女の勘
刈屋和子のことは、以前から知っていた。
刈屋の娘なのだから、知らない方がおかしい。誠が刈屋の家で勉強を教わるようになってからは顔を合わせる機会も増え、茶を出してもらったこともあれば、帰り際に「まだやってるの」と呆れられたこともある。
ただ、それだけだった。
誠にとって和子は刈屋の娘であり、和子にとって誠は、父親が妙に熱心に数学や機械の話を教えている無口な年下の男だった。互いに名前を知り、顔を合わせれば話もするが、わざわざ相手を訪ねていくような関係ではない。
それが少し変わったのは、和子が一台のスーパーカブで工場へやって来た日だった。
*
「誠くん」
呼ばれて振り向くと、工場の入口に和子が立っていた。その横にはスーパーカブが停まっている。
「何」
「これ、見てもらえる?」
「壊れた?」
「分からない」
誠は手にしていた布を置き、車体の方へ歩いた。油漏れは見えない。タイヤも潰れていないし、どこかが外れたり曲がったりしている様子もない。少なくとも、外から見ただけで分かる異常はなかった。
「何か変なの」
そう聞くと、和子は少し考えてからハンドルに手を置いた。
「今日、なんか苦しそうなの」
誠はまず和子を見た。冗談を言っているようには見えない。それからもう一度カブを見る。
「何が」
「この子」
「単車?」
「うん」
「喋ったの?」
「喋るわけないでしょ」
その答えを聞いても、誠には余計に分からなかった。
「じゃあ、なんで苦しいって分かるの」
「なんとなく。いつもと違うの」
「音?」
「そういうのじゃないと思う」
「振動は」
「分からない」
和子自身、説明する言葉を持っていないらしい。ただ、いつも乗っている人間がいつもと違うと言うのなら、少なくとも見る理由にはなる。
「エンジン掛けて」
和子がキックすると、エンジンは一度で始動した。アイドリングはしている。軽く回せば回転も上がった。
誠は横にしゃがみ、音を聞いた。
明らかに一発死んでいたコロナのときとは違う。止まりそうでもなければ、派手に咳き込むわけでもない。それでも、アクセルを開けたときの上がり方に、少し重さがあるような気がした。
「ちょっと乗っていい?」
「どうぞ」
工場の前から道路へ出て、少しだけ距離を走った。
普通には走る。
発進もするし、速度も出る。ただ、もう少し力が欲しいところで、エンジンが息を詰めるような感触がある。
戻ってきた誠は、エンジンを止めずにしばらく考えた。
「やっぱり変?」
「ちょっとだけ」
「ほら」
「まだ何も分かってない」
誠はもう一度軽く回転を上げたあと、エンジンを止めた。
プラグを見る。燃料の流れを見る。アクセルワイヤーの動きを確かめる。すぐに原因らしいものは出てこなかったが、走ったときの感触を思い返しているうちに、今度は吸気側が気になった。
エンジン上部のエアクリーナーボックスを分解し、中のエアクリーナーを確認する。
誠は取り出したそれを見て、指先で汚れを確かめた。
「これ、だいぶ汚れてる。いつもより埃っぽいとこを長く走らなかった?」
和子が少し考えた。
「昨日、工事してる道をずっと走った」
「たぶんこれだな」
「分かるの?」
「直してから確かめる」
エアクリーナーを裏からエアを吹いて清掃し、吸気まわりを確認して元へ戻す。
エンジンを掛けると、さっきより回転の上がり方が軽かった。誠は念のためもう一度短く走り、同じところまで回してから戻ってきた。
「これなら大丈夫そう」
そのとき、左腕のチュチマにはカブの声が聞こえていた。
【楽になった】
『さっきは息苦しかったのか』
【うん。今はちゃんと吸える】
誠には聞こえない。
だが和子は、アイドリングするカブをしばらく見てから、ふっと表情を緩めた。
「あ。機嫌直った」
誠が顔を上げた。
「分かるの?」
「うん」
「何が違う」
「分からないけど、さっきより嬉しそう」
誠はカブの音を聞いた。
修理する前より回転は軽い。その違いなら自分にも分かる。
だが和子が最初に「苦しそう」と言ったとき、そこまで具体的な音の違いを拾っていたようには思えなかった。
「どうして分かるの」
「だから、女の勘」
「機械に?」
「駄目?」
「普通、人に使う言葉じゃないの」
「人にも分かるわよ」
和子が少し得意そうに言ったので、誠は工場の奥を見た。
源一が帳面を広げ、鉛筆を耳に挟んで何か計算している。
「じゃあ源さん、今何考えてる?」
和子もそちらを見る。
しばらく観察してから言った。
「……今日のお昼、何食べようかな」
源一は顔も上げなかった。
「客にいくら請求するかだよ」
和子は黙った。
誠が言った。
「外れてるじゃん」
「人は難しいのよ」
「機械の方が簡単なの?」
「少なくとも、あんたたち男よりは」
「俺も入ってるの」
「入ってる」
源一が帳面の向こうで笑った。
和子がそろそろ帰ろうとカブのハンドルへ手を掛けたところで、誠が呼び止めた。
「今日はこれでいいけど」
「何?」
「今度、新しいのに替えよう」
「さっきの?」
「エアクリーナー。掃除して戻しただけだから」
「分かった。また来る」
「うん」
和子がカブで走り去ってから、チュチマはしばらくその後ろ姿を見送っていた。
あの刈屋の娘である。
機械の言葉そのものが聞こえているわけではない。だが、苦しいか、楽か、その程度なら確かに感じ取っている。
『この女なら……私の声も届くのか?』
ほんの一瞬、考えた。
そして、和子の細い腕に自分が巻かれているところを想像した。
黒く、大きく、厚い。
どう見ても無骨だった。
『……いや、それはないな』
それ以上考えるのはやめた。
*
それから和子は、ときどき工場へ顔を出すようになった。
父親から誠へ本を届けに来ることもあれば、カブの具合を見てもらうこともある。最初のころなら、誠も「何しに来たの」と用件から聞いていたが、そのうち姿を見てもいちいち理由を尋ねなくなった。
和子が機械について何か言ったときも、以前ほど簡単には聞き流さなくなった。
ある日、修理を終えた車が工場の前でアイドリングしていると、横を通った和子が足を止めた。
「これ、嬉しそう」
誠は作業の手を止め、車の方を見た。
修理前には回転にわずかな乱れがあり、振動も多かった。今は音が揃い、車体から伝わる細かな震えも減っている。
「……そうかも」
和子が振り返った。
「信じるの?」
「全部じゃない」
「何それ」
「でも、この前も当たったから」
「前から当たってるわよ」
「源さんの昼飯は外した」
「人は別」
「便利だな、女の勘」
「しつこい」
和子はむっとした顔をしたが、そのまま帰るわけでもなく、作業台の端に腰を預けて誠の仕事を眺めていた。
*
その日の仕事が一段落したころ、和子が誠の左腕へ目を向けた。
「それ、いつもしてるね」
「うん」
「お父さんの時計?」
「親父の」
「前から気になってた。見せて」
誠の手が止まった。
「見るだけ?」
「何よ、その顔」
「前に取られそうになったから」
「私が取ると思ってるの?」
「思ってないけど」
「じゃあ見せて」
誠は革ベルトを外し、チュチマを手のひらへ載せた。
和子は両手で受け取ると、まず重さを確かめるように少し持ち上げた。
「重い」
「そう?」
「普通の時計より重いでしょ」
「慣れた」
黒い文字盤に二つのインダイヤル。竜頭の上下には押しボタンがあり、プレキシガラスの風防には細かな傷が走っている。和子は文字盤だけでなく、側面や裏側までゆっくり眺めた。
「ずいぶん傷あるね」
「親父が使ってたのもあるし、俺がつけたのもあると思う」
「大事にしてるのに、しまっておかないんだ」
誠は何を当たり前のことを聞くのかという顔をした。
「時計だろ。使うものじゃん」
和子は少し黙って、それから時計をもう一度見た。
「……そっか」
何を納得したのか、誠には分からなかった。
和子はそのままチュチマを自分の左腕へ当てた。
「巻いてみていい?」
「落とすなよ」
「落とさないわよ」
革ベルトを留めると、誠が着けているときより穴がいくつか内側になった。
チュチマにとって、人間の腕はただ自分を載せておく場所ではない。
そこから伝わる脈も、体温も、動き方も違う。
誠の腕とは、ずいぶん違っていた。
細い。
柔らかい。
それに、油とも汗とも違う淡い匂いがする。
石鹸か何かだろうか。
『…………柔らかい』
和子がわずかに眉を寄せた。
「……なんか変」
誠はすぐに時計を見た。
「時計?」
「うん」
「どこが」
「分からないんだけど」
和子は自分の左腕を見ながら、言葉を探した。
「今、『やわらかい?』って思い浮かんだ」
「何が?」
「だから分からない」
チュチマは黙った。
和子がさらに首を傾げる。
「あと……『いい匂い?』とも」
誠はチュチマへ顔を近づけ、鼻を鳴らした。
「別に匂わないけど」
『私のことではない。匂っているのはお前だ』
チュチマとしては訂正したつもりだった。
和子には、その一言までは届かなかった。
「なんだろ」
「知らん」
和子はしばらく時計を着けたまま、文字盤を眺めていた。
「変な時計」
「普通だよ」
『普通ではない』
その言葉も、二人には届かなかった。
*
「お前、和子ちゃん好きだろ」
数日後、工場へ来た司郎がいきなり言った。
誠は作業台の上の部品から目を離さなかった。
「なんで」
「その返しでもう分かった」
「何が」
「だからお前はモテねえんだよ」
「お前に関係ないだろ」
「関係あるよ。友達だから」
「いつ友達になったんだよ」
「まだ言ってんのか」
司郎が呆れているところへ、ちょうど和子が工場へ入ってきた。
「何の話?」
「片桐がですね」
誠が顔を上げた。
「司郎のYA、次から見ない」
「何でもありません」
司郎は即座に口を閉じた。
和子が笑った。
「司郎さん、そういうことばっかり言ってるから彼女できないんでしょ」
「いるよ」
和子の笑顔が止まった。
「え」
誠は少し考えたあと言った。
「女の勘」
「うるさい」
「当たらないな」
「人は難しいの!」
司郎が二人を交互に見た。
「何の話だよ」
「こっちの話」
誠は作業へ戻った。
司郎はさらに何か聞きたそうだったが、自分に火の粉が飛びそうなのでやめたらしい。
*
夕方、和子が帰る時間になった。
あの日から、カブは調子よく走っている。
和子がキックすると、一度でエンジンが掛かった。
【今日は元気】
すぐ近くにいるチュチマには、その声が聞こえた。
『息苦しくないか』
【平気。よく走れる】
「じゃあね」
和子が言った。
「うん」
カブが走り出す。
チュチマに届いていた声は、工場から離れるにつれて薄くなり、やがて排気音だけになった。
誠はその音が聞こえなくなるまで、何となく道路の先を見ていた。しばらくしてから工場へ戻り、また仕事を始めた。
*
そのころには、誠が源一の工場で正式に働き始めてから、それなりの時間が過ぎていた。受験資格を満たすと、源一に言われるまま三級自動車ガソリン・エンジン整備士の試験を受けた。
「受かった」
「そうか」
「それだけ?」
「落ちたら怒るところだった」
源一にとっては、取って当然の資格だったらしい。誠自身も、特別なことを成し遂げたとは思わなかった。必要になったから取り、次の日にはまたいつも通り車の下へ潜った。
*
それから数日後。
誠が作業台に向かっていると、工場の入口から聞き慣れた声がした。
「誠くん」
顔を上げると、和子が立っている。
「今度は何」
「別に」
誠はその後ろを見た。
スーパーカブが停まっている。
「単車?」
「今日は元気」
「じゃあ何しに来たの」
和子はすぐには答えなかった。
少しだけ視線を外したあと、誠の方を見る。
「来ちゃ駄目?」
今度は誠が黙った。
機械なら、具合が悪いと言われれば見るところがある。音を聞き、動かして、分からなければ測ればいい。何も悪くないなら、それで終わる。
だが和子は、カブが元気なのにここへ来た。
どこを見ても、何を測っても、その理由は分からない。
「……別に」
ようやく出てきた答えは、それだけだった。
和子は少し笑い、そのまま工場の中へ入ってきた。
誠はまた作業へ戻ったが、さっきまで何を考えながら手を動かしていたのか、一度だけ分からなくなった。
左腕では、チュチマが変わらず時を刻んでいる。
『人間は、分からないな』
その点だけは、誠も同じだった。




