卒業
卒業証書は、思っていたより薄かった。
三年間通った学校を出るのだから、もう少し何かあるのかと思っていたが、式が終わってしまえば、それだけだった。誠は学生服のまま家へ戻ると、卒業証書を机の上へ置き、仏壇の前に座った。母の写真は、いつもと同じ顔でこちらを見ている。
「終わったよ」
返事はない。線香を一本立て、その煙がゆっくり昇っていくのを見ながら、誠はしばらく座っていた。
卒業した。明日から学校へ行かなくていい。
嬉しいのか寂しいのか、自分でもよく分からなかった。ただ、明日から何をするのかだけは決まっている。それは今日決めたことではなく、もう数か月も前に決めたことだった。
*
冬の初め、刈屋と水野が家へ来た。
ふみが亡くなってから、二人は折に触れて誠の様子を見に来ていた。水野は以前から家へ出入りしていた「水野のおじさん」で、刈屋は母が病床についてから、生活や金のことまで含めて、誠のこれからを気に掛けるようになっていた。
その日の話題は、進路だった。
「高校へ行きたいんなら、金のことは気にせんでええ」
水野がそう言うと、刈屋も静かに続けた。
「お前が進学する程度のものは残されている。生活についても、すぐに困るような状態ではない。だから、金を理由に決める必要はない」
誠は二人の話を黙って聞いていた。
「どうしたい」
刈屋に聞かれ、少しも迷わず答えた。
「源さんとこで働く」
二人ともすぐには何も言わなかった。先に口を開いたのは水野だった。
「もう決めとるんか」
「うん」
「高校は行かんのか」
「行かない」
「勉強が嫌いか」
「別に」
「じゃあ、なんでじゃ」
そこで誠は少し考えた。
源一の工場へ行けば、毎日のように違うものが入ってくる。音のおかしい車、煙を吐く車、途中で動かなくなった車。源一はそれを見て、聞いて、触りながら原因を探し、最後にはまた走れるようにして帰していく。
誠には、その過程が面白かった。
「面白いから」
水野が笑った。
「それだけか」
「それじゃ駄目?」
「いや」
水野は首を振った。
「ええと思う」
刈屋はまだ誠を見ていた。
「源一には話したのか」
「まだ」
「先に本人に聞け」
「うん」
「断られたら」
「考える」
「高校へ行くか」
「それは別」
水野がまた笑い、「頑固じゃの」と言った。その言葉を聞いた瞬間、刈屋と水野が一度だけ顔を見合わせたのを、誠は見逃さなかった。
「何」
「いや」
水野が少し懐かしそうな顔をした。
「ちょっと親父さんを思い出しただけじゃ」
誠は父の顔をほとんど覚えていない。写真の中の男なら知っている。飛行服を着た男。母の隣に立っている男。そして、その左腕には、いま誠が着けているのと同じ時計がある。
「俺、親父に似てる?」
「顔はあんまり似とらんな」
「そうなんだ」
「そこ、残念そうにするとこか?」
「別に」
水野は少し考えてから、今度はゆっくり聞いた。
「親父さんみたいになりたいと思うか」
誠も考えた。ただ、答えは意外なほど早く出た。
「分からん」
「分からん?」
「親父のこと、よく知らんから」
水野は黙った。
しばらくして、「……そうじゃな」と小さくうなずいた。
「それでええ。お前はお前じゃ」
誠の左腕では、チュチマが静かに時を刻んでいた。
その言葉に、反論する者はいなかった。
*
卒業式を終えた日の午後、誠は学生服のまま源一の工場へ向かった。
源一は車の下へ潜り込んでいた。誠が「源さん」と呼ぶと、車体の下から「おう」とだけ返ってくる。
「終わった」
「何が」
「学校」
少し間を置いて、源一の顔が車の下から出てきた。
「そうか」
「うん」
「じゃあ着替えろ」
「今日も?」
「暇なんだろ」
昨日までと何も変わらない。そのことに誠は少し拍子抜けしたが、考えてみれば源一にとっては卒業式など仕事とは関係がない。
「源さん」
「今度は何だ」
「明日からも来る」
「勝手に来い」
「朝から」
今度は源一の手が止まった。寝板を滑らせて車の下から出てくると、油のついた手を布で拭きながら誠を見る。
「高校は」
「行かない」
「金がねえのか」
「ある」
「じゃあ行け」
「嫌だ」
「なんで」
「ここで働きたい」
源一はすぐには答えず、誠の顔を見た。
「車が好きだからか」
「機械が好きだから」
「同じだろ」
「違う」
「この前も誰かとそんな話してなかったか、お前」
「司郎」
「あのうるせえ奴か」
「うん」
源一は立ち上がると、煙草を一本取り出した。
「親代わりの連中は何て言ってる」
「自分で決めろって」
「刈屋もか」
「うん」
「そうか」
火をつけ、一服してから、源一は言った。
「給料、安いぞ」
「今までよりは出る?」
「今まで小遣いだったからな」
「じゃあいい」
「よくねえよ。そこはもうちょっと考えろ」
誠が首を傾げると、源一は煙を吐いた。
「明日から朝八時。遅刻したら帰す。掃除もするし、部品も洗う」
「今もしてる」
「そうだな」
そこで源一の声が少し変わった。
「でも、客の車にも触らせる」
誠は黙った。
「今までは間違えても、俺が止めりゃ済んだ。これからは仕事だ。知らなかった、分からなかったじゃ済まねえこともある」
「うん」
「分からなかったら」
「聞く」
「分かったふりは」
「しない」
源一はそれでようやくうなずいた。
「じゃあ明日から来い」
「うん」
「今日は着替えろ」
「結局働くの?」
「当たり前だ」
卒業したその日も、誠はいつものように学生服を脱ぎ、油の匂いの染みついた作業着へ着替えた。
*
学校へ行かなくなったからといって、勉強が終わったわけではなかった。
それを誠が知ったのは、一週間もしないうちだった。
仕事を終えて帰ろうとしたところで、工場の隅に刈屋が座っているのが見えた。目の前には、見覚えのないノートが一冊置かれている。
「何してるの」
「待っていた」
「俺を?」
「そうだ」
「なんで」
「勉強するぞ」
誠はしばらく刈屋を見た。
「学校、終わったよ」
「学校が終わっただけだ」
「働いてるんだけど」
「知っている」
「疲れてる」
「それも知っている」
「帰りたい」
「一時間でいい」
横から源一まで「やっとけ」と口を挟んだ。
「源さんまで」
「俺に聞いても分からんことが、そのうち出てくる」
刈屋がノートを開く。
「まず数学だ」
「なんで」
「機械を扱うからだ」
「足し算くらいできるよ」
「では聞こう」
刈屋は作業台の上にあった円筒形の部品を指した。
「直径は」
誠は迷わずノギスを取った。
「測れば分かる」
「行程は」
「測れば分かる」
「では、直径と行程が分かれば、何が分かる」
「大きさ」
「どういう大きさだ」
誠は少し考えたあと、両手で部品の輪郭を示した。
「……これくらい」
源一が吹き出した。
「笑うな」
「悪い悪い」
刈屋は表情を変えずに続けた。
「円の面積は」
「習った」
「式は」
誠は黙った。
「習ったんだろう」
「忘れた」
「では、そこからだ」
「面倒くさい」
「機械は、お前が面倒くさがったからといって簡単にはならない」
助けを求めるように源一を見ると、源一は首を振った。
「無理だ」
「親方だろ」
「こういうときだけ親方って呼ぶな」
結局、その日から刈屋の授業が始まった。
最初は中学校で習ったことばかりだったが、学校で黒板を見ていたころとは感触が違った。直径を測り、その数字から面積を求め、さらに長さを掛けると、目の前にある鉄の塊の内側で何が起きているのかを、数字でも捉えられるようになる。
学校では何に使うのか分からなかった式が、工場では実物につながっていた。
「……これなら分かる」
誠が言うと、刈屋が顔を上げた。
「何が」
「何のために計算するのか」
刈屋は初めて少し笑った。
「なら覚えろ」
*
司郎が工場へやって来たのは、その数日後だった。
小脇に雑誌を抱え、いつものように遠慮なく作業台のところまで入ってくると、それを開いて誠の前へ押し出した。
「片桐、見ろ」
ページいっぱいに、土煙を上げて走るオートバイが載っている。
「これが浅間」
「この前言ってたやつ?」
「そう。去年のやつ」
誠は雑誌を引き寄せた。
舗装された道ではない。荒れた路面の上を、何台ものオートバイが土を跳ね上げながら走っている。
「これもヤマハ?」
「そう」
司郎が写真の中の一台を指した。
「YA」
誠は写真へ顔を近づけた。
「違うじゃん」
「何が」
「お前のと」
「当たり前だ。レーサーだぞ」
「同じYAじゃないの?」
「元はな。競争用に手ぇ入れてあるんだよ」
誠はもう一度写真を見た。同じ機械でも、目的が違えば形も変わるらしい。
「何が違うの」
「いろいろ」
「どこが」
「いろいろだよ」
「知らないの?」
「……うるせえな」
司郎は逃げるようにページをめくった。
「とにかく、こういうところで走るんだよ」
「誰が」
「俺が」
誠は雑誌から顔を上げた。
「レースに出るの?」
「出る」
「いつ」
「これから」
「どこで」
「それを探してんだよ」
「決まってないの?」
「夢ってのは最初から日程表ついてねえんだよ!」
工場の奥で源一が笑ったが、司郎は聞こえないふりをした。
「浅間みたいなところで走る。もっと上でもいい」
「ふうん」
「反応薄いな、お前」
「走りたいんだろ」
「そうだよ」
「じゃあ走れば」
「簡単に言うなよ」
誠はまた雑誌へ目を落とした。
競走そのものより、写真に写ったオートバイの方が気になった。司郎のYA-1と同じところ。違うところ。その違いが、なぜ必要なのか。
「これ、速くするために変えてるの?」
「そうだろ」
「速くすると壊れない?」
「またそれかよ」
司郎は呆れたように雑誌を閉じた。
「お前さ、一回、俺のYA見てくれよ」
「見たじゃん」
「見るんじゃなくて、ちゃんと」
「源さんみたいに?」
「そう」
「無理だよ。俺、まだ何も分からん」
「分かるところだけでいい」
誠は少し考えた。
「源さんに聞く」
「そこは即答じゃねえんだな」
「客のじゃないけど、人の機械だから」
司郎はしばらく誠を見ていた。
「お前、変なところ真面目だよな」
「普通だろ」
*
数日後、司郎のYA-1は工場の片隅に置かれていた。
源一の許可は出たが、「仕事の邪魔にならねえところでやれ。壊しても俺は知らん」とだけ言われた。
「壊すなよ」
司郎が念を押す。
「だから嫌だったんだよ」
「頼むって」
誠はしゃがみ込み、まず車体を眺めた。
初めてこの単車を見たとき、誠はただ珍しさに目を奪われていた。だが今は、見るところが違う。チェーンのたるみ、ワイヤーの張り、油の滲み、ボルトの状態。分からないところはまだ山ほどあるが、少なくとも、何を見ればいいのかを少しずつ覚え始めていた。
「どう?」
後ろで待っている司郎が聞いた。
「まだ何もしてない」
「見てるじゃん」
「見るのも仕事なんだよ」
「もう職人気取りか」
「源さんがそうしてるから」
誠は後輪を浮かせてもらい、手で回してみた。
回る。
けれど、何かが少し引っ掛かるような気がする。
【後ろが重い】
その声を聞いたのはチュチマだった。
『後ろ?』
【走ると、少し引っ張られる】
『どこが悪い』
【それは分からない】
『何か感じるだろう』
【回るのが、前より重い】
チュチマは、誠の腕で時を刻みながらYA-1を見た。
『誠。後ろだ。後ろが重い』
声は届かない。
それでも誠は、なぜかもう一度後輪へ目を戻した。
「……なんだろ」
手でもう一度回す。今度はさっきより意識して回してみると、確かに少し重いような気がした。
誠は今度はチェーンへ目を移し、指で押してみた。
「……これ、張りすぎじゃない?」
「そうなの?」
「知らん」
「知らんのかよ!」
「だから確かめる」
誠が工場の奥へ顔を向ける。
「源さん」
「自分で見ろ」
「基準知らん」
「じゃあ調べろ」
整備資料を渡され、誠は数字を確認してから、もう一度チェーンを見る。
「やっぱり張りすぎてる」
「それで重かったの?」
「たぶん」
「たぶん?」
「直してから確かめる」
チェーンを適正な状態へ調整し、もう一度後輪を回す。
さっきより明らかに軽かった。
「違う」
「マジ?」
司郎も回してみたが、すぐに首を傾げた。
「……分からん」
「じゃあなんで聞いたんだよ」
「いや、片桐が嬉しそうだから」
「別に嬉しくない」
そう言いながら、誠はもう一度後輪を回した。
【軽くなった】
『さっきの重さは消えたか』
【うん。これなら走りやすい】
『そうか』
誠には聞こえない。
だが、同じところを見つけていた。
チュチマは少し考えた。
自分が伝えたのだろうか。
それとも、この少年が自分で見つけたのだろうか。
まだ分からなかった。
*
夜になり、仕事が終わった工場で、誠は作業台に向かっていた。
少し離れたところでは源一が帳面をつけている。誠の前には刈屋から渡されたノートが開かれ、その横には昼間使っていたノギスが置いてあった。
誠は数字を書き、式を組み、間違えれば消してまた書いた。昼間なら測って終わるはずの寸法が、夜になると数字の中で別の意味を持ち始める。
外からオートバイの音が聞こえてきた。
小さな単気筒の音だった。
誠は鉛筆を止めた。
音は近づき、工場の前を通り過ぎていく。
「司郎だ」
源一が帳面から顔を上げた。
「分かるのか」
「うん」
「なんで」
「音」
誠は少し耳を澄ませ、遠ざかっていく排気音を聞いてから付け加えた。
「今日は一発で掛かったみたい」
「そこまで分かるかよ」
「なんとなく」
源一は笑った。
誠はまたノートへ目を戻し、鉛筆を動かし始めた。
左腕では、チュチマが時を刻んでいる。
『そうだな』
その声は、まだ届かない。
学校は終わった。
けれど誠にとって、機械を学ぶ時間は、その春から始まった。




