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現代の付喪神は、時計の姿で顕現する。外伝2父ちゃん編  作者: lemonia


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8/14

戦う機械

 片桐モータースの奥に置かれたYDS-3は、夜になると以前ほど喋らなくなった。


 最初にやって来たころは、エンジンを止めてからもよく喋った。


【今日はどこまで走る?】


【次はいつ走る?】


【あいつ、また来る?】


 司郎のことである。


 チュチマがいちいち答えてやる必要もないと思って黙っていると、今度は、


【寝た?】


 などと聞いてきた。


『時計は寝ない』


【大変だね】


『お前に心配されることではない』


 そんな機械だった。


 ところが誠が手を入れ始めてから、少しずつ変わった。最初のころは、それでもまだ、


【前より軽い】


【もっと回せる】


【次は?】


 と、自分に起きた変化をいちいちチュチマへ報告していた。


 吸気を見直し、排気を変え、点火を合わせて司郎を走らせる。戻ってきたらプラグを見て、数字を書き、違えば戻してまた一つ変える。速くする作業を始めても、そのやり方だけは源一のところにいたころと変わらなかった。


 一度にいくつも触らない。何を変えたら何が変わったのか、分からなくなることを誠は嫌った。


「これとこれ、一緒にやれば早いじゃん」


 ある日、司郎が作業台の部品を指して言った。


 誠はキャブレターの中身を見たまま答えた。


「何が効いたか分からなくなる」


「全部効けばいいだろ」


「全部駄目だったら?」


「……戻す」


「何を?」


「全部?」


「面倒だろ」


「うん」


「だから一個ずつやる」


 司郎はしばらく黙り、それから言った。


「お前、だんだん刈屋さんみたいになってきたな」


 誠の手が止まった。


「それ嫌だな」


「本人に言うなよ」


「言わない」


 チュチマは、どちらにも聞こえないところで少し可笑しくなった。刈屋なら、きっと喜びもしないし怒りもしない。ただ一度だけ、


「ふん」


 と言うだろう。


     *


 YDS-3は、少しずつ街の単車ではなくなっていった。必要のないものが外され、乗るためではなく走るための姿勢へ変わり、司郎の体格に合わせて操作系が詰められていく。


 ギヤ比を変えれば、司郎はすぐに試した。戻ってくると、誠は感想を聞く。


「どうだった」


「速い」


「どこで」


「立ち上がり」


「上は?」


「前より早く頭打ち」


「じゃあ次」


「今の駄目?」


「駄目じゃない」


「じゃあいいじゃん」


「富士でいいかどうかは別」


「面倒くせえなあ」


「嫌なら戻す」


「誰が嫌って言った」


 司郎も、文句を言いながら付き合った。以前のYDS-1のころなら、速くなったと感じればそれで喜んでいた。今度は誠から「どの回転で」「何速で」「加速の途中か、伸びきってからか」「振動は」「熱は」と聞かれる。


 最初のうちは「知らん」ばかりだった。そのたびに「じゃあ次は覚えてこい」と言われる。何度もやっているうちに、司郎の方も変わった。


「三速から四速へ上げたあたりは前よりいい。上は少し苦しい」


「振動は」


「前より少ない。でも長く回すと右が少し荒れる」


「熱は」


「前よりまし」


 誠は頷き、ノートへ書く。人間の言葉と、測った数字。その両方を並べた。


 チュチマには、それとは別にYDS-3の声が聞こえている。


【今日はよかった】


『何が』


【上まできれいに回れた】


『苦しくはないか』


【前より少ない】


『どこか熱くないか』


【熱いところはある。でも嫌な感じじゃない】


『嫌な感じとは』


【無理してる感じ】


 それ以上を聞いても、YDS-3自身には分からない。


 機械は自分の中で何度の熱が出ているかも、混合気がどれだけ濃いかも知らなかった。


 ただ、苦しいか。


 軽いか。


 揃っているか。


 まだ行けるか。


 それだけを感じていた。


 だから誠が数字を測る。チュチマは、それでいいと思うようになっていた。


     *


 冬が近づくころには、音も変わった。


 最初に店へ来たときのYDS-3は、トトトトトトトト、とどこか軽かった。いまは違う。バラララララッ、と乾いた音が工場の前へ跳ね返る。


 司郎はその音を聞くたびに嬉しそうだった。


「いいだろ」


「うるさい」


「またそれかよ」


「音が大きいのは事実だろ」


「そうじゃなくて、音質」


「排気音に質とか言い出した」


「あるんだよ」


「そう」


「分かってねえなあ」


 誠は分かっていないわけではなかった。音が荒くなった。ただ荒れたのではなく、粒が揃ったまま強くなっていた。アクセルを煽れば回転は軽く上がり、戻せば迷わず落ちる。以前よりよく吠える。


 だが、チュチマに聞こえる声は、反対に静かになっていた。


【暖まった】


『それだけか』


【うん】


『今日はよく喋らないな』


【そう?】


『前はもっと喋った』


 少し間があった。


【走れば分かる】


 チュチマは黙った。


 その言い方を、どこかで聞いたような気がした。場所も時代もまるで違う。目の前にいるのは、銃も積んでいない二百五十のオートバイだ。それでも、何かが似ていた。


 昔、空を飛んでいた機械たち。鍾馗。疾風。彼らも、戦うことが自分の役目だと理解してからは、余計なことをあまり言わなかった。


 ただ、あのころとは違う。このYDS-3は、誰かを殺すために作り替えられているわけではない。撃たれることもない。帰ってくれば、また直される。また走る。


 それでも、チュチマには分かった。


 この機械は、いま自分が何のためにここにいるのかを知り始めている。


     *


「静かになったね」


 和子がそう言ったのは、ある夕方だった。YDS-3は工場の前で暖機をしていた。


 バラララララッ。


 排気音は以前よりよほど大きい。


 誠は和子を見る。


「どこが」


「この子」


「音、前よりうるさいよ」


「音じゃなくて」


 和子はYDS-3を眺めた。


「前は、もっとそわそわしてた」


「そわそわ?」


「うん。遊びに行きたい犬みたいだった」


「犬なの」


「そういう感じ」


 誠はエンジンを見た。


「今は?」


 和子は少し考えた。


「……待ってる」


「何を」


「それは分からない」


 言ってから、自分でも少し変だと思ったのか、和子は笑った。


「女の勘」


「便利だな」


「便利なのよ」


 チュチマには答えが聞こえていた。


【まだ】


『何がだ』


【まだ、仕上がってない】


 それだけだった。


     *


 年が明けると、富士の話が具体的になった。司郎はレースの日程を持ってきた。


 三月。ノービス二百五十。


 誠は紙を見て、壁に掛けた。


「あとこれだけ」


 司郎が言った。


「ある」


「ないよ」


「ある」


「すぐだぞ」


「だから急ぐと壊す」


「またそれ言う」


「一回壊したからな」


「お前も根に持つな」


 誠は返事をしなかった。根に持っているわけではなかった。忘れていないだけだった。


 YDS-1。白く焼けかけたプラグ。まだ行けると思った。司郎もそう思ったし、機械もまだ走れると言った。


 そして、帰ってこなかった。押して帰ってきた。エンジンは死んでいた。


 あのときから、誠は速くする仕事の最後で、以前より少しだけ慎重になった。慎重というより、怖くなった。


 試走のたびに帰ってきた音を聞き、その音が乱れていないことを確かめる。司郎が笑ってヘルメットを脱ぐのを見る。そこで初めて、ひとつ終わったと思える。


 それでも今回は、以前とは違った。測っていた。記録していた。何を変えたか分かっている。どこまで試したか分かっている。YDS-3も、最初に来たころとはまるで違う。


 それでもレースが近づくにつれて、誠は最後のところで迷い始めた。


     *


 本番前の最後の試走を終え、司郎が戻ってきた。エンジンを切り、しばらく二人とも何も言わず、熱の残る車体を見た。


「どうだった」


 誠が聞く。


「いい」


「それだけ?」


「今までで一番いい」


「どこか変なのは」


「ない」


「熱は」


「いつもと同じ」


「振動」


「変わらん」


 誠はプラグを外して左右を並べた。悪くない。圧縮も点火も、もう一度確認した。問題はなかった。記録を見ても、極端なところはない。


 それでも誠は、キャブレターへ手を伸ばした。


 司郎が気づいた。


「何するの」


「ちょっと落とす」


「何を」


「少し安全側にする」


「なんで」


「本番だから」


 司郎は眉を寄せた。


「本番だから速くするんじゃないの」


「帰ってこなきゃ意味ない」


「これ、持つだろ」


 誠の手が止まった。


「……前にもそう思った」


 司郎も黙った。何の話かは、説明する必要がなかった。


 工場の中にキン…キン…とYDS-3の冷えていく音が響いた。


 チュチマには、短い声が聞こえた。


【落とすな】


『なぜだ』


【これでいい】


『お前が決めることではない』


【でも、これでいい】


 チュチマはしばらく答えなかった。


 以前にも、よく似た言葉を聞いた。まだ走れる。大丈夫。そして壊れた。


『前にも、“まだ走れる”と言ったものがいた』


【私はそいつじゃない】


『分かっている』


【なら、そのまま行かせろ】


『最後まで持つのか』


 YDS-3は、すぐには答えなかった。


 工場の外を車が一台通り過ぎた。その音が遠くなるまで待ってから、YDS-3は言った。


【未来までは分からない】


『ならば退け』


【嫌だ】


 初めて、強い声だった。


『なぜだ』


【私は今日、走るためにここまで来た】


『今日ではない。レースはまだ先だ』


【同じだ】


『何が』


【そこまで行くために、ここまで来た】


 チュチマは黙った。


【司郎が乗る】


 少し間を置いて、


【誠が、ここまで作った】


 また静かになった。


【だから走りたい】


『壊れてもか』


【壊れたいわけじゃない】


『では、何がしたい』


【走る】


『それだけか』


【帰る】


 チュチマは、少しだけ昔の空を思い出した。


『言い切れるのか』


【ゴールまでは、必ず帰ってみせる】


 その言葉を聞いたとき、チュチマは何も返せなかった。


 昔。


 帰れと言えなかった。


 届かせられなかった。


 今、目の前の機械は、自分から帰ると言っている。


 チュチマは誠の左腕で時を刻んでいた。ずっとそうしてきた。誠には一度も、自分の声が言葉として届いたことはない。


 それでも、今度だけは。


『誠』


 誠はキャブレターへ伸ばしていた手を止めた。理由は分からなかった。


『行かせてやれ』


 誠はYDS-3を見た。聞こえたわけではない。声もない。ただ、妙な感じがした。


 このまま行きたがっている。


 そんな気がした。


 誠は手を引いた。それでも、すぐには決めなかった。


 もう一度プラグを見て、圧縮を測り、点火を確認する。左右の差を見る。燃料系を確認し、試走の記録を最初から見返した。


 どこにも、止める理由はなかった。


 勘だけなら、誠は信用しなかった。


 数字だけでも、最後の不安は消えなかった。


 両方が同じところを指していた。


「……そのままで行こう」


 司郎が顔を上げた。


「いいの?」


「いい。なんか、こいつがこのまま行きたがってる」


 司郎がYDS-3を見た。


「分かるの?」


「分からん」


「どっちだよ」


「でも、そう思う。できることは全てやった」


 司郎は少し笑った。


「なら、行くか」


「ただし」


「はいはい」


「変だと思ったら戻せ」


「分かってる」


「欲張るな」


「分かってるって」


「帰ってこい」


 司郎はそこで笑うのをやめた。


「それも分かってる」


     *


 三月。富士。


 片桐モータースの看板は、工場に残ったままだった。


 代わりに、あの4と7を組み合わせた小さな印だけがYDS-3の車体の隅に入っていた。


 司郎が面白がって貼ったのか、水野が余分に作ったものを持ってきたのか、誠は特に気にしなかった。


 パドックには、いくつもの排気音が重なっていた。同じ二百五十でも、音はそれぞれ違う。人の声、工具の音、エンジンの音。遠くでは、すでに別のクラスが走っていた。


 誠はいつもより口数が少なかった。YDS-3の周りを一度見て回り、燃料、チェーン、タイヤ、ブレーキ、操作系を確かめる。締めたところを、もう一度触る。


 司郎が言った。


「さっき見たろ」


「見る」


「心配性になったな」


「うるさい」


 司郎はヘルメットを被った。誠がYDS-3を押し出す。


 エンジンが掛かる。


 バララララララッ。


 片桐モータースへ来た日の、あの軽い音はもうなかった。荒々しい。だが、チュチマに聞こえた声は静かだった。


『調子はどうだ』


【問題ない】


『怖くないのか』


 少し間があった。


【怖い】


 チュチマは黙った。


【でも、準備はできた】


 司郎が跨る。誠が車体を支える。


 やがて係員が呼ぶ。


 YDS-3が前へ出る。


 チュチマは最後に言った。


『帰ってこい』


【分かってる】


 排気音が遠ざかっていく。そして距離が開くにつれて、YDS-3の声は薄くなった。


 やがて、チュチマにも聞こえなくなった。


 誠はその背中を見ていた。


 司郎は一度も振り返らなかった。


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