片桐の看板
誠が和子と結婚したのは、片桐モータースという名前がまだどこにも存在しなかったころだった。
式そのものは大げさなものではなかった。刈屋の親類と、誠の側からは源一、水野、それに司郎。人数を増やそうと思えば増やせただろうが、誠も和子もそういうことには熱心ではなかった。
誠は黒い紋付羽織袴を着せられた。鏡の前に立たされ、帯を直され、羽織の襟を整えられているあいだも、本人にはどうにも自分ではないものを着ている感じがした。作業着なら袖を通せばそれで済む。紋付というものは、着ている本人より周囲の人間の方が細かいところを気にするらしい。
最後に左袖を整えようとした係の女が、誠の腕を見て少し手を止めた。
「腕時計は、お外しになった方がよろしいかと」
誠は左腕を見る。黒い革ベルトに、古びたクロノグラフ。式服には確かに似合っていなかった。
「外すものなの?」
「正式には、その方がよろしいですね」
「そうですか」
誠は答えたが、外さなかった。係の女はもう一度時計を見たものの、それ以上は言わなかった。
少し離れたところでその様子を見ていた和子が寄ってきた。
「外さないの?」
「うん」
「そう」
和子も、それ以上は聞かなかった。以前、誠がこの時計を大事にしているのに、なぜしまっておかないのかと尋ねたことがある。そのとき誠は、時計は使うものだと言った。今日だけ、その考えを変える理由もないらしい。
チュチマは、袖の内側で一定の時を刻んでいた。
式が始まる前、水野がやってきた。
「似合わんな」
挨拶より先にそう言われ、誠は自分の紋付を見下ろした。
「自分でもそう思う」
「そうじゃない。顔だ」
「帰っていいよ」
水野は笑った。それから誠の左手に目を止めた。
「それ、外さんかったのか」
「外した方がいいって言われた」
「じゃあ外せばいいだろ」
誠は袖から少しだけ時計を出して見た。
「でも、親父もここにいるようなもんだし」
水野の顔から、笑いが少し消えた。ほんの短いあいだだった。
「親父さん本人がいたら、外せって言うぞ」
「そうなの?」
「言う。間違いなく言う。あの人、そういうところだけ妙にきっちりしとったからな」
誠は時計を見た。
「じゃあ、なおさら着けとく」
「なんでだよ」
水野が呆れた。
チュチマは何も言わなかった。義雄なら、たしかに外せと言っただろう。そのことを、この場にいる誰よりもよく知っていた。
式が終わってしばらくしてから、誠は水野と並んで座った。人の行き来が一段落し、和子は刈屋の親類に囲まれている。
「親父がいたら、なんて言ったかな」
「今言っただろ。時計を外せ」
「それ以外」
「知らん」
「知らんのかよ」
「俺はお前の親父じゃないからな」
水野は杯を口へ運んだ。誠も黙った。
少ししてから、水野が前を向いたまま言った。
「まあ」
「何」
「喜んだとは思うぞ」
誠はそちらを見た。
水野はもう何も言わなかった。チュチマも、黙って時を刻んでいた。
*
結婚しても、誠の生活は急には変わらなかった。朝になれば源一の工場へ行き、車を上げ、油にまみれ、夜になれば帰る。変わったことといえば、帰る先に和子がいることくらいだった。それも数か月すると当たり前になった。
その間にも、必要な資格は取った。二級ガソリン自動車整備士に続いて、単車も日常的に扱う以上は要るだろうと、二級二輪自動車整備士も取った。資格が増えても仕事の仕方は変わらなかった。分からないものは調べ、測れるものは測り、直したものは自分で確かめる。それだけだった。
ある日の夕方、客の車を送り出したあと、源一が帳面を閉じた。
「誠」
「何」
「お前、いつまで俺んとこにいるつもりだ」
誠は手にしていたスパナを止めた。
「何かやった?」
「なんでそうなる」
「辞めろって話じゃないの」
「半分はそうだ」
誠は源一を見る。源一は椅子に座ったまま、工場の入口を顎で示した。
「今日の客、何て言ってた」
「何が」
「誰に見てもらいたいって来た」
誠は少し考えた。
「俺」
「昨日のクラウンは」
「俺」
「その前の軽トラは」
「……俺」
「だったら、もう俺の看板で仕事する必要ないだろ」
誠は黙った。
源一のところへ来たころは、掃除と洗い物しかできなかった。工具の名前を覚え、ボルトを混ぜるなと叱られ、分からないものを分かった顔で触るなと何度も言われた。いつの間にか、客の方から自分の名前を言うようになっていた。
「独立しろってこと?」
「そういうことだ」
「急だな」
「急じゃねえよ。俺が言うのが遅かったくらいだ」
誠は工場の中を見回した。自分が使っている工具も、リフトも、コンプレッサーも、全部源一のものだった。
「金ないけど」
「そこは刈屋に聞け」
「なんで」
「俺に聞くな」
翌日、誠は刈屋の家へ行った。
刈屋は話を聞くと、しばらく何も言わず、奥から古い書類の入った封筒を持ってきた。
「これは、お前に渡すものだ」
「何」
「お前の母親が残した」
中には預金と、いくつかの記録が入っていた。誠は金額を見て、しばらく黙った。
「……お袋、これ使わなかったのか」
「使わなかったんじゃない」
刈屋は言った。
「お前に使わせるために残したんだ」
誠はもう一度数字を見た。ふみが病気になってからの生活を思えば、この金がまるごと残っていることの方がおかしかった。もっと医者にかかることもできたはずだった。もう少し食べることも、休むこともできた。
誠には、それをありがたいとだけ思うことができなかった。
「……馬鹿だな」
刈屋は何も答えなかった。
誠は書類を封筒へ戻した。
「使っていいの」
「そのために残した」
「工場に?」
「それを決めるのはお前だ」
誠はしばらく考えた。
「じゃあ、工場にする」
刈屋は一度だけ頷いた。
*
最初から立派な工場を建てるつもりはなかった。誠が欲しかったのは、車を上げられる場所と、雨が入らない屋根と、必要な工具が置ける広さだった。
設備も全部新品にはしなかった。中古で足りるものは中古にし、その代わり測定器や工具は自分が信用できるものを選んだ。
必要な工具や機械を揃え、作業場を整えた。陸運局へ出す書類も一つずつ片づけ、分解整備事業の認証も受けた。検査主任者は誠自身が務める。
源一が一度見に来た。工場の中をぐるりと歩き、リフトを見て、コンプレッサーを見て、溶接機を見た。
「足りんな」
「何が」
「仕事始めりゃ分かる」
「今教えてよ」
「自分の店だろ」
「見に来た意味ないじゃん」
「あるよ」
「何」
「笑いに来た」
「帰って」
源一は笑いながら帰った。
実際に仕事を始めると、本当に足りないものはいくらでも出てきた。だが、足りないからといって、すぐに全部買う必要はなかった。必要になったとき、本当に必要なものだけを増やしていけばいい。
客も最初から多かったわけではない。源一のところから流れてきた客もいれば、誠の名前を聞いて来る客もいた。原因の分からない不調を持ち込む者もいたし、他所で直らなかった車を持ち込む者もいた。
そういう車ほど、誠は長く触った。金にならない時間も増えたが、借金の返済に追われているわけではなかった。
母が残した金で買えたのは、土地や工具だけではなかった。
すぐに答えを出さなくてもいい時間も、その中に含まれていた。
症状が分からなければ、一晩置くことができた。一度変えて駄目なら、元へ戻すことができた。分からないまま客へ返さず、もう一度考えることができた。
誠はまだ、それが後になって自分の仕事の形になるとは知らなかった。
*
工場ができても、看板だけはなかなか付かなかった。
「名前なんて、片桐モータースでいいだろ」
誠がそう言ったので、和子もそれ以上考えなかった。
ところが、開業して何日か経ったころ、水野がトラックに看板を積んで現れた。
「何それ」
「見りゃ分かるだろ」
「頼んでないけど」
「祝いだ。黙って貰っとけ」
看板には、太い文字で「片桐モータース」と書かれていた。派手ではない。遠くからでも読める、ただそれだけの看板だった。
取り付けてから、誠は文字の横に小さな印があることに気づいた。
「これ何?」
「飾りだ」
水野はそれだけ言った。
「片桐モータース」の文字の脇に、小さな幾何学模様が入っていた。4と7を崩して組み合わせたようにも見えるが、誠には何を意味するのか分からなかった。
チュチマには分かった。
かつて、四七戦隊の疾風や鍾馗の尾翼にあった印だった。
『……水野』
誠には聞こえなかった。
数日後、刈屋が工場へ来た。車を降り、最初に看板を見た。その目が、ほんの少しだけ止まった。
「……ふん」
「何」
「別に」
刈屋はそのまま工場へ入った。
誠はもう一度看板を見たが、何が気になったのか分からなかった。
*
片桐モータースがようやく工場らしくなってきたころ、一台のオートバイが入ってきた。乾いた二気筒が、トトトトトトトト、と軽い音を立てて店の前で止まる。
誠が作業台から顔を上げると、乗っていたのは司郎だった。
「またヤマハ?」
「悪いか」
「別に」
司郎が跨っていたのは、中古のYDS-3だった。派手な改造はされていない、普通の市販スポーツだった。
「買った」
「見れば分かる」
「安かった」
「いくら」
「聞くな」
「安くないじゃん」
「新車よりは安い」
誠は車体の周りを一周した。目立つ転倒跡はない。ただし新車ではなく、ケーブルにもチェーンにも、それなりに使われた時間が見える。
「で?」
「これで出る」
「何に」
「富士」
誠の手が止まった。
「レース?」
「来年のクラブマン。ノービスの二百五十」
司郎は軽くタンクを叩いた。
「こいつで行く」
「このまま?」
「だから持ってきた」
誠はもう一度YDS-3を見た。
「今度は壊すなよ」
「お前が言うな」
二人とも、前のYDS-1のことを思い出していた。だが、その先は口にしなかった。
司郎が先に話を戻した。
「部品代は出す」
「工賃は?」
「友達だろ」
誠が顔を上げた。
「いつ友達になったんだよ」
「まだ言ってんのかよ」
「じゃあ工賃払え」
「金に細かくなったな、社長」
「社長じゃない」
「看板あるじゃん」
司郎が表を指した。
「片桐モータース」
「看板があると社長なの?」
「たぶん」
「じゃあお前から取る」
「友達料金で」
「倍?」
「なんでだよ」
誠はしばらく考えた。
「部品代は全部お前」
「うん」
「走らせる金もお前」
「うん」
「工賃は」
司郎が期待した顔をした。
「データ取らせろ」
「何の」
「全部」
「好きにしろ」
「じゃあ見る」
誠はそう言ってしゃがみ込んだ。
まだ速くする話ではない。まず今がどういう状態かを知らなければならなかった。
圧縮、点火、キャブレター、プラグ、チェーン、ブレーキ、タイヤ、ケーブル。ひとつずつ確認し、まず現在地を揃えていく。
チュチマには、YDS-3の声が聞こえていた。
【今日はどこまで走る?】
『まだ走らない』
【そうなの?】
『まず調べるそうだ』
【どこか悪い?】
『それを今から調べる』
【元気だよ】
『それはお前が決めることではない』
【でも元気】
『よく喋るな』
【だめ?】
『別に』
チュチマは少し呆れていた。
*
最初に誠がやったのは、速くすることではなかった。左右のキャブレターを合わせ、点火を見直し、伸びたチェーンを調整し、引きずっていたブレーキを直す。まず、狂っているところを元へ戻した。
それだけでもYDS-3は変わった。
司郎が試走から戻ってくる。
「速くなった」
「まだ何もしてない」
「速くなってる」
「元に戻っただけ」
「同じだろ」
「違う」
誠はプラグを外して左右を比べ、ノートへ記録する。
「じゃあ次は?」
「まだ」
「何が」
「基準ができたところ」
「面倒くせえな」
「嫌なら他行け」
「やる」
そこから吸気を触り、少しだけ排気も変えた。ジェットを替えて走らせ、戻ってくればプラグを見る。違えば元へ戻し、別の組み合わせを試した。
誠は数字と司郎の感想を並べた。
「どうだった」
「速い」
「どこで」
「上」
「下は?」
「知らん」
「次は覚えてこい」
「注文多いな」
「乗ってるのはお前だろ」
走らせて、戻ってくる。また変えて、もう一度走らせる。
トトトトトトトト、と軽かった排気音は、試すたびに少しずつ硬さを増していった。ドルルルルル、と低いところにも芯が出る。
チュチマには、音とは別の変化も分かった。
【前より軽い】
『そうか』
【もっと回せる】
『回せることと、回していいことは違う』
【分かってる】
『本当か』
【たぶん】
『信用できないな』
最初に来たころより、少し言葉が強くなっていた。司郎はそれを知らない。誠も知らない。ただ、アクセルを開けたときの反応が変わっていくことだけは、二人とも分かっていた。
ある日、司郎が試走から戻ってきてヘルメットを脱いだ。
「いいだろ」
「何が」
「音」
「うるさくなった」
「そうじゃなくて」
「排気音は大きくなった」
「分かってねえなあ」
「何が」
「こう、やる気が出てきた感じ」
誠はYDS-3を見る。アイドリングは以前より荒い。だが乱れているわけではなく、粒が揃ったまま強くなっている。
チュチマには、その内側の声が聞こえる。
【もっと速くなれる】
以前なら、次はどこへ行くのかと聞いた。
今は違った。
どこへ行くかではなく、自分がどこまで変われるのかを気にしている。
*
夜になっても、誠は工場に残っていた。作業台の上にはプラグとノートが並び、何度か書き直した数字が残っている。YDS-3は工場の奥で、走り終えた熱をゆっくり逃がしていた。
和子が入口から顔を出した。
「まだやるの?」
「もうちょっと」
「その、もうちょっと長いよね」
「今日は短い」
「昨日も言ってた」
和子は中へ入ると、作業台を見るでもなくYDS-3の前で足を止めた。
「この子、変わったね」
誠が顔を上げる。
「何が」
「雰囲気」
「音?」
「ううん」
「じゃあ何」
和子は少し考えた。
「最初に来たときは、散歩に行きたい子犬みたいだった」
「何それ」
「そういう感じだったの」
「今は?」
和子はYDS-3を見た。しばらく黙ってから言った。
「……何か、待ってるみたい」
誠もそちらを見る。
ただの中古の市販車だった。
少なくとも、まだ外から見ればそうだった。
チュチマが問いかけた。
『何を待っている』
YDS-3はすぐには答えなかった。
工場の中には、冷え始めた金属の音だけが小さく残っていた。
やがて声がした。
【まだだ】
『何がだ』
【まだ、足りない】
チュチマは黙った。
誠は何も聞かず、作業台へ戻った。ノートを開き、次に試す数字を書き込む。
表では、「片桐モータース」の看板が夜気の中に掛かっていた。
その脇の小さな印が、やがてどれほど長く残ることになるのか。
そのときは、まだ誰も知らなかった。




