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現代の付喪神は、時計の姿で顕現する。外伝2父ちゃん編  作者: lemonia


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2/14

聞くことから

初の連載となります。


ご意見、ご感想等いただけますと、五体投地して喜びます。


 時計が直ってからも、誠は工場へ通っていた。


 学校が終わると家へ鞄を置き、着替えてから町外れへ向かう。母が死んで以来、帰ったところで誰かが待っている家ではなくなったということもあったが、それだけではない。工場へ行けば、いつも何かが動いていた。


 金槌が鉄を叩く。圧縮空気が短く吐き出される。工具が床へ落ちれば源一の悪態が飛び、朝には咳き込むような音を立てていた車が、夕方には何事もなかったように自分の力で走って帰っていく。


 何をどうすれば、あれほど調子の悪かった機械が元へ戻るのか。誠にはまだほとんど分からなかった。ただ、分からないからこそ見ていて飽きなかった。


 ある日、いつものように工場へ入り、壁に立て掛けてある箒へ手を伸ばしたところで、源一に呼び止められた。


「お前、時計はどうした」


 誠は左腕を上げて見せた。黒い文字盤の上で、二本の針が時を示している。


「直った」


「見りゃ分かる」


 源一はそう言ってから、しばらく誠の顔を見ていた。


「じゃあ、もう来なくていいぞ」


「なんで」


「なんでって、お前、時計直す金を稼ぎに来てたんだろ」


「そうだけど」


「直っただろ」


「うん」


「じゃあ終わりだ」


 言われてみればその通りだった。最初にここへ来た目的は、父の時計を修理する金を稼ぐことだった。その金はもう払い終え、時計は左腕で正確に動いている。ここへ来なければならない理由は、もうない。


 誠は箒を持ったまま工場の中を見た。ボンネットを開けた小型トラックが一台、奥には外された部品が並び、作業台の上には自分にはまだ名前も分からない工具が置かれている。


「でも、面白いから来る」


 源一がくわえていた煙草を口から外した。


「何が」


「これ」


「どれだよ」


「全部」


 源一は何も言わずに煙草を灰皿へ押しつけた。それから箒を指した。


「置け」


「掃除しなくていいの?」


「後でやれ」


 源一は小型トラックのところまで歩き、ボンネットの中へ腕を入れた。


「十」


 誠は工具箱から十ミリのスパナを取って渡した。


「十二」


 十二ミリ。


「十四」


 十四ミリ。


 ここへ来たばかりのころは、言われるたびに刻印を確かめていた。今では工具箱のどこに何が入っているかも、だいたい覚えているし、刻印を確かめるまでもなくサイズはわかる。


「覚えたな」


「毎日やってるから」


「じゃあ次だ」


 源一が取り外した部品を誠へ渡した。


「洗え」


「いつもと同じじゃん」


「同じじゃねえ。今日は洗う前に見ろ」


 何を見るのかと尋ねても、源一は教えなかった。


 誠は油で黒く汚れた部品を手の中で回してみた。形を見る。穴を見る。指で表面をなぞってみる。だが、何が正しくて何がおかしいのか、そもそも正常な状態どころか、何に使うものかさえ知らないのだから分かるはずがない。


「分からん」


「それでいい」


「いいの?」


「分かったふりするよりはな」


 源一は部品の一か所を指した。言われて目を近づけると、そこだけ表面の形がわずかに違っている。


「減ってる」


「そうだ。じゃあ、こっちは」


 別のところも同じように見える。


「こっちも減ってる?」


「これは最初からそういう形だ」


「分からん」


「だから覚えろ」


 源一は部品を誠の手へ戻した。


「汚れてるから洗うんじゃねえ。洗って、何が起きてるか見るんだ」


 誠はもう一度、部品を眺めた。


 昨日までなら、ただ油で汚れた鉄の塊にしか見えなかったものだった。だが、同じ形に見えるところにも理由があり、違って見えるところにも理由があるらしい。


 それを知っている人間には、何かが見えている。


 誠にはまだ、それが見えなかった。


     *


 学校で腕時計をしている生徒は、いないわけではなかった。


 ただ、誠の時計は少し目立った。黒い文字盤に二つのインダイヤル。普通の時計より厚みがあり、竜頭の上下には二つの押しボタンまで付いている。自分ではもう見慣れてしまったが、同級生には珍しく見えるらしい。


「片桐、それ何だ?」


 休み時間に同級生から聞かれ、誠は左腕を見た。


「時計」


「見りゃ分かるわ」


 最近、なぜか同じ返事をよく聞く。


「外国の?」


「ドイツらしい」


「へえ。すげえじゃん」


「古いよ」


「親父さんの?」


「うん」


 会話はそれだけだった。


 ところが、誰かが誰かへ話し、その誰かがまた別の誰かへ話したらしい。数日後、学校からの帰り道で、顔を知っている年上の少年三人に呼び止められた。


「片桐。お前、すげえ時計持ってるんだって?」


「すごいかどうかは知らん」


「見せろよ」


 誠は左腕を上げた。


「ほら」


「外せよ。それじゃよく見えねえだろ」


「ここで見ればいいじゃん」


 それまで笑っていた一人が、誠の左手首を掴んだ。


「貸せって」


「嫌だ」


「見るだけだよ」


「じゃあ外さなくていいだろ」


 掴んだ手に力が入った。誠が腕を引くと、今度は肩を押された。


「何だよ。生意気だな」


 最初の一発は頬だった。


 殴られたと気づいたときには、誠は地面に片手をついていた。口の中に鉄の味が広がり、遅れて頬が熱くなる。立ち上がろうとしたところへ今度は腹を蹴られ、息が詰まった。


 喧嘩などしたことがない。三人を相手に勝てるとも思わなかった。


 それでも時計を渡す気にはならなかった。


 誠は左腕を腹の下へ巻き込んだ。時計を身体と地面の間へ隠し、その上から右腕を被せ、膝を引き寄せる。背中なら蹴られてもいい。顔を殴られても、腹を蹴られても、そのうち治る。


 だが、この時計は一つしかない。


「出せよ!」


 背中に靴底が当たり、身体が揺れた。


「……嫌だ」


 もう一度、蹴られた。


 誠はさらに身体を丸めた。


 その左腕で、時計は規則正しく動き続けていた。


『誠』


 声は届かない。


『腕を離せ』


 時計には、少年が何をしているのか分かっていた。自分を守っている。それも、自分の身体を盾にして。


『私は構わない』


 背中にもう一度衝撃が走った。


『お前が壊れる必要はない』


 何もできなかった。


 十二年前にも、同じことがあった。


 あのときも、伝えなければならないことがあった。呼び続けた。けれど義雄には届かなかった。


 そして今度も、誠には届かない。


『誠。もういい』


「時計出せって言ってんだろ!」


「……嫌だ」


『誠!』


「お前ら、何やってんだ」


 別の声がした。


 蹴りが止まった。


 誠は顔を上げなかった。左腕を抱いたまま、地面に丸くなっていた。


「いや、こいつが……」


「三人で?」


「……」


「何してんのかって聞いてんだけど」


「時計、見せろって言っただけで」


「見せてもらうのに蹴るのか」


 声は大きくなかった。


 それでも、それまで誠を囲んでいた三人の勢いが急に萎んだことだけは、地面を見ていても分かった。


「もういいだろ。行けよ」


「でも」


「行けって」


 しばらくして、三人分の足音が遠ざかっていった。


「おい」


 今度は声が近くなった。


「もういねえぞ」


 誠はしばらく待ってから、恐る恐る顔を上げた。


 知らない青年が立っていた。学生服ではない。誠より幾つか年上に見える。細身だが、三人を追い払ったところを見ると、少なくとも喧嘩は誠よりずっと強いらしい。


「立てるか」


「たぶん」


「たぶんって何だよ」


 青年が右手を差し出した。


 誠は右手だけでそれを掴んだ。左腕はまだ腹に抱えたままだった。


「一方的にやられて、何してんのかと思ったら。お前、それ守ってたのか」


「うん」


「見せてみ」


 誠は左腕をさらに身体へ寄せた。


「嫌だ」


「取らねえよ」


「ほんとに?」


「俺が取るんなら、あいつら追っ払った意味ねえだろ」


 言われてみれば、その通りだった。


 誠はようやく左腕を出した。最初に見たのは青年の顔ではなく時計だった。風防に新しい傷は見当たらない。ケースにも大きな打痕はなく、耳へ近づければ規則正しく動いている。


「大丈夫か?」


「動いてる」


「時計じゃねえよ。お前のほうだよ」


 誠は自分の身体を確かめるように立ち上がった。頬も腹も痛むし、背中もじんじんしている。


「俺も動いてる」


 青年は一瞬黙って、それから笑った。


「変な奴だな、お前」


 その場へしゃがみ込むと、今度は本当に時計を眺めた。先ほどの三人とは目つきが違った。金になりそうなものを見るというより、珍しい玩具に目を輝かせるように、文字盤と二つの押しボタンを順番に見ている。


「なんだ。ずいぶん古そうだな」


「親父の」


「へえ」


 青年の目が二つのインダイヤルで止まった。


「……これ、クロノグラフってやつだろ?」


 誠は顔を上げた。


「何それ」


 今度は青年の方が驚いた。


「お前、自分で着けてて知らねえのかよ」


「時計だろ」


「時計だけどよ。こっちの針で別に時間を計れるんだよ。競走なんかで使うやつ」


 青年が押しボタンを指したので、誠は反射的に左腕を引いた。


「押すなよ」


「押さねえよ」


「壊れたら困る」


「さっき三人に蹴られてた奴が、そこだけ慎重になるのかよ」


 また笑われた。


「俺、伊東。伊東司郎」


「片桐誠」


「知ってる。さっきあいつら呼んでたから」


 司郎は立ち上がり、もう一度誠の時計を見た。


「それにしても、そんなボロい時計のためによくやるな」


 誠は時計を見た。確かに新品ではない。ケースにも風防にも傷がある。


 だから反論しなかった。


『…………ボロい』


 ただ一人だけ、納得していなかった。


     *


 翌日も、誠は工場へ行った。


 頬の腫れはまだ残っており、口の端も少し切れている。源一は誠の顔を一度見ただけで事情を察したらしい。


「喧嘩か」


「一方的に殴られた」


「じゃあ喧嘩じゃねえな」


「うん」


「勝ったのか」


「負けた」


「そうか」


 それ以上は聞かなかった。


 誠も説明しなかった。代わりに作業着へ着替え、いつものように工場へ入った。


 その日は一台のトヨペット・コロナが入っていた。まだ新しい車だったが、客の話では最近どうもエンジンの調子が悪いという。始動はするし、走ることもできる。ただ、以前より力がなく、ときどき回転も揃わない。


 源一はボンネットを開け、エンジンを掛けた。しばらく自分で様子を見てから、何も説明せず誠を手招きした。


「聞け」


 誠はボンネットの中へ耳を向けた。


 何の音を聞けばいいのか、まだ分からない。ただ、一定の調子で続いているはずの音が、ときどき僅かに崩れるように感じた。


 少し位置を変えて聞いてみる。近づきすぎると全部の音が一つになり、かえって分かりにくい。少し離れると、今度は全体の調子が聞こえた。


【苦しい。ひとつだけ、ちゃんと燃えてない】


 誠には聞こえない。


 左腕のチュチマには、はっきり聞こえていた。


『どれだ』


【それは分からない。でも、ひとつだけ力が出てない】


『何か違いは感じるか』


【そこだけ、ほかと揃わない。みんなと一緒に動こうとしても、ひとつだけ遅れる】


 チュチマはエンジンを見た。


 似たような仕組みが四つ並んでいることまでは分かる。だが、どれがそうなのかを見分ける知識など、自分にはない。


『誠。ひとつだ』


 声は届かない。


 それでも、誠はなぜか全体の音をもう一度聞き直した。


 源一が少し回転を上げる。音が大きくなり、すぐに戻る。その瞬間、誠は眉を寄せた。


『ひとつだけ、揃っていない』


 チュチマはもう一度伝えようとした。


 誠には言葉として聞こえない。


 ただ、全部が同じように働いている感じがしなかった。


「どうだ」


 源一が聞いた。


「……一個だけ、ちゃんと動いてないような気がする」


 源一はすぐには答えなかった。誠の顔を見てから、もう一度エンジンの音を聞いた。


「どれだ」


「分からん」


「なんでそう思う」


「……なんとなく」


 源一は少し考えてから、イグニッションを切った。


 エンジンが止まり、工場の中が急に静かになった。


「じゃあ、確かめてみるか。プラグ外せ」


「全部?」


「全部だ。比べなきゃ分からんだろ」


 源一に工具の掛け方を教えられ、誠は一本ずつ慎重にプラグを外していった。熱の残るところへ不用意に触れそうになると手を止められ、工具を斜めに掛ければやり直させられる。


「外した場所、分からなくするなよ」


「うん」


 一本目を外し、作業台へ置く。


 二本目は、その隣。


 三本目。


 四本目。


 四本を外した順番のまま並べてみると、誠にはどれも似たようなものに見えた。


「どうだ」


「分からん」


「よく見ろ」


 源一は答えを教えなかった。


 誠は一本目を手に取り、先端を見る。二本目をその隣へ持ってきて比べる。色を見る。汚れ方を見る。三本目を手に取ったところで、少し違うような気がした。


 もう一度、一番目から見直した。


 やはり三本目だけが違う。


「……これだけ違う」


「どう違う」


「他のより、濡れてる」


「そうだな」


「三番?」


「三番だ」


 誠は少し嬉しくなった。


「じゃあ、これが悪いんだ」


「誰がそう言った」


「え?」


 源一は三番のプラグを手に取った。


「こいつが濡れてるのは、ちゃんと燃えてなかったからかもしれねえ。じゃあ、なんで燃えなかった」


 誠は答えられなかった。


「プラグが悪いのかもしれん。火がちゃんと来てねえのかもしれん。他に理由があるのかもしれん」


 源一はプラグを作業台へ戻した。


「違ってるのを見つけたら終わりじゃねえ。なんで違うのかを調べるんだ」


 そこから先は、誠にはまだほとんど分からなかった。


 火花を見る。点火系を追う。他の気筒と比べる。源一が何を確認しているのか、そのたびに説明を聞きながら後ろをついて回った。


 三番のプラグキャップとプラグコードの緩みを発見し、補修してから四本のプラグを元に戻した。


 源一がエンジンを掛ける。


【戻った。みんな揃ってる】


 チュチマには、今度は弾んだ声が聞こえた。


『苦しくないか』


【うん。さっきよりずっと楽だ】


 誠はそんな会話を知らない。


 だが、音を聞いた瞬間に違いが分かった。


 先ほどまで時々崩れていた音が、今度は揃っている。


「……さっきよりいい」


「何が」


「音。揃ってる」


 源一は煙草へ火をつけた。


「最初、一個おかしいって言ったな」


「うん」


「なんで分かった」


「分からん。なんとなく」


「勘か」


「たぶん」


 源一は煙を吐き、作業台に並んでいた工具を片づけ始めた。


「勘は使っていい」


「いいの?」


「見る場所を決めるのにはな。そこから先は、見ろ。測れ。確かめろ」


「勘が当たってても?」


「当たってるかどうか確かめるためにやるんだよ」


 誠は少し考えてから、うなずいた。


 四本のプラグは、もう最初に見たときのようには見えなかった。


 左腕で、チュチマが時を刻んでいた。


『届いた……のか?』


 誠は何も答えなかった。


 当然だった。


 だがチュチマには、さっきの「なんとなく」が、本当にただの勘だったのか分からなかった。


     *


 数日後、工場の入口から聞き覚えのある声がした。


「片桐いるか」


 誠は車の下へ潜っていた。寝板から頭だけ出すと、司郎が立っている。


「何しに来たの」


「友達に会いに来た」


「友達?」


「お前」


「いつから?」


「この前から」


 誠には、いつ友達になるという話をしたのか覚えがなかった。


 司郎はそんなことを気にする様子もなく、勝手に工場の中を覗き込んでいる。


「お前、友達作るのにいちいち契約書でも書くのか」


 そこへ源一が奥から出てきた。


「誰だお前」


「伊東司郎です。片桐の友達です」


「違うらしいぞ」


「本人がまだ理解してないだけです」


 源一は司郎と誠を交互に見て、鼻で笑った。


「面倒なのに拾われたな」


「拾ったのは俺なんだけどな」


 司郎は工場の中を珍しそうに見て回った。車の名前は誠よりよく知っているようだったが、整備工場の中で何が行われているのかまでは分からないらしい。


「お前、ここで働いてんの?」


「学校終わってから」


「車好きなの?」


「別に」


「じゃあ何が好きなんだよ」


 聞かれて、誠は少し考えた。


 車が嫌いなわけではない。だが車だけが好きなわけでもなかった。時計の中にも歯車があり、工場にはエンジンがあり、昨日動かなかったものが手を入れれば今日は動く。


「機械」


「同じようなもんだろ」


「違う」


「面倒くせえな、お前」


 司郎は笑った。それから何か思いついたように尋ねた。


「単車は?」


「乗ったことない」


 司郎が本気で驚いた顔をした。


「マジか」


「十五だぞ」


「だから何だよ」


「免許ないだろ」


「お前、変なところで真面目だな」


「普通だろ」


 司郎は工場を出るところで振り返った。


「今度、面白いもん見せてやるよ」


「何」


「単車」


「見るだけ?」


「まずはな」


「壊れてる?」


「なんで壊れてる前提なんだよ」


 司郎の笑い声が、工場の外へ遠ざかっていった。


     *


 刈屋が工場を訪ねてきたのは、それからしばらくしてからだった。


 誠は外した部品を洗っていた。以前なら油が落ちれば終わりだった作業も、今では洗いながら表面を見るようになっている。傷がないか。変な摩耗がないか。左右で形が違っていないか。


 刈屋はしばらくその様子を見てから、源一に言った。


「もうそこまでやらせているのか」


「壊しそうなところは触らせてねえよ」


「そういう意味ではない」


「分かってる」


 二人の話し方を聞いていて、誠はふと手を止めた。


「前から知ってるの?」


 源一が答えた。


「戦争中にな」


「刈屋さんと?」


「そうだ」


「どこで」


「四七だよ。俺は飛行機じゃなくて、車の方だったけどな」


 今度は完全に手が止まった。


「親父がいたところ?」


 源一は一瞬だけ刈屋を見た。


「ああ」


 誠は続きを待ったが、源一はそれ以上話さなかった。代わりに昔を思い出したのか、少し笑った。


「こいつ、昔から面倒くせえこと言う奴でな」


「誰がだ」


「四七で、お前が疾風の話してただろ」


「何の話だ」


「『飛ぶように作られている』ってやつだよ」


 刈屋がしばらく考え、ようやく思い出したようにうなずいた。


「……覚えていたのか」


「そりゃ覚えてる。機械屋には効く話だったからな」


「何それ」


 誠が聞くと、刈屋は少し考えてから答えた。


「機械が本来の働きをしないとき、機械そのものを責める前に、そうさせている条件を疑えという話だ」


 誠は返事をしなかった。


 意味が分からないわけではない。ただ、もう少し簡単に言えそうな気がした。


 源一が横から口を挟んだ。


「動かねえからって蹴る前に、なんで動けねえのか考えろってこった」


「ああ」


「……だいたい合っている」


 刈屋は少し不満そうだった。


「最初からそう言えばいいのに」


「お前まで言うのか」


 源一が笑った。


 誠は洗いかけの部品へ目を戻した。


 油を落とすと、それまで見えなかった金属の表面が現れる。そこには使われてきた跡があり、減った場所があり、ときには傷がある。


 以前なら見ても何も分からなかった。


 今でも、ほとんどは分からない。


 ただ、何をどう見るべきなのかは、少しずつ分かり始めていた。


     *


 ある日の夕方、仕事を終えて工場を出ると、道路脇に司郎がいた。


 その横に、赤茶色のタンクを載せた小さな単車が停まっていた。


 ヤマハYA-1。


 誠はもちろん、その名前を知らなかった。


 自転車とは違う。工場へ入ってくる自動車とも違う。細い車体の中央に小さなエンジンが収まり、車ならボンネットの下へ隠れている機械が、最初から見ろと言わんばかりに外へ晒されている。


「遅えよ」


「仕事してたんだから仕方ないだろ」


「見せるって言ったろ」


 誠は司郎より先に単車へ近づいた。タンクを見る。エンジンを見る。チェーンを見る。ところどころに使い込まれた跡がある。


「これ?」


「これ。ヤマハのYA-1」


「ヤマハ?」


「知らねえのかよ。赤トンボ」


「知らん」


「お前、ほんとに何も知らねえな」


「悪いか」


「いや。教え甲斐がある」


 司郎は嬉しそうだった。


「百二十五だ。これでも速えんだぞ」


 誠は小さなエンジンを覗き込んだ。


「これで?」


「浅間でも走ったんだぞ」


「浅間?」


「……お前とは長い付き合いになりそうな気がしてきた」


「なんで」


「説明することが多すぎる」


 司郎は笑いながら車体を起こした。


「乗ってみるか」


 誠はすぐには答えなかった。エンジンの周りをもう一度眺める。


「壊れない?」


「最初に聞くのそこかよ」


「だって、ずいぶん使いこんでるだろ」


 司郎は誠の左腕を見た。


「そんな時計着けてるやつに言われたくねえよ」


『聞き捨てならないな』


 誠はふと左腕を見た。


「どうした?」


「いや」


 何かを感じたような気がしたが、何なのかは分からなかった。


 司郎がキックペダルを踏み下ろした。


 一度目は、短い音を立てただけだった。


 二度目も掛からない。


 三度目。


 小さなエンジンが目を覚ました。


 軽い排気音が工場の前へ広がり、細かな振動が車体を震わせる。自動車のエンジンよりずっと小さい。それなのに機械そのものが外へ露出しているせいか、動いている様子はむしろ分かりやすかった。


 司郎が軽くアクセルを開ける。


 回転が上がる。


 音が高くなり、振動が変わる。


 戻す。


 また元のリズムへ落ち着く。


 誠は車体の横へしゃがみ込んだ。


「もう一回」


「何を」


「今の」


 司郎がもう一度アクセルを開けた。


 今度は音だけを聞かなかった。


 エンジンを見る。振動を見る。排気の匂いを嗅ぐ。回転が上がってから戻るまでを目で追う。


 源一に言われて覚え始めたことを、誰に言われるでもなく試していた。


「お前、乗りたいんじゃなかったのか」


「あとでいい」


「何してんだよ」


 誠は答えなかった。


 自分でもよく分からなかった。ただ、もう少し聞いていたかった。


 左腕では、チュチマが一定の時を刻んでいる。


 目の前では、小さな単気筒が別の速さで時を刻んでいる。


 その音の中に何があるのか。


 誠には、まだ分からなかった。


読んでいただき、ありがとうございます。


当外伝は、別途連載中の本編をより楽しんでいただくための前日譚となります。

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