゃ拭く。怪我すりゃ縛る。端だけ遊ばせるな」
「便利だな」
「布だからな」
水野はそれだけ言って離れていった。
少し先では、誠がまだYDS-3の周りを回っていた。
燃料を見る。チェーンを触る。タイヤを押す。ブレーキレバーを握り、クラッチを握り、最後にしゃがんでエンジンの下を覗き込む。
「さっき見ただろ」
司郎が言うと、
「見る。時間いっぱいは」
とだけ返ってきた。
「心配性になったな」
「うるさい」
司郎は笑った。
だが、その理由は分かっていた。
今日は押して帰るつもりはない。
*
スタート位置へ向かう途中、司郎は初めて周囲の車体をまともに見た。
同じ二百五十でも、ずいぶん違う。
斜め前には青いタンクのヤマハがいる。YDS系を競技用に仕立てたものらしく、司郎のYDS-3より細身に見えた。革服の背には、司郎の知らない小さなモータークラブの名が入っている。プライベートのチームらしい。乗っている男は落ち着きなく周囲を見回し、何度も右手を動かしていた。
さらに前にはホンダがいた。
白っぽいタンクに赤い帯。CB72。
低く構えた車体。革服の背には、城南モータークラブ。何台もレースへ送り出しているらしい有力なプライベートクラブだった。
ライダーは司郎より少し年上に見えた。余計な動きをしない。周囲を見回すこともなく、前だけを見ている。
あれは速そうだ。
理由は説明できない。
だが司郎にはそう見えた。
もっと前には、明らかに雰囲気の違う三台のヤマハが並んでいた。名目はクラブチームでも、メーカーの息がかかっている有力どころだということくらい、司郎でも知っている。
同じヤマハでも、自分のYDS-3とは別の世界だった。
司郎にとって、富士を走るのは初めてだった。こうした全国規模のレースへ出るのも初めてだ。小さなクラブレースなら何度か走った。それでも、いきなり先頭へ行けるなどとは思っていなかった。
ただ。
どこまで行けるか。
それは知りたかった。
ヘルメットをかぶり、ゴーグルを下ろす。
世界が細くなる。
さっきまで見えていた人間の顔も、山も、空も、急にどうでもよくなった。
目の前にあるのは、舗装路と車体だけだった。
YDS-3は静かにしている。
クラッチを握る。
ギヤを入れる。
何度も乗った単車なら、いつもと違うところくらいは分かる。
今日は違わない。
フロントブレーキを握り、フラッグが振られる瞬間を測りながら、じんわりとフロントフォークを沈ませる。
そしてフラッグが振り下ろされる。
司郎はフロントブレーキを放し、込めていた力とともに一気にYDS-3を押し出した。
一歩。
二歩。
三歩。
速度が乗ったところでシートへ飛び乗り、クラッチをつなぐ。
後輪がエンジンを回した。
一度、二気筒が咳き込む。
バァン。
火が入った。
そのままスロットルを開ける。
前輪の手ごたえが軽くなる。
YDS-3が前へ出る。
すぐ横では、まだ一台がもたついていた。
ライダーがもう一度クラッチをつなぐ。
掛からない。
さらに押す。
司郎はその横を抜いた。
一つ上がった。
何もしていない。
ただ、自分の単車が一発で掛かった。
それだけだ。
だがレースでは、それも順位だった。
加速する。
青いヤマハが半車身だけ先へ出る。
横に広がっていた車列が、加速とともに一気に縦へ伸びていく。
試走とは違った。
自分が好きな線を走れない。
左には青いヤマハ。右には別の車体。前には二台。そのさらに前にもいる。
前車の排気煙が一瞬ゴーグルの前を流れる。
速い。
それより、近い。
一台で走っているときなら何でもない幅が、他車がいるだけで半分以下に感じる。
司郎は肩に力が入っていることに気づいた。
抜くことより、まず当てないこと。
視線を前へ。
さらに前へ。
長い直線の向こうに、バンクが近づいてくる。
一周目のそれは、コーナーには見えなかった。
道がそのまま立ち上がっている。
前の一台がわずかにスロットルを戻した。
司郎も右手を緩めかける。
その瞬間、前輪を見る。
暴れていない。
ハンドルにも変な力は来ていない。
車体はまっすぐ走っている。
「……行ける」
誰に言ったのか、自分でも分からなかった。
戻しかけた右手をそのままにする。
進入。
路面そのものが車体を支える。
司郎は車体に身体を沿わせたまま、余計な舵を当てずに走らせる。速度が乗るほど、さっきまで壁に見えた舗装が不思議なほど普通の道へ変わっていく。
前のヤマハが少し外へ膨らむ。
司郎も追う。
出口が見える。
開ける。
二気筒が一気に回転を拾った。
*
一周目は、ほとんど何も覚えていなかった。
前にいた車体。
横にいた車体。
ブレーキを握った場所。
それだけだった。
二周目になると少し変わった。
前の単車そのものではなく、その先が見える。
前車がブレーキをかければ、その一台前も何かをしている。
そのさらに先が詰まっていれば、自分の目の前も必ず詰まる。
相手の背中ではなく、路面を見る。
ブレーキングポイントを見る。
相手の後輪がどこで軽くなるかを見る。
最初は恐怖だった距離が、少しずつ情報に変わった。
青いヤマハが前へ出る。
ヘアピン手前。
相手は司郎より深くまでブレーキを我慢し、強引に内側へ入ってきた。
「おっ」
司郎は少しだけ車体を起こす。
青いヤマハが前へ。
速い。
だが、進入で使い切ったぶん、出口でまだ寝ている。
司郎は追って奥まで行かなかった。
少し早く減速を終わらせ、シフトを落とす。
前輪へ荷重が残っているうちに向きを変える。
上体を車体から突き出すように内へ送る。
そのぶん車体を立て気味にする。
スロットルを大きく開ける。
YDS-3の回転が跳ね上がる。
青いヤマハはまだ斜めだ。
横へ並ぶ。
相手の排気音が近い。
もう一段。
青いヤマハの前へ出る。
「速えな」
思わず声が出た。
片桐の工場で、何度も漠然と「速くしてくれ」と頼んだ。
そのたびに誠から、
「どこで」
と聞き返された。
今なら答えられる。
どこか一か所ではなかった。
止まる。
向きを変える。
開ける。
次へつなぐ。
その全部だった。
*
四周目。
司郎はようやく、自分がレースをしていると思えるようになった。
五周目。
右足に少し違う振動が来た。
ほんのわずかだった。
速度は落ちていない。
失火もしない。
音も割れていない。
だが、右のステップを通して来る振動が、それまでより少しだけ硬い。
司郎は一度スロットルを戻し、また開ける。
変わらない。
次の直線で、いつもより少し早くシフトした。
回転を一段下げる。
振動は薄くなった。
後ろから一台が来た。
抜かれる。
「くそっ」
反射的に追いかけたくなる。
右手に力が入る。
だが、開けなかった。
昔なら行った。
まだ動いている。
まだ速い。
なら、行く。
それで一台、壊した。
押して帰った。
誠は泣いた。
あれをもう一度やる気はなかった。
司郎は一周、欲張るのをやめた。
直線では最後まで引っぱらない。
早めに上げる。
コーナーでも無理に一段下を使わず、少し高いギヤでつなぐ。
音を聞く。
ステップを見る。
いや、見ることはできない。
感じる。
六周目。
もう一度、長く開ける。
振動は戻っていなかった。
右も左も揃っている。
加速も鈍らない。
次のストレートでは少し引っぱる。
大丈夫。
「よし」
今度は目いっぱい使う。
YDS-3が前へ出る。
*
七周を過ぎるころには、先頭の三台は少し離れていた。
メーカーの息がかかった三台。
そこへ追いつくのは難しい。
だが、その三台の後ろ、司郎の目の前には例のCB72がいた。
白いタンクに赤。
城南モータークラブ。
やはり速かった。
特にヘアピン。
司郎より奥まで入る。
前フォークを沈ませ、ぎりぎりまで速度を残し、そのまま向きを変える。
最初に後ろについたとき、司郎は試しに合わせてみた。
駄目だった。
同じところまで行こうとすると、自分のYDS-3では出口が窮屈になる。
相手の方がうまい。
そう認めた方が早かった。
なら、違うところで抜く。
八周目。
後ろについたまま見る。
CB72は深い。
ブレーキングでは確実に距離を稼ぐ。
だが出口。
少し大きく回る。
車体が立つのが遅い。
司郎はそこで少し近づく。
次の直線ではほぼ同じ。
抜けない。
九周目。
もう一度見る。
同じだった。
ヘアピンへ深く入る。
速い。
だが、出口で外へ出る。
同じ。
「そこか」
司郎はゴーグルの奥で笑った。
誠が仕上げたYDS-3は、どこか一つで相手を圧倒する単車ではない。
その代わり、止まる。曲がる。立ち上がる。
そのどこにも大きな穴がない。
相手が速いところで、無理に勝負する必要はない。
ブレーキで速いなら、そこで勝つ必要もない。
相手がひとつ崩せば、そこから入れる。
癖が分かれば、その綻びへ持っていけばいい。
昔、誠から何度も聞かされた。
何を変えた。
何が変わった。
どこで良くなった。
どこで悪くなった。
あの面倒くさい質問が、いま全部役に立っている。
*
最終周。
先頭三台は前。
目の前にCB72。
これを抜けば四位。
司郎は一度、深く息を吸った。
白絹のマフラーは首元で動かなかった。
水野のおっさんの巻き方は、ちゃんと役に立っている。
長い直線。
CB72の四ストの音が前で太く伸びる。
司郎のYDS-3も回す。
中盤で出た嫌な振動はない。
一段。
もう一段。
タコメーターの針が上へ行く。
バンクが近づく。
一周目には壁に見えた。
今は違う。
ただの道だった。
富士の路面は何も変わっていない。
変わったのは、司郎の方だった。
バンクを抜ける。
CB72はまだ前。
ヘアピンまで待つ。
焦らない。
ここまで何周も見た。
同じなら、抜ける。
CB72が制動へ入った。
前フォークが沈む。
排気音が一瞬跳ね上がり、それから落ちる。
司郎もブレーキレバーを握る。
ただし追わない。
相手より手前で減速を終える。
シフトを落とす。
車体を一度落ち着かせる。
CB72が奥へ入っていく。
まだ。
相手が倒れる。
まだ。
CB72が一番深いところへ入った。
ここだ。
司郎はYDS-3の向きを変える。
相手より小さく回る。
出口へ向ける。
前輪が狙った方向へ向く。
開ける。
車体を起こす。
バァァァン、と二気筒が一気に回転を拾った。
CB72はまだ寝ている。
横へ出る。
白いタンクが右に見える。
相手も開けた。
太い四ストの音が重なる。
司郎はもう一段上げる。
半車身。
一車身。
CB72の音が右耳から後ろへ移った。
「ほらな」
誰に言ったのかは分からない。
誠か。
YDS-3か。
自分か。
どれでもよかった。
四位。
ただ、まだ終わっていない。
後ろのCB72は諦めていなかった。
次の直線でまた音が近づく。
司郎はタンクの上に縮こまるように、ぴったりと伏せる。
「行くぞ」
返事はない。
YDS-3はただ回った。
それで十分だった。
*
最後の高速区間。
右手はもう少し痺れていた。
革の中で汗もかいている。
それでもスロットルがどこまで開いているかは分かる。
前輪が何をしているかも分かる。
後ろのCB72の音が近づく。
だが横には来ない。
ブレーキ。
一段落とす。
前輪へ荷重を乗せる。
寝かせる。
向きが変わる。
開ける。
一続きだった。
一個ずつ考える必要がない。
考えたときにはもう遅い。
車体が動く。
司郎が合わせる。
司郎が動く。
車体がついてくる。
最終コーナー。
CB72はまだ後ろ。
司郎は少し早く車体を起こした。
スロットルを開け切る。
二気筒が最後まで回る。
長い直線。
チェッカーが見えた。
その瞬間だけ、後ろの音が消えたような気がした。
実際には消えていない。
司郎が聞いていなかっただけだった。
チェッカーを受ける。
通過する。
ピット側へ一瞬だけ目をやる。
誰かが腕を突き出していた。
四本。
四位。
それだけ分かれば十分だった。
司郎はそのままストレートを抜ける。
後ろにはまだレースを終えた車体が続いている。急に速度を落とすわけにはいかない。
最初の制動へ入る。
そこでようやく右手を戻した。
その直後だった。
バラララララッ、と揃っていた排気音が、一度だけ崩れた。
バラッ、バララ……。
「おい」
司郎は右手を緩めた。
回転を落とす。
音はまた揃う。
だが、さっきまでの滑らかさではない。
右のステップにも、五周目とは違う粗い脈が返ってくる。
「……お前、ぎりぎりだったのかよ」
もちろん返事はない。
周囲の車体が少しずつばらけていく。
さっきまで一つ先のコーナーを奪い合っていた連中も、もう無理には飛び込んでこない。
あと一周。
もう速く走る必要はない。
司郎は高い回転を使わなかった。早めにシフトを上げ、スロットルもゆっくり開ける。速度ではなく、音と振動を確かめながら走らせる。
バラッ。
ときどき二気筒の音が崩れる。
それでも止まらない。
「分かった、分かった。もう頑張らなくていい」
風圧が弱くなると、何十分も聞き続けていたエンジンの音が、かえってはっきり聞こえるようになった。
片桐モータースへ最初に持っていったころとは、まるで違う音だ。
あのころは普通の市販車だった。
遊びに行くような顔で走っていた。
いまは違う。
それでも、まだ走っている。
司郎は左手をハンドルから離した。
タンクへ置く。
ぽん。
もう一度。
ぽん。
「よくやった」
返事はなかった。
YDS-3は少し不揃いな音を立てながら、それでも前へ進み続けた。
*
一周を終え、ピットレーンへ入る。
速度が落ちる。
ようやく人の顔が見える。
声も聞こえるようになる。
「司郎!」
「四位だぞ!」
誰かが叫んでいる。
別のチームの男が司郎のYDS-3を見ている。
城南モータークラブの人間は、少し後ろから入ってきたCB72の方へ走っていった。
初めての全国規模のレース。
四位。
嬉しくないはずはない。
司郎は、自分たちに割り当てられたパドックへ向かった。
誠がいた。
いつもの無愛想な顔で立っている。
ただ、いつもより少し肩に力が入っているように見えた。
司郎はそこまでYDS-3を進めた。
エンジンはまだ回っている。
バラッ。
バララ……。
最後の数メートル。
クラッチを切る。
足を着く。
ニュートラルへ入れる。
帰ってきた。
司郎はゴーグルを額へ上げ、ヘルメットを脱いだ。
白絹のマフラーは最後まで襟元に収まっていた。
笑って、誠を見る。
「ただいま」
その直後だった。
YDS-3の回転が落ちた。
バラッ。
……ストン。
止まった。
誠はまずYDS-3を見る。
エンジンの下。
左右。
煙。
漏れ。
それからタンクに手を触れた。
熱を確かめる。
司郎は何も言わず待った。
誠がようやく顔を上げた。
司郎を見る。
「……おかえり」




