帰ってこさせろ
司郎が次の単車を持ってきたのは、誠が二十になったころだった。
三級自動車ガソリン・エンジン整備士を取ってからも源一の工場で働き続け、必要な実務経験を満たすと、今度は二級ガソリン自動車整備士も取った。三級のときと同じで、源一は特に褒めなかったし、誠自身も資格が増えたから急に腕が上がったとは思っていなかった。
ただ、任される仕事は確実に増えていた。
工場の前に聞き慣れない排気音が止まり、誠が顔を出すと、司郎が得意そうに新しい単車へ跨がっていた。新しいといっても新車ではない。車体には使い込まれた跡があり、エンジンのケースにも何度か開けられた形跡が残っている。それでもYA-1に比べれば車格は明らかに大きく、何よりエンジンから伸びる二本の排気管が目についた。
「買った」
司郎はそれだけ言って笑った。
誠は返事をするより先に、しゃがみ込んでエンジンを見た。
「二気筒」
「見りゃ分かる」
「二百五十?」
「そう。YDS-1」
「またヤマハ」
「悪いか」
「別に」
エンジンの周囲を一通り眺めてから、誠は車体を少し離れて見た。YA-1とは違う。こちらは最初から速く走ることを意識して作られているのが、詳しい理屈を知らなくても分かる。
「中古?」
「競技に使ってたやつ。安かった」
その一言で誠はもう一度エンジンへ目を戻した。
「じゃあ先に全部見る」
「いや、その前に」
司郎は待ってましたという顔で言った。
「これ、もっと速くしてくれ」
以前なら、誠は「知らん」と答えていただろう。
今は少し違った。
「どこを?」
「何が」
「最高速?」
「それも」
「加速?」
「それも」
「立ち上がり?」
「それも」
「全部って言うなよ」
「まだ言ってねえよ」
「言う顔してた」
司郎が少し考え、それから笑った。
「お前、刈屋さんみたいになってきたな」
「嫌なこと言うな」
工場の奥から源一の笑い声が聞こえた。
*
誠が最初にしたことは、速くすることではなかった。
プラグを外し、圧縮を確かめ、左右のキャブレターを見て、点火を確認する。チェーンの張り、ブレーキの引きずり、タイヤ、ワイヤー類、各部の緩み。中古で、それも競技に使われていた車体なら、最初からすべてが正しいと思う方が危ない。
司郎は最初の二日ほどは黙って見ていたが、三日目には我慢できなくなった。
「なあ」
「何」
「それ、YAのときと同じことしてない?」
「してる」
「速くするんじゃなかったの」
「今がちゃんとしてるか分からんのに、何変えるんだよ」
「走ってるぞ」
「走るのと、ちゃんと走るのは違うって前にも言った」
「覚えてたのかよ」
「俺が言ったんだろ」
誠は作業台のノートへ数値を書き込んだ。二気筒になると、見るものは単純に二倍になるわけではない。左右が揃っているかという比較まで増える。同じエンジンの中に並んでいるからといって、使われ方も減り方も完全に同じとは限らなかった。
それが面白かった。
基準になる状態を作り、そこから一つだけ変える。走らせて結果を見て、必要なら元へ戻し、今度は別のところを変える。
司郎が走り、誠が測った。
短い区間を決め、チュチマのクロノグラフで時間を取る。司郎が戻ってくれば、数字だけでなく本人の感触も聞いた。
「どうだった」
「速くなった」
「どこで」
「上」
「下は?」
「知らん」
「ちゃんと覚えてこい」
「俺、試験受けてんの?」
「俺が乗ってもお前と同じ乗り方できないだろ」
「それはそうだけどよ」
次の走行では、司郎も真面目に答えるようになった。
「さっきより下は弱い。上は伸びる」
「どのギヤから?」
「三速から分かる」
「じゃあ次、そこ見る」
ギヤ比を試し、キャブレターを調整し、点火時期も少しずつ変えた。一度に触るのは一つか、せいぜい関連するところだけにした。何かを変えるたびノートへ書き、元へ戻せるようにする。
最初のころは源一に聞くことの方が多かったが、だんだん自分で考えてから聞くようになった。
「これ、もう少し進めたら上が良くなると思う」
「思うならやってみろ」
「いいの?」
「壊さねえ範囲でな」
「その範囲が分からん」
「だから覚えるんだろ」
源一は答えをくれなかった。
誠は自分で少しだけ進めた。
司郎が走って戻ってくる。
「いい」
「ほんと?」
「さっきより出る」
時間を見ても、確かに縮んでいた。もう一度走らせても、ほぼ同じだった。
偶然ではない。
自分が触ったことで、本当に速くなった。
その感覚は、壊れたものを直したときとは少し違った。
面白かった。
*
そこから、少しずつ欲が出た。司郎だけではない。誠にもだった。
混合気を少し詰めると反応が鋭くなり、点火時期をわずかに変えると、高い回転で前より伸びた。戻ってきた司郎は、ヘルメットを脱ぐなり笑った。
「これだよ」
「そんな違う?」
「全然違う」
誠もプラグを外して確認した。左右を並べて見ると、右側が少し白いような気がした。
気になる。
ただ、極端ではない。
「もう一回」
今度は誠から言った。
司郎が笑った。
「お前もやる気になったな」
「同じか確かめるだけ」
「はいはい」
もう一度走らせると、時間はまた少し縮んだ。誠はノートの数字を見て思わず笑い、司郎もそれを見逃さなかった。
「ほらな。まだいけるだろ」
「……たぶん」
「たぶんじゃなくて、いけるって」
その日の終わり、YDS-1は工場の前でアイドリングしていた。
左腕のチュチマには、二気筒の声が聞こえていた。
【前より速い】
『調子はどうだ』
【悪くない】
『苦しくはないか』
少し間があった。
【右が、少し熱い】
チュチマはエンジンを見た。
『さっきからか』
【上まで回すと熱くなる。でも、まだ走れる】
誠はその声を聞いていない。ただ、右側のプラグをもう一度外していた。
さっきより少し白い。
指先でプラグを回しながら、しばらく考える。
「ちょっと薄いかな」
司郎が横から覗いた。
「まずい?」
「すぐ壊れるほどじゃないと思う」
「じゃあいいじゃん」
「でも、もう少し戻してもいい」
「遅くなる?」
「少しは」
「じゃあこのまま一回だけ走ろうぜ」
誠は返事をしなかった。
右のプラグとエンジンを交互に見る。今までなら、少しでも気になればそこで一度止め、確かめていた。
それでも今日は、数字が頭に残っていた。もう少し詰めれば、もう少し縮むかもしれない。どこまでいけるのか、自分でも見てみたかった。
『誠』
チュチマは呼んだ。
もちろん、言葉は届かない。
だが誠は一度だけ、手を止めた。
何かが引っ掛かっている。
それでも司郎が言った。
「まだいけるって」
誠はしばらく黙っていた。
そして自分で決めた。
「……もう一回」
*
YDS-1が走り出した。
いつもの道を加速していき、排気音が遠ざかる。チュチマに届いていた声も距離とともに薄くなり、やがて聞こえなくなった。
誠はクロノグラフを動かした。
音が完全に消える。
戻ってくるまでの時間を待つ。
いつもなら、少しすると遠くから二気筒の音が戻ってくる。
その日は、来なかった。
誠は時計を見た。
もう一度道路の先を見る。
「遅いな」
源一が奥から言った。
「うん」
さらに待った。
やがて道路の向こうから、人影が見えた。
司郎だった。
単車に乗っていない。
YDS-1を押して歩いてくる。
誠は時計を止めるのも忘れて駆け出した。
近づくにつれて、車体の下側が黒く濡れているのが見えた。
「どうした!」
司郎は意外なほど普通の顔をしていた。
「あいたたたた」
「怪我した?」
「俺じゃねえよ」
司郎はYDS-1を指した。
「こっち」
誠はしゃがみ込んだ。
エンジンの下には油が付いている。ケースの側面に、本来あるはずのない穴が開いていた。
「……何があった」
「回してたら急にガンってきた。後ろ引っ掛かったから、すぐクラッチ切った」
「転んでない?」
「見りゃ分かるだろ」
「ほんとにどこも打ってない?」
「俺は平気だって」
司郎は少し笑った。
「ちゃんと乗るの上手いんだぞ、俺」
いつもなら何か言い返しただろう。
誠は何も言わなかった。
左腕のチュチマにも、YDS-1の声は聞こえなかった。
『……おい』
返事はない。
『聞こえるか』
何も返らない。
誠はそんなことを知らないまま、ケースの穴を見つめていた。
*
工場へ戻してから、二人でエンジンを降ろした。源一も途中から加わったが、手を出しすぎることはせず、誠に分解させた。
開けていくほど、被害が見えてきた。
右側のピストンはシリンダに焼き付き、金属の表面には深い傷が入っていた。そこで終わらず、回転していたクランクの力は下へ伝わり、コンロッドは折れていた。その破片が内側からクランクケースを突き破っている。
誠は外した部品を作業台へ順番に並べた。
焼けたピストン。
傷の入ったシリンダ。
折れたコンロッド。
割れたケース。
一つずつ置いていくうちに、さっきまで一台の単車の中で動いていたものが、ただの壊れた部品へ変わっていくように見えた。
司郎が横から覗き込んだ。
「こりゃエンジン探した方が早いな。中古ならあるだろ。YDS-1、そこまで珍しくないし」
誠は答えなかった。
司郎にとっては、壊れたエンジンを別のものへ載せ替えれば、また走れるようになるという話なのだろう。それは間違っていない。誠にも分かっている。
それでも、いま作業台に並んでいるものを、簡単に「交換すればいい」とは思えなかった。
「片桐?」
誠は焼き付いたピストンを手に取った。
「俺が壊した」
司郎は一瞬黙った。
「俺も『まだいける』って言っただろ」
「でも最後に、もう一回って言ったの俺だから」
「乗ってたの俺なんだけど」
「俺が決めた」
「いや、だから俺も」
「分かってる」
誠はピストンを置いた。
「分かってるけど、これ見て、ちょっと薄いかもって思ったんだよ」
作業台の端には、最後に外した右側のプラグが置いてある。
「気になったのに、走らせた」
司郎は何も言わなくなった。
誠は折れたコンロッドへ手を伸ばしたが、途中で止めた。
「……ごめん」
誰に言ったのか、自分でも分からなかった。
少しして、作業台の上へ水滴が一つ落ちた。
最初は油かと思った。
もう一つ落ちたところで、自分が泣いていることに気づいた。
「おい」
司郎が困ったような声を出した。
「そんな泣くなよ。俺、怪我もしてねえし、エンジンならまた探せば」
「違う」
「何が」
「そういうことじゃない」
それ以上は、うまく言葉にならなかった。
源一は少し離れたところで黙っていた。やがて作業台まで来ると、壊れた部品を順番に見た。ピストンを取り、シリンダの傷を確認し、最後に穴の開いたケースへ目を落とした。
「速くなったか」
誠は顔を拭った。
「……なった」
「どのくらい」
「時間、縮んだ」
「そうか」
源一は少し間を置いた。
「で、帰ってきたか」
誠は答えなかった。
工場の外には、押して戻ってきたYDS-1が置いてある。
「押しては」
「そういう意味じゃねえ」
源一は壊れたエンジンを指した。
「一回だけ速えのは、速え機械じゃねえよ」
誠は黙って聞いていた。
「走らせたんなら、帰ってこさせろ」
その言葉だけは、妙にはっきり残った。
「俺らが触った機械は、ここを出たら俺らの見えねえところを走る。暑い日もある。坂もある。荷物積む奴もいる。何も考えず回し続ける馬鹿もいる」
司郎が横で「俺?」という顔をしたが、源一は無視した。
「それでも帰ってこさせるのが仕事だ」
誠は作業台の上を見た。
「……まだいけると思った」
「いけなかったな」
「分かってた気もする」
「なら、なんで走らせた」
答えは分かっていた。
「速くしたかった」
源一は叱らなかった。
ただ、
「じゃあ覚えとけ」
それだけ言って、壊れたピストンを作業台へ戻した。
左腕で、チュチマが時を刻んでいた。
『また、間に合わなかった』
その声も誠には届かなかった。
*
数日後、司郎がエンジンを一基見つけてきた。
「これ、載るだろ」
工場の入口に置かれた中古エンジンを見て、誠はしばらく黙っていた。
「どこから持ってきたの」
「知り合いの店。車体は駄目だけどエンジンは生きてたやつ」
「ほんとに生きてる?」
「だからお前が見るんだろ」
以前なら司郎のその言い方に呆れただろうが、今は少しだけ違って聞こえた。
「分かった」
誠はエンジンを作業台へ載せた。
すぐには車体へ積まず、開けられるところは開けて状態を確認した。測れるところは測り、左右を比べ、必要なところには手を入れた。前なら「これくらいなら大丈夫だろう」と流していたかもしれないところでも、今回は一度手を止めて確かめた。
源一はときどき横から見るだけだった。
「慎重だな」
「悪い?」
「悪くねえよ」
エンジンを車体へ載せ、配線とワイヤーをつなぎ、燃料を入れる。
最初の始動では、司郎がキックしようとするのを誠が止めた。
「ちょっと待って」
「まだ何かある?」
「確認する」
「もう三回しただろ」
「もう一回」
「性格変わったぞ、お前」
「うるさい」
全部を見直してから、ようやくうなずいた。
司郎がキックペダルを踏む。
一度。
二度。
三度目で、二気筒が目を覚ました。
工場の中へ排気音が広がる。
誠はしばらく何もせず、その音だけを聞いていた。
チュチマには、すぐ近くから声が届いた。
【動ける】
以前と同じ声なのか、違う声なのか。
チュチマにも分からなかった。
『ああ』
【走っていい?】
『あいつがいいと言えばな』
誠はアイドリングを聞き、左右の熱の上がり方を見て、もう一度プラグを確認した。
「今日はここまで」
司郎が露骨に嫌そうな顔をした。
「走らねえの?」
「走るけど、回さない」
「前より遅いじゃん」
「今はそれでいい」
「いつ速くするんだよ」
誠は少し考えた。
「壊れないところが分かってから」
「それ、どこ?」
「これから探す」
司郎はしばらく誠の顔を見ていたが、やがて諦めたように笑った。
「分かったよ、先生」
「誰が先生だ」
*
何度か短い試走を重ね、そのたびに誠は戻ってきたYDS-1の音を聞き、プラグを見て、左右の状態を確かめた。問題がないことを一つずつ積み上げてから、ようやく司郎に少し長く走ることを許した。
「行ってくる」
「無理すんなよ」
「分かってる」
「ほんとに?」
「一回エンジン吹っ飛ばしたくらいで信用なくしすぎだろ」
「一回で十分だよ」
司郎は笑ってクラッチをつないだ。
YDS-1が走り出す。
排気音が遠ざかり、やがて聞こえなくなった。
誠は工場の前に立ったまま、道路の先を見ていた。
以前ならクロノグラフを動かしていただろう。
この日は動かさなかった。
しばらくすると、遠くから二気筒の音が聞こえてきた。
誠の肩から、わずかに力が抜けた。
音は少しずつ大きくなり、やがて司郎とYDS-1が工場の前へ戻ってきた。
エンジンは自分の力で回っている。
司郎が止まってヘルメットを外した。
「どう?」
誠はまず排気音を聞き、それからエンジンへ手を近づけた。
「大丈夫」
「速かった?」
「知らん」
「そこ測ってねえのかよ!」
「今日はいい」
「なんで」
誠はYDS-1を見た。
「ちゃんと帰ってきたから」
司郎は一瞬ぽかんとしたあと、笑った。
「それ、褒めてんの?」
「褒めてる」
左腕で、チュチマが静かに時を刻んでいた。
『それでいい』
その声は、まだ誠には届かなかった。




