戦う機械
片桐モータースの奥に置かれたYDS-3は、夜になると以前ほど喋らなくなった。
最初にやって来たころは、エンジンを止めてからもよく喋った。
【今日はどこまで走る?】
【次はいつ走る?】
【あいつ、また来る?】
司郎のことである。
チュチマがいちいち答えてやる必要もないと思って黙っていると、今度は、
【寝た?】
などと聞いてきた。
『時計は寝ない』
【大変だね】
『お前に心配されることではない』
そんな機械だった。
ところが誠が手を入れ始めてから、少しずつ変わった。最初のころは、それでもまだ、
【前より軽い】
【もっと回せる】
【次は?】
と、自分に起きた変化をいちいちチュチマへ報告していた。
吸気を見直し、排気を変え、点火を合わせて司郎を走らせる。戻ってきたらプラグを見て、数字を書き、違えば戻してまた一つ変える。速くする作業を始めても、そのやり方だけは源一のところにいたころと変わらなかった。
一度にいくつも触らない。何を変えたら何が変わったのか、分からなくなることを誠は嫌った。
「これとこれ、一緒にやれば早いじゃん」
ある日、司郎が作業台の部品を指して言った。
誠はキャブレターの中身を見たまま答えた。
「何が効いたか分からなくなる」
「全部効けばいいだろ」
「全部駄目だったら?」
「……戻す」
「何を?」
「全部?」
「面倒だろ」
「うん」
「だから一個ずつやる」
司郎はしばらく黙り、それから言った。
「お前、だんだん刈屋さんみたいになってきたな」
誠の手が止まった。
「それ嫌だな」
「本人に言うなよ」
「言わない」
チュチマは、どちらにも聞こえないところで少し可笑しくなった。刈屋なら、きっと喜びもしないし怒りもしない。ただ一度だけ、
「ふん」
と言うだろう。
*
YDS-3は、少しずつ街の単車ではなくなっていった。必要のないものが外され、乗るためではなく走るための姿勢へ変わり、司郎の体格に合わせて操作系が詰められていく。
ギヤ比を変えれば、司郎はすぐに試した。戻ってくると、誠は感想を聞く。
「どうだった」
「速い」
「どこで」
「立ち上がり」
「上は?」
「前より早く頭打ち」
「じゃあ次」
「今の駄目?」
「駄目じゃない」
「じゃあいいじゃん」
「富士でいいかどうかは別」
「面倒くせえなあ」
「嫌なら戻す」
「誰が嫌って言った」
司郎も、文句を言いながら付き合った。以前のYDS-1のころなら、速くなったと感じればそれで喜んでいた。今度は誠から「どの回転で」「何速で」「加速の途中か、伸びきってからか」「振動は」「熱は」と聞かれる。
最初のうちは「知らん」ばかりだった。そのたびに「じゃあ次は覚えてこい」と言われる。何度もやっているうちに、司郎の方も変わった。
「三速から四速へ上げたあたりは前よりいい。上は少し苦しい」
「振動は」
「前より少ない。でも長く回すと右が少し荒れる」
「熱は」
「前よりまし」
誠は頷き、ノートへ書く。人間の言葉と、測った数字。その両方を並べた。
チュチマには、それとは別にYDS-3の声が聞こえている。
【今日はよかった】
『何が』
【上まできれいに回れた】
『苦しくはないか』
【前より少ない】
『どこか熱くないか』
【熱いところはある。でも嫌な感じじゃない】
『嫌な感じとは』
【無理してる感じ】
それ以上を聞いても、YDS-3自身には分からない。
機械は自分の中で何度の熱が出ているかも、混合気がどれだけ濃いかも知らなかった。
ただ、苦しいか。
軽いか。
揃っているか。
まだ行けるか。
それだけを感じていた。
だから誠が数字を測る。チュチマは、それでいいと思うようになっていた。
*
冬が近づくころには、音も変わった。
最初に店へ来たときのYDS-3は、トトトトトトトト、とどこか軽かった。いまは違う。バラララララッ、と乾いた音が工場の前へ跳ね返る。
司郎はその音を聞くたびに嬉しそうだった。
「いいだろ」
「うるさい」
「またそれかよ」
「音が大きいのは事実だろ」
「そうじゃなくて、音質」
「排気音に質とか言い出した」
「あるんだよ」
「そう」
「分かってねえなあ」
誠は分かっていないわけではなかった。音が荒くなった。ただ荒れたのではなく、粒が揃ったまま強くなっていた。アクセルを煽れば回転は軽く上がり、戻せば迷わず落ちる。以前よりよく吠える。
だが、チュチマに聞こえる声は、反対に静かになっていた。
【暖まった】
『それだけか』
【うん】
『今日はよく喋らないな』
【そう?】
『前はもっと喋った』
少し間があった。
【走れば分かる】
チュチマは黙った。
その言い方を、どこかで聞いたような気がした。場所も時代もまるで違う。目の前にいるのは、銃も積んでいない二百五十のオートバイだ。それでも、何かが似ていた。
昔、空を飛んでいた機械たち。鍾馗。疾風。彼らも、戦うことが自分の役目だと理解してからは、余計なことをあまり言わなかった。
ただ、あのころとは違う。このYDS-3は、誰かを殺すために作り替えられているわけではない。撃たれることもない。帰ってくれば、また直される。また走る。
それでも、チュチマには分かった。
この機械は、いま自分が何のためにここにいるのかを知り始めている。
*
「静かになったね」
和子がそう言ったのは、ある夕方だった。YDS-3は工場の前で暖機をしていた。
バラララララッ。
排気音は以前よりよほど大きい。
誠は和子を見る。
「どこが」
「この子」
「音、前よりうるさいよ」
「音じゃなくて」
和子はYDS-3を眺めた。
「前は、もっとそわそわしてた」
「そわそわ?」
「うん。遊びに行きたい犬みたいだった」
「犬なの」
「そういう感じ」
誠はエンジンを見た。
「今は?」
和子は少し考えた。
「……待ってる」
「何を」
「それは分からない」
言ってから、自分でも少し変だと思ったのか、和子は笑った。
「女の勘」
「便利だな」
「便利なのよ」
チュチマには答えが聞こえていた。
【まだ】
『何がだ』
【まだ、仕上がってない】
それだけだった。
*
年が明けると、富士の話が具体的になった。司郎はレースの日程を持ってきた。
三月。ノービス二百五十。
誠は紙を見て、壁に掛けた。
「あとこれだけ」
司郎が言った。
「ある」
「ないよ」
「ある」
「すぐだぞ」
「だから急ぐと壊す」
「またそれ言う」
「一回壊したからな」
「お前も根に持つな」
誠は返事をしなかった。根に持っているわけではなかった。忘れていないだけだった。
YDS-1。白く焼けかけたプラグ。まだ行けると思った。司郎もそう思ったし、機械もまだ走れると言った。
そして、帰ってこなかった。押して帰ってきた。エンジンは死んでいた。
あのときから、誠は速くする仕事の最後で、以前より少しだけ慎重になった。慎重というより、怖くなった。
試走のたびに帰ってきた音を聞き、その音が乱れていないことを確かめる。司郎が笑ってヘルメットを脱ぐのを見る。そこで初めて、ひとつ終わったと思える。
それでも今回は、以前とは違った。測っていた。記録していた。何を変えたか分かっている。どこまで試したか分かっている。YDS-3も、最初に来たころとはまるで違う。
それでもレースが近づくにつれて、誠は最後のところで迷い始めた。
*
本番前の最後の試走を終え、司郎が戻ってきた。エンジンを切り、しばらく二人とも何も言わず、熱の残る車体を見た。
「どうだった」
誠が聞く。
「いい」
「それだけ?」
「今までで一番いい」
「どこか変なのは」
「ない」
「熱は」
「いつもと同じ」
「振動」
「変わらん」
誠はプラグを外して左右を並べた。悪くない。圧縮も点火も、もう一度確認した。問題はなかった。記録を見ても、極端なところはない。
それでも誠は、キャブレターへ手を伸ばした。
司郎が気づいた。
「何するの」
「ちょっと落とす」
「何を」
「少し安全側にする」
「なんで」
「本番だから」
司郎は眉を寄せた。
「本番だから速くするんじゃないの」
「帰ってこなきゃ意味ない」
「これ、持つだろ」
誠の手が止まった。
「……前にもそう思った」
司郎も黙った。何の話かは、説明する必要がなかった。
工場の中にキン…キン…とYDS-3の冷えていく音が響いた。
チュチマには、短い声が聞こえた。
【落とすな】
『なぜだ』
【これでいい】
『お前が決めることではない』
【でも、これでいい】
チュチマはしばらく答えなかった。
以前にも、よく似た言葉を聞いた。まだ走れる。大丈夫。そして壊れた。
『前にも、“まだ走れる”と言ったものがいた』
【私はそいつじゃない】
『分かっている』
【なら、そのまま行かせろ】
『最後まで持つのか』
YDS-3は、すぐには答えなかった。
工場の外を車が一台通り過ぎた。その音が遠くなるまで待ってから、YDS-3は言った。
【未来までは分からない】
『ならば退け』
【嫌だ】
初めて、強い声だった。
『なぜだ』
【私は今日、走るためにここまで来た】
『今日ではない。レースはまだ先だ』
【同じだ】
『何が』
【そこまで行くために、ここまで来た】
チュチマは黙った。
【司郎が乗る】
少し間を置いて、
【誠が、ここまで作った】
また静かになった。
【だから走りたい】
『壊れてもか』
【壊れたいわけじゃない】
『では、何がしたい』
【走る】
『それだけか』
【帰る】
チュチマは、少しだけ昔の空を思い出した。
『言い切れるのか』
【ゴールまでは、必ず帰ってみせる】
その言葉を聞いたとき、チュチマは何も返せなかった。
昔。
帰れと言えなかった。
届かせられなかった。
今、目の前の機械は、自分から帰ると言っている。
チュチマは誠の左腕で時を刻んでいた。ずっとそうしてきた。誠には一度も、自分の声が言葉として届いたことはない。
それでも、今度だけは。
『誠』
誠はキャブレターへ伸ばしていた手を止めた。理由は分からなかった。
『行かせてやれ』
誠はYDS-3を見た。聞こえたわけではない。声もない。ただ、妙な感じがした。
このまま行きたがっている。
そんな気がした。
誠は手を引いた。それでも、すぐには決めなかった。
もう一度プラグを見て、圧縮を測り、点火を確認する。左右の差を見る。燃料系を確認し、試走の記録を最初から見返した。
どこにも、止める理由はなかった。
勘だけなら、誠は信用しなかった。
数字だけでも、最後の不安は消えなかった。
両方が同じところを指していた。
「……そのままで行こう」
司郎が顔を上げた。
「いいの?」
「いい。なんか、こいつがこのまま行きたがってる」
司郎がYDS-3を見た。
「分かるの?」
「分からん」
「どっちだよ」
「でも、そう思う。できることは全てやった」
司郎は少し笑った。
「なら、行くか」
「ただし」
「はいはい」
「変だと思ったら戻せ」
「分かってる」
「欲張るな」
「分かってるって」
「帰ってこい」
司郎はそこで笑うのをやめた。
「それも分かってる」
*
三月。富士。
片桐モータースの看板は、工場に残ったままだった。
代わりに、あの4と7を組み合わせた小さな印だけがYDS-3の車体の隅に入っていた。
司郎が面白がって貼ったのか、水野が余分に作ったものを持ってきたのか、誠は特に気にしなかった。
パドックには、いくつもの排気音が重なっていた。同じ二百五十でも、音はそれぞれ違う。人の声、工具の音、エンジンの音。遠くでは、すでに別のクラスが走っていた。
誠はいつもより口数が少なかった。YDS-3の周りを一度見て回り、燃料、チェーン、タイヤ、ブレーキ、操作系を確かめる。締めたところを、もう一度触る。
司郎が言った。
「さっき見たろ」
「見る」
「心配性になったな」
「うるさい」
司郎はヘルメットを被った。誠がYDS-3を押し出す。
エンジンが掛かる。
バララララララッ。
片桐モータースへ来た日の、あの軽い音はもうなかった。荒々しい。だが、チュチマに聞こえた声は静かだった。
『調子はどうだ』
【問題ない】
『怖くないのか』
少し間があった。
【怖い】
チュチマは黙った。
【でも、準備はできた】
司郎が跨る。誠が車体を支える。
やがて係員が呼ぶ。
YDS-3が前へ出る。
チュチマは最後に言った。
『帰ってこい』
【分かってる】
排気音が遠ざかっていく。そして距離が開くにつれて、YDS-3の声は薄くなった。
やがて、チュチマにも聞こえなくなった。
誠はその背中を見ていた。
司郎は一度も振り返らなかった。




