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現代の付喪神は、時計の姿で顕現する。外伝2父ちゃん編  作者: lemonia


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3/14

卒業

 卒業証書は、思っていたより薄かった。


 三年間通った学校を出るのだから、もう少し何かあるのかと思っていたが、式が終わってしまえば、それだけだった。誠は学生服のまま家へ戻ると、卒業証書を机の上へ置き、仏壇の前に座った。母の写真は、いつもと同じ顔でこちらを見ている。


「終わったよ」


 返事はない。線香を一本立て、その煙がゆっくり昇っていくのを見ながら、誠はしばらく座っていた。


 卒業した。明日から学校へ行かなくていい。


 嬉しいのか寂しいのか、自分でもよく分からなかった。ただ、明日から何をするのかだけは決まっている。それは今日決めたことではなく、もう数か月も前に決めたことだった。


     *


 冬の初め、刈屋と水野が家へ来た。


 ふみが亡くなってから、二人は折に触れて誠の様子を見に来ていた。水野は以前から家へ出入りしていた「水野のおじさん」で、刈屋は母が病床についてから、生活や金のことまで含めて、誠のこれからを気に掛けるようになっていた。


 その日の話題は、進路だった。


「高校へ行きたいんなら、金のことは気にせんでええ」


 水野がそう言うと、刈屋も静かに続けた。


「お前が進学する程度のものは残されている。生活についても、すぐに困るような状態ではない。だから、金を理由に決める必要はない」


 誠は二人の話を黙って聞いていた。


「どうしたい」


 刈屋に聞かれ、少しも迷わず答えた。


「源さんとこで働く」


 二人ともすぐには何も言わなかった。先に口を開いたのは水野だった。


「もう決めとるんか」


「うん」


「高校は行かんのか」


「行かない」


「勉強が嫌いか」


「別に」


「じゃあ、なんでじゃ」


 そこで誠は少し考えた。


 源一の工場へ行けば、毎日のように違うものが入ってくる。音のおかしい車、煙を吐く車、途中で動かなくなった車。源一はそれを見て、聞いて、触りながら原因を探し、最後にはまた走れるようにして帰していく。


 誠には、その過程が面白かった。


「面白いから」


 水野が笑った。


「それだけか」


「それじゃ駄目?」


「いや」


 水野は首を振った。


「ええと思う」


 刈屋はまだ誠を見ていた。


「源一には話したのか」


「まだ」


「先に本人に聞け」


「うん」


「断られたら」


「考える」


「高校へ行くか」


「それは別」


 水野がまた笑い、「頑固じゃの」と言った。その言葉を聞いた瞬間、刈屋と水野が一度だけ顔を見合わせたのを、誠は見逃さなかった。


「何」


「いや」


 水野が少し懐かしそうな顔をした。


「ちょっと親父さんを思い出しただけじゃ」


 誠は父の顔をほとんど覚えていない。写真の中の男なら知っている。飛行服を着た男。母の隣に立っている男。そして、その左腕には、いま誠が着けているのと同じ時計がある。


「俺、親父に似てる?」


「顔はあんまり似とらんな」


「そうなんだ」


「そこ、残念そうにするとこか?」


「別に」


 水野は少し考えてから、今度はゆっくり聞いた。


「親父さんみたいになりたいと思うか」


 誠も考えた。ただ、答えは意外なほど早く出た。


「分からん」


「分からん?」


「親父のこと、よく知らんから」


 水野は黙った。


 しばらくして、「……そうじゃな」と小さくうなずいた。


「それでええ。お前はお前じゃ」


 誠の左腕では、チュチマが静かに時を刻んでいた。


 その言葉に、反論する者はいなかった。


     *


 卒業式を終えた日の午後、誠は学生服のまま源一の工場へ向かった。


 源一は車の下へ潜り込んでいた。誠が「源さん」と呼ぶと、車体の下から「おう」とだけ返ってくる。


「終わった」


「何が」


「学校」


 少し間を置いて、源一の顔が車の下から出てきた。


「そうか」


「うん」


「じゃあ着替えろ」


「今日も?」


「暇なんだろ」


 昨日までと何も変わらない。そのことに誠は少し拍子抜けしたが、考えてみれば源一にとっては卒業式など仕事とは関係がない。


「源さん」


「今度は何だ」


「明日からも来る」


「勝手に来い」


「朝から」


 今度は源一の手が止まった。寝板を滑らせて車の下から出てくると、油のついた手を布で拭きながら誠を見る。


「高校は」


「行かない」


「金がねえのか」


「ある」


「じゃあ行け」


「嫌だ」


「なんで」


「ここで働きたい」


 源一はすぐには答えず、誠の顔を見た。


「車が好きだからか」


「機械が好きだから」


「同じだろ」


「違う」


「この前も誰かとそんな話してなかったか、お前」


「司郎」


「あのうるせえ奴か」


「うん」


 源一は立ち上がると、煙草を一本取り出した。


「親代わりの連中は何て言ってる」


「自分で決めろって」


「刈屋もか」


「うん」


「そうか」


 火をつけ、一服してから、源一は言った。


「給料、安いぞ」


「今までよりは出る?」


「今まで小遣いだったからな」


「じゃあいい」


「よくねえよ。そこはもうちょっと考えろ」


 誠が首を傾げると、源一は煙を吐いた。


「明日から朝八時。遅刻したら帰す。掃除もするし、部品も洗う」


「今もしてる」


「そうだな」


 そこで源一の声が少し変わった。


「でも、客の車にも触らせる」


 誠は黙った。


「今までは間違えても、俺が止めりゃ済んだ。これからは仕事だ。知らなかった、分からなかったじゃ済まねえこともある」


「うん」


「分からなかったら」


「聞く」


「分かったふりは」


「しない」


 源一はそれでようやくうなずいた。


「じゃあ明日から来い」


「うん」


「今日は着替えろ」


「結局働くの?」


「当たり前だ」


 卒業したその日も、誠はいつものように学生服を脱ぎ、油の匂いの染みついた作業着へ着替えた。


     *


 学校へ行かなくなったからといって、勉強が終わったわけではなかった。


 それを誠が知ったのは、一週間もしないうちだった。


 仕事を終えて帰ろうとしたところで、工場の隅に刈屋が座っているのが見えた。目の前には、見覚えのないノートが一冊置かれている。


「何してるの」


「待っていた」


「俺を?」


「そうだ」


「なんで」


「勉強するぞ」


 誠はしばらく刈屋を見た。


「学校、終わったよ」


「学校が終わっただけだ」


「働いてるんだけど」


「知っている」


「疲れてる」


「それも知っている」


「帰りたい」


「一時間でいい」


 横から源一まで「やっとけ」と口を挟んだ。


「源さんまで」


「俺に聞いても分からんことが、そのうち出てくる」


 刈屋がノートを開く。


「まず数学だ」


「なんで」


「機械を扱うからだ」


「足し算くらいできるよ」


「では聞こう」


 刈屋は作業台の上にあった円筒形の部品を指した。


「直径は」


 誠は迷わずノギスを取った。


「測れば分かる」


「行程は」


「測れば分かる」


「では、直径と行程が分かれば、何が分かる」


「大きさ」


「どういう大きさだ」


 誠は少し考えたあと、両手で部品の輪郭を示した。


「……これくらい」


 源一が吹き出した。


「笑うな」


「悪い悪い」


 刈屋は表情を変えずに続けた。


「円の面積は」


「習った」


「式は」


 誠は黙った。


「習ったんだろう」


「忘れた」


「では、そこからだ」


「面倒くさい」


「機械は、お前が面倒くさがったからといって簡単にはならない」


 助けを求めるように源一を見ると、源一は首を振った。


「無理だ」


「親方だろ」


「こういうときだけ親方って呼ぶな」


 結局、その日から刈屋の授業が始まった。


 最初は中学校で習ったことばかりだったが、学校で黒板を見ていたころとは感触が違った。直径を測り、その数字から面積を求め、さらに長さを掛けると、目の前にある鉄の塊の内側で何が起きているのかを、数字でも捉えられるようになる。


 学校では何に使うのか分からなかった式が、工場では実物につながっていた。


「……これなら分かる」


 誠が言うと、刈屋が顔を上げた。


「何が」


「何のために計算するのか」


 刈屋は初めて少し笑った。


「なら覚えろ」


     *


 司郎が工場へやって来たのは、その数日後だった。


 小脇に雑誌を抱え、いつものように遠慮なく作業台のところまで入ってくると、それを開いて誠の前へ押し出した。


「片桐、見ろ」


 ページいっぱいに、土煙を上げて走るオートバイが載っている。


「これが浅間」


「この前言ってたやつ?」


「そう。去年のやつ」


 誠は雑誌を引き寄せた。


 舗装された道ではない。荒れた路面の上を、何台ものオートバイが土を跳ね上げながら走っている。


「これもヤマハ?」


「そう」


 司郎が写真の中の一台を指した。


「YA」


 誠は写真へ顔を近づけた。


「違うじゃん」


「何が」


「お前のと」


「当たり前だ。レーサーだぞ」


「同じYAじゃないの?」


「元はな。競争用に手ぇ入れてあるんだよ」


 誠はもう一度写真を見た。同じ機械でも、目的が違えば形も変わるらしい。


「何が違うの」


「いろいろ」


「どこが」


「いろいろだよ」


「知らないの?」


「……うるせえな」


 司郎は逃げるようにページをめくった。


「とにかく、こういうところで走るんだよ」


「誰が」


「俺が」


 誠は雑誌から顔を上げた。


「レースに出るの?」


「出る」


「いつ」


「これから」


「どこで」


「それを探してんだよ」


「決まってないの?」


「夢ってのは最初から日程表ついてねえんだよ!」


 工場の奥で源一が笑ったが、司郎は聞こえないふりをした。


「浅間みたいなところで走る。もっと上でもいい」


「ふうん」


「反応薄いな、お前」


「走りたいんだろ」


「そうだよ」


「じゃあ走れば」


「簡単に言うなよ」


 誠はまた雑誌へ目を落とした。


 競走そのものより、写真に写ったオートバイの方が気になった。司郎のYA-1と同じところ。違うところ。その違いが、なぜ必要なのか。


「これ、速くするために変えてるの?」


「そうだろ」


「速くすると壊れない?」


「またそれかよ」


 司郎は呆れたように雑誌を閉じた。


「お前さ、一回、俺のYA見てくれよ」


「見たじゃん」


「見るんじゃなくて、ちゃんと」


「源さんみたいに?」


「そう」


「無理だよ。俺、まだ何も分からん」


「分かるところだけでいい」


 誠は少し考えた。


「源さんに聞く」


「そこは即答じゃねえんだな」


「客のじゃないけど、人の機械だから」


 司郎はしばらく誠を見ていた。


「お前、変なところ真面目だよな」


「普通だろ」


     *


 数日後、司郎のYA-1は工場の片隅に置かれていた。


 源一の許可は出たが、「仕事の邪魔にならねえところでやれ。壊しても俺は知らん」とだけ言われた。


「壊すなよ」


 司郎が念を押す。


「だから嫌だったんだよ」


「頼むって」


 誠はしゃがみ込み、まず車体を眺めた。


 初めてこの単車を見たとき、誠はただ珍しさに目を奪われていた。だが今は、見るところが違う。チェーンのたるみ、ワイヤーの張り、油の滲み、ボルトの状態。分からないところはまだ山ほどあるが、少なくとも、何を見ればいいのかを少しずつ覚え始めていた。


「どう?」


 後ろで待っている司郎が聞いた。


「まだ何もしてない」


「見てるじゃん」


「見るのも仕事なんだよ」


「もう職人気取りか」


「源さんがそうしてるから」


 誠は後輪を浮かせてもらい、手で回してみた。


 回る。


 けれど、何かが少し引っ掛かるような気がする。


【後ろが重い】


 その声を聞いたのはチュチマだった。


『後ろ?』


【走ると、少し引っ張られる】


『どこが悪い』


【それは分からない】


『何か感じるだろう』


【回るのが、前より重い】


 チュチマは、誠の腕で時を刻みながらYA-1を見た。


『誠。後ろだ。後ろが重い』


 声は届かない。


 それでも誠は、なぜかもう一度後輪へ目を戻した。


「……なんだろ」


 手でもう一度回す。今度はさっきより意識して回してみると、確かに少し重いような気がした。


 誠は今度はチェーンへ目を移し、指で押してみた。


「……これ、張りすぎじゃない?」


「そうなの?」


「知らん」


「知らんのかよ!」


「だから確かめる」


 誠が工場の奥へ顔を向ける。


「源さん」


「自分で見ろ」


「基準知らん」


「じゃあ調べろ」


 整備資料を渡され、誠は数字を確認してから、もう一度チェーンを見る。


「やっぱり張りすぎてる」


「それで重かったの?」


「たぶん」


「たぶん?」


「直してから確かめる」


 チェーンを適正な状態へ調整し、もう一度後輪を回す。


 さっきより明らかに軽かった。


「違う」


「マジ?」


 司郎も回してみたが、すぐに首を傾げた。


「……分からん」


「じゃあなんで聞いたんだよ」


「いや、片桐が嬉しそうだから」


「別に嬉しくない」


 そう言いながら、誠はもう一度後輪を回した。


【軽くなった】


『さっきの重さは消えたか』


【うん。これなら走りやすい】


『そうか』


 誠には聞こえない。


 だが、同じところを見つけていた。


 チュチマは少し考えた。


 自分が伝えたのだろうか。


 それとも、この少年が自分で見つけたのだろうか。


 まだ分からなかった。


     *


 夜になり、仕事が終わった工場で、誠は作業台に向かっていた。


 少し離れたところでは源一が帳面をつけている。誠の前には刈屋から渡されたノートが開かれ、その横には昼間使っていたノギスが置いてあった。


 誠は数字を書き、式を組み、間違えれば消してまた書いた。昼間なら測って終わるはずの寸法が、夜になると数字の中で別の意味を持ち始める。


 外からオートバイの音が聞こえてきた。


 小さな単気筒の音だった。


 誠は鉛筆を止めた。


 音は近づき、工場の前を通り過ぎていく。


「司郎だ」


 源一が帳面から顔を上げた。


「分かるのか」


「うん」


「なんで」


「音」


 誠は少し耳を澄ませ、遠ざかっていく排気音を聞いてから付け加えた。


「今日は一発で掛かったみたい」


「そこまで分かるかよ」


「なんとなく」


 源一は笑った。


 誠はまたノートへ目を戻し、鉛筆を動かし始めた。


 左腕では、チュチマが時を刻んでいる。


『そうだな』


 その声は、まだ届かない。


 学校は終わった。


 けれど誠にとって、機械を学ぶ時間は、その春から始まった。


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