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現代の付喪神は、時計の姿で顕現する。外伝2父ちゃん編  作者: lemonia


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二つの車輪

 司郎のYA-1は、いつの間にか源一の工場の風景に馴染んでいた。


 最初のうちは仕事の邪魔にならない隅へ置かれていたが、司郎が来るたびに何かしら触るところが見つかった。チェーンの張りを直し、ワイヤーを調整し、プラグを見て、ブレーキを確かめる。緩んだボルトを締めるだけで終わる日もあった。


 そのたびに司郎は同じことを聞いた。


「速くなった?」


 誠の答えも、だいたい同じだった。


「知らん」


「乗ったら分かるだろ」


「ちゃんと動くようにしただけだから」


「それで速くならんの?」


「知らん」


「お前、知らんこと多いな」


「だから調べてるんだろ」


 工場の奥で源一が笑っていた。


     *


 ある日の夕方、司郎がいつもより真面目な顔をしてやって来た。


「片桐」


「何」


「これ、もうちょっと速くならん?」


 誠は作業台から顔を上げた。


「壊せば速くなるよ」


「どういう意味だよ」


「壊れるまで回せば」


「そういう速いじゃねえよ!」


 その声を聞いて、源一が奥から顔を出した。


「何騒いでんだ」


「源さん。こいつ、速くできます?」


「何を」


「YA」


「何のために」


「レース」


 源一は司郎の顔を見て、ほとんど間を置かずに言った。


「よそでやれ」


「早えな!」


「うちは修理屋だ」


「でも片桐、できるって」


「言ってない」


「お前、そこは話合わせろよ」


「できないもの」


「ほら見ろ」


 源一は興味を失ったように仕事へ戻ろうとした。


 誠はその背中を見たあと、司郎のYA-1へ目を移した。


「速くする方法は知らんけど」


 源一の足が止まった。


「今より、ちゃんと走るようにはできるかもしれない」


「同じじゃねえの?」


 司郎が言うと、誠は首を振った。


「違う。今のこれが、ちゃんと走ってるか分からんだろ」


「走ってるぞ」


「走るのと、ちゃんと走るのは違う」


 司郎は少し呆れた顔をした。


「……お前、源さんみたいなこと言うようになったな」


「悪かったな」


 戻ってきた源一がYA-1の横へしゃがみ込み、チェーンを指で押した。


「速くするってのはな、部品替えたり、削ったり、穴でかくしたりすることだけじゃねえ」


「じゃあ何です?」


「まず、元に戻す」


 司郎が首を傾げた。


「元?」


「作った奴が、こう動くはずだって決めたところへだ」


「これ、壊れてないですよ」


「壊れてから直すのは修理だ」


 源一は立ち上がった。


「狂ってるところを合わせるのは調整だ。競走したいなら、まずそこからだ。速くする話は、そのあとにしろ」


 誠が聞いた。


「どこまで合わせるの」


「できるところまで全部だ」


 司郎は少し考えてから、誠を見た。


「じゃあやろう」


「なんで俺に言うんだよ」


「俺、分からんもん」


「俺も分からん」


「お前の方がちょっと分かる」


「ちょっとだけだぞ」


「俺より分かればいい」


 誠は源一を見る。


「やっていい?」


「仕事終わってからな。それと、分からんところを勝手に触るな」


「分かった」


「分かったふりもするな」


「しない」


 源一はそれでうなずいた。


「ならやれ」


     *


 それから数日、仕事が終わったあとの工場では、誠と司郎がYA-1を囲むようになった。


 誠は点火、プラグ、キャブレター、ワイヤー、チェーン、ブレーキ、タイヤと、一つずつ状態を確かめた。何かを変える前には、元がどうなっていたかを書き残した。


 刈屋から教わった数字も、少しずつ意味を持ち始めていた。


 測れば比べられる。比べれば、感覚だけでは見えなかった違いが見える。分からないところが出れば源一に聞いたが、源一は答えを教えることもあれば、整備資料を放って寄越すだけのこともあった。


「どれが正解?」


「書いてあるだろ」


「数字がいっぱいある」


「じゃあ読め」


「どれ見るの」


「それを考えるのがお前の仕事だ」


 横で見ていた司郎が聞いた。


「俺、何すればいい?」


「邪魔しない」


「それだけ?」


「あと掃除」


「俺の単車なのに?」


「だからだろ」


 文句を言いながらも、司郎は言われた通り部品を洗った。


 何日かすると、YA-1は少し変わった。


 外から見れば、ほとんど何も変わっていない。目立つ部品を付けたわけでも、エンジンの中身を変えたわけでもない。


 ただ、それまで少しずつ外れていたものが、少しずつ本来の位置へ戻っていった。


 エンジンを掛ける。


 単気筒の音が工場に響いた。


【前より楽に回れる】


 すぐそばにいるチュチマには、その声がはっきり聞こえた。


『どこが変わった』


【よく分からない。ただ、前ほど力まなくていい】


『人間が合わせたからだ』


【あの若いのが?】


『そうらしい』


 誠はそんな会話を知らない。


 ただ、アイドリングを聞きながら言った。


「前よりいい」


 司郎がすぐに食いつく。


「何が?」


「音」


「速くなった?」


「まだ言うのかよ」


     *


 免許は取った。だが、誠は単車をまともに走らせた経験が、まだほとんどなかった。


 YA-1の調整が一通り終わった日、司郎が言った。


「乗ってみろよ」


「なんで」


「直した奴が乗らねえでどうすんだよ」


「お前が乗ればいいだろ」


「俺が乗ったら、速えしか言わねえぞ」


「分かってるじゃん」


 工具を片づけていた源一が口を挟んだ。


「乗ってこい」


 誠は振り返った。


「いいの?」


「走らせなきゃ分からんこともある」


 司郎が笑った。


「ほら」


「でも転んだら」


「俺のYA!」


「心配するのそっちかよ」


「当たり前だろ!」


 誠はYA-1を工場の外へ出し、跨がった。


 ハンドルを握ると、目の前にあるのは車のような計器盤でも、工場の作業台でもなかった。前輪の向こうに、そのまま道が続いている。


 エンジンを掛ける。


 振動が、両手と尻と足へ直接伝わってきた。


 車のように機械の中へ収まるのではない。エンジンも車輪も、自分の身体のすぐ近くにある。


 クラッチをつなぐと、YA-1が動き出した。


 最初はゆっくり走り、少ししてギヤを上げる。右手を捻ると音が変わり、振動が変わり、それに遅れず速度も上がった。


 もう少し開ける。


 また応える。


 そのとき誠は、自分でも意外なほど素直に思った。


 面白い。


 自分の右手が動けば、その分だけ機械が返してくる。工場で外から音を聞いているだけでは分からなかったことが、身体を通して入ってきた。


 回転が上がるときの震え。力が出るところと、薄くなるところ。車体を傾けたときの感触。路面の凹凸まで、機械を通して自分の身体へ返ってくる。


【走るのは、やっぱり気持ちいいな】


 誠の腕にあるチュチマには、その声がはっきり聞こえた。


『嬉しいのか』


【そりゃそうだ。走るために作られたんだから】


 その言葉は、すぐそばにいる誠へは届かない。


 それでも、しばらく走って工場へ戻った誠の顔を見れば、チュチマには十分だった。


「どうだった!」


 待ち構えていた司郎に、誠はエンジンを止めながら答えた。


「面白い」


「だろ!」


「でも前ブレーキ、まだちょっと引きずってない?」


「そこかよ!」


     *


 司郎が初めて競技へ出ることになったのは、それからしばらくしてからだった。


 浅間ではない。大きなメーカーの看板を背負って走るような場所でもなかった。


 単車屋やクラブの連中が集まり、自分たちの単車を持ち込んで競う、小さな催しだった。


 それでも司郎にとっては、初めて番号を付けて走る場所だった。


 誠もついて行った。


 走るためではなく、工具箱を持って。


「お前も出ればいいのに」


 司郎が言った。


「嫌だ」


「なんで」


「お前の面倒見る奴いなくなるだろ」


「俺は子供か」


「壊したら直せないだろ」


「……よろしくお願いします」


 会場には、いろいろな単車がいた。


 新しいものもあれば、古いものもある。綺麗に磨かれたものも、傷だらけのものもあった。持ち主が自分で手を入れたものもあれば、店で仕上げてもらったらしいものもある。


 同じくらいの排気量でも、音は一台ずつ違った。


 誠は競技が始まる前から、あちらこちらへ目を向けていた。


「何見てんの」


「いろいろ」


「俺の応援しろよ」


「走ってる間はする」


「ほんとかよ」


 やがて競技が始まった。


 司郎は速かった。


 少なくとも、初めて競技へ出た人間には見えなかった。前を追い、抜き、抜かれればまた追った。


 誠はそれを見ながら、ふと左腕へ目を落とした。


 いつもの秒針ではない。


 クロノグラフの針を動かす。


 司郎が通過するたびに時間を測ると、ただ「速い」「遅い」と見ていたものが数字になった。


「……使えるじゃん」


『今さら気づいたのか』


 チュチマは少し呆れた。


 誠は司郎が来るたびに針を見た。最初より速い周。遅い周。数字を比べているうちに、走り方の違いまで少しずつ見えるような気がしてきた。


 何周かしたころ、YA-1が誠の前へ近づいてきた。


 その瞬間だけ、チュチマに声が届いた。


【……ちょっと苦しい】


『どこだ』


 問い返したときには、もうYA-1は目の前を通り過ぎていた。


 声は急に遠くなる。


『どこが苦しい』


 返事はなかった。


 誠はクロノグラフの針を戻しながら、なぜか通り過ぎたYA-1を目で追っていた。


 理由は分からない。


 ただ、次に来たときは時間だけではなく、音も聞いておかなければならない気がした。


 次の周。


 遠くから単気筒の音が近づいてくる。


 チュチマには、またほんの短いあいだだけ声が届いた。


【上まで回すと、前より熱い】


『どこが熱い』


 しかし、そのときにはもう司郎は誠の前を通り過ぎていた。


『待て、最後まで言え』


 声は届かない。


 誠は時計ではなく、今度はYA-1の音に集中していた。


 近づいてくる。


 通り過ぎる。


 遠ざかる。


 眉が動いた。


「……音、変わった」


 次の周でも、同じように聞いた。


 間違いない。


 わずかではあるが、最初とは違っている。


 競技が終わると、司郎の順位は真ん中より少し上だった。


 戻ってきた本人は、満足するどころか悔しそうだった。


「くそ。もっと速くねえと駄目だ」


 誠は返事をせず、すぐにYA-1の横へしゃがみ込んだ。


 エンジンが止まり、車体がすぐ近くへ戻ってきたことで、チュチマには再びYA-1の声が明瞭に聞こえるようになった。


【熱かった】


『どこが』


【上まで回したとき。いつもより苦しかった】


『だから、どこが苦しい』


【それは分からない】


『……お前たちは』


 誠はそんな会話を知らず、プラグ、チェーン、ブレーキ、漏れ、緩みを順に見ていた。


「聞いてる?」


 司郎が言った。


「後半、音変わってた」


「どこが」


「まだ分からん」


「分からんのかよ」


「だから見る」


 エンジンが冷えるのを待ちながら、誠は触れる前に、どこがどれくらい熱を持っているのかも確かめた。


 以前なら、源一に言われてから見ていた。


 今は、違和感を覚えれば自分から見る。


 そして、見ただけでは終わらず、確かめる。


 司郎はしばらく黙って、その様子を眺めていた。


「なあ」


「何」


「俺、もっと速くしたいんだけど」


「うん」


「できる?」


 誠はYA-1を見た。


「分からん」


「またそれかよ」


「でも」


 誠は顔を上げた。


「どうしたら速くなるか、知りたい」


 司郎が笑った。


「じゃあ決まりだ」


「何が」


「次も出る」


「それはお前が決めることだろ」


     *


 その晩、誠は刈屋のところへ行った。


「聞きたいことある」


「何だ」


「単車を速くするには、どうしたらいい?」


 刈屋は読んでいた本から顔を上げた。


「何を速くしたい」


「単車」


「それでは質問になっていない」


「なんで」


「最高速度か」


「……うん」


「加速か」


「それも」


「発進か。中間加速か。登坂か」


「全部」


「欲張るな」


 誠は少し考えた。


「じゃあ馬力上げればいい?」


「条件による」


「軽くすれば?」


「条件による」


「ギヤ変えれば?」


「条件による」


 答えるたびに同じ言葉が返ってくるので、誠は眉を寄せた。


「何なら決まるの」


「だから勉強している」


「そればっかりだな」


「便利な言葉だからな」


 刈屋は紙を一枚出し、そこへ線を引いた。


「まず、速いとは何か決めろ」


「速いは速いだろ」


「違う。同じ距離を短い時間で走るのか。一定時間で遠くまで行くのか。停止状態から速度を得るまでを短くするのか。それぞれ必要なものが違う」


 誠は紙を見た。


「全部、速いのに?」


「だから面白いんだ」


「面倒くさいな」


「機械は、お前が面倒くさがったからといって簡単にはならない」


 誠が顔を上げた。


「それ前も言った」


「なら覚えておけ」


     *


 次の休みの日、司郎はまたYA-1で工場へ来た。


 誠が前の競技で気になったところを確かめ、少し走らせる。戻ってくればまた見る。その作業を何度か繰り返したあと、司郎が言った。


「なあ片桐。次、お前も出ろよ」


「競技?」


「そう」


 誠は少し考えた。


 乗るのは面白かった。速く走るのも嫌いではない。YA-1に跨がったときの、自分の右手とエンジンが直接つながっているような感覚も好きだった。


 それでも、答えは決まっていた。


「俺はいい」


「なんで」


「こっちの方が面白い」


 誠は手にしていた工具を少し持ち上げた。


「乗るより?」


「うん」


「変な奴」


「よく言われる」


 司郎は笑ってYA-1に跨がった。


 エンジンを掛けると、今度は一発で始動した。


【今日は軽いな】


『調子はいいか』


【いい。走ってくる】


『壊れるなよ』


【それ、持ち主にも言ってくれ】


 司郎がアクセルを軽く開けた。


「じゃあ行ってくる」


「壊すなよ」


「競走するんだから無理!」


「帰ってきたら見るから」


「おう!」


 YA-1が動き出した。


【じゃあな】


 その声は、工場を離れるにつれて急速に薄くなり、やがて聞こえなくなった。


 チュチマは遠ざかっていく小さな単気筒の音を聞いていた。


 かつて聞いてきた機械の声とは、ずいぶん違う。


 飛べ。追え。逃げろ。帰れ。


 あのころ、機械の声の向こうには、いつも戦争があった。


 だが、あの小さな単車は違う。


 誰かを撃ち落とすためでもなければ、生きて基地へ戻るためでもない。ただ一人の若者を乗せ、一緒に走ることを楽しんでいる。


『こういう使われ方も、あるのか』


 誠には、その声も届かなかった。


 ただ、遠ざかっていく排気音を聞きながら、少しだけ笑っていた。


 司郎は、どうすればもっと速く走れるかを考えていた。


 誠は、どうすればもっとよく走らせられるかを考えていた。


 同じ二つの車輪を見ながら、二人はもう、少し違うものを見始めていた。


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