止まっていた時計
初の連載となります。
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母が死んだ。
十五歳の誠にとって、それは父が死んだと聞かされたときより、ずっと現実的な出来事だった。父、片桐義雄について誠が覚えていることはほとんどない。大きな手だったような気もするし、抱き上げられたこともあったような気がする。だが、それが本当に自分の記憶なのか、母から聞かされた話を、いつの間にか自分の記憶だと思うようになったのか、もう分からなかった。
父が死んだとき、誠は三歳だった。
母は違う。朝になれば飯を炊き、夜になれば灯りの下で針を動かしていた。咳が増えてからも、できる限り同じように暮らしていた。その母がいなくなってみると、死というものより、朝になっても台所から何の音もしないことの方が、誠にはよほど理解しやすかった。
水野は戦後も折に触れて家を訪ねていた。誠にとっては、父の戦友というより、昔から知っている「水野のおじさん」だった。
刈屋もまた、ふみが病床についてからは何度も顔を出し、今では誠のこれからについて水野と相談する立場になっていた。
葬儀が終わり、人が引いてしまうと、家は急に広くなったように感じられた。さっきまで大勢の大人が出入りしていた座敷に、誠と水野と刈屋だけが残った。
「しばらく、うちへ来てもいいぞ」
水野が言った。
「大丈夫」
「何が大丈夫なんだ」
「家あるし」
「家だけあっても飯は出てこんぞ」
誠は少し考えた。確かに、朝になれば勝手に飯が炊けるわけではない。
「炊けば出る」
「そういう意味じゃない」
水野が困った顔をすると、横で聞いていた刈屋が眼鏡の奥から誠を見た。
「当面の生活については心配しなくていい」
「金は?」
「ある」
「母ちゃんの?」
「お前のために残されているものがある。細かい話は、落ち着いてからする」
「足りる?」
「普通に暮らす分には問題ない」
「じゃあいい」
水野が眉をしかめた。
「お前なあ。十五のガキが、そこで『じゃあいい』で済ますな」
「じゃあ、どうすりゃいいんだよ」
言われて、水野が黙った。
誠にも分からなかった。泣けばいいのかもしれないが、葬式の最中にも涙はあまり出なかった。悲しくないわけではない。ただ、母がもう帰ってこないということが、まだ頭の中でうまく形になっていなかった。
明日の朝には誰も飯を炊かない。そのことだけは分かった。
*
数日後、三人で家の中を整理した。母の着物や食器、裁縫道具。一つひとつを手に取るたび、水野は誠に残すかどうかを尋ねたが、誠には判断できないものの方が多かった。
「これは?」
「分からん」
「じゃあ残す」
「それじゃ片づかんだろ」
「お前が後から捨てりゃいい。今、分からんものを捨てる必要はない」
それには誠も従った。何を残したいのかさえ、まだ自分でもよく分かっていなかった。
押入れの奥を片づけていたとき、小さな箱が出てきた。桐箱でもなければ、何か特別な細工があるわけでもない。母が大事なものをまとめてしまっていた、ただの古い箱だった。
それを見た水野の手が止まった。
「……それか」
刈屋も振り返った。
蓋を開けると、飛行帽と手袋が入っていた。誠は写真で見たことがあったから、それが父のものだということは分かった。
「親父の?」
「ああ」
水野が答えた。手袋は古びており、茶色く変色したところがあった。飛行帽にも同じような痕が残っている。何の染みなのか、誠はなんとなく察したが、聞かなかった。
その下に認識票があり、さらに腕時計が収められていた。
黒い文字盤に、二つのインダイヤル。風防を囲む回転ベゼルには三角形のマーカーがあり、風防には長年使われた細かな傷が走っている。革のベルトにも、黒ずんだ染みが残っていた。
「これも?」
「そうだ」
今度は刈屋が答えた。
誠は時計を持ち上げてみた。普段見かける時計より厚みがあり、手のひらに載せると思ったより重い。何に使うのか分からない押しボタンまで付いている。耳へ近づけてみたが、何も聞こえなかった。
「止まってる」
「十二年だからな」
水野が言った。誠は側面の竜頭を指先でつまんだ。時計の仕組みなど知らなかったが、竜頭を巻けば動くことくらいは知っている。
「誠」
刈屋が呼んだときには、もう一度巻いていた。指先に小さな抵抗が返ってきた。もう一度巻くと、さらにわずかな手応えがある。その直後だった。
ち、ち、ち、ち。
耳元で、小さな音が始まった。
「動いた」
思わず声が明るくなった。
「巻くな」
「え?」
「それ以上巻くな」
「でも、動いてるよ」
「だからだ。動くから壊すんだ」
誠には意味が分からなかった。動いているのなら壊れてはいないはずだし、止まっていたものが動き始めたのだから、むしろ良いことのように思える。そんな顔をしていたのだろう。刈屋は時計を指した。
「長く止まっていた機械を、そのまま動かしていいとは限らん。中の油がどうなっているかも分からない」
「油?」
「時計にも油は要る」
誠は意外に思って、もう一度時計を耳へ近づけた。
ち、ち、ち、ち。
こんな小さなものの中にも、歯車があって、油があって、それが動いている。そう考えると、さっきまでただの古い時計だったものが、急に違って見えた。
十二年間止まっていた時計が、誠の手の中で時を刻んでいた。
その奥で。
『…………義雄?』
声がした。もちろん、誠には聞こえなかった。
時計は、自分を覗き込む少年を見ていた。違う。義雄ではない。けれど、まったく知らない人間でもなかった。ずっと昔、まだ義雄の腕に巻かれていたころ、一度だけ見たことがある。義雄が抱いていた、小さな子供。
『……誠』
少年は答えなかった。
*
翌日、刈屋は誠を町の時計屋へ連れていった。なぜか水野もついてきた。
店の主人は時計を受け取ると、まず文字盤を眺め、裏を返し、竜頭や二つの押しボタンを慎重に確かめた。
「ずいぶん古いですね」
「戦争中のものです」
「外国製ですか」
「ドイツです」
主人の手つきが少し慎重になった。
「昨日、少し動かしました」
誠が言うと、主人が顔を上げた。
「どのくらい?」
「ちょっとだけ。今は動くけど、すごく進む」
「でしょうね」
「壊れてる?」
「まだ分かりません。ただ、動くということ自体は悪い話じゃないですよ。でも、このまま使うのはやめた方がいい」
横から刈屋の視線を感じて、誠は少しだけ目を逸らした。
「一度分解して、洗って、古い油を落として、新しく注油して調整してみましょう。それで駄目なところがあれば、そのとき相談です」
誠は時計そのものより、古びた革ベルトが気になった。
「これ、替えないと駄目?」
「これは替えた方がいいですね。もう実用には向きません」
「捨てる?」
「残したいなら残せますよ」
「残す」
それだけは即答した。主人はうなずき、古いベルトはそのまま返し、時計には新しいものを用意すると説明した。そして最後に聞いた修理代は、誠が思っていたよりずっと高かった。
「……そんなにするの?」
「普通の時計より手間がかかりますからね」
店を出てしばらく歩いたところで、水野が言った。
「俺が出す」
「いい」
「いいって何が」
「俺が払う」
「お前、金あるのか」
「ない」
「じゃあ俺が払うしかないだろ」
「だから、稼ぐ」
水野が足を止めた。
「刈屋さん。こいつ何とか言ってやってください」
刈屋はしばらく黙って歩いていたが、やがて誠に言った。
「修理代なら、お前のために残されている金から出しても構わん」
「それ、生活の金だろ」
「それだけにしか使ってはいけない金ではない」
誠は少し考えた。腕時計はあれば便利だろう。だが、十五歳の自分が持たなければ生活できないものではない。まして、わざわざ古い外国製の時計を修理して使うなど、どう考えても必要な出費ではなかった。
「でも時計は、なくても困らない」
刈屋が誠を見る。
「そうだな」
「十五のガキが持つには、贅沢だろ」
「まあな」
「だったら、俺が使いたくて直すんだから、俺が払う」
生活に必要な金まで自分で稼ぐと言っているわけではない。ただ、自分が欲しいものくらいは自分で何とかしたかった。
水野が頭を掻いた。
「誰に似たんだ、お前」
「知らん」
「俺は知ってる」
刈屋が言った。
水野が横から睨んだ。
「言わんでいいです」
*
刈屋が誠を連れていったのは、町外れにある小さな修理工場だった。
中へ入る前から、油と鉄と、何かが少し焦げたような匂いがした。開け放した入口の奥では、一台のトラックがボンネットを上げ、その下から男の脚だけが突き出している。
「源一」
「んー?」
「少しいいか」
「よくない」
「そうか」
「帰るなよ」
しばらくして、男が車の下から這い出してきた。五十にはまだ届いていないはずだが、それより少し老けて見える。油で黒くなった手をぼろ布で拭きながら、刈屋の隣に立つ誠を見た。
「何だ、その坊主」
「働きたいそうだ」
「うちは人足りてるぞ」
「時計を直したい」
「時計?」
源一が誠を見る。
「お前が?」
「うん」
「時計屋行け」
「時計屋に払う金を稼ぎたい」
源一はそこで初めて、誠を少し長く見た。
「何ができる」
「何も」
「正直だな」
「嘘ついても仕方ないだろ」
「学校は」
「行ってる」
「なら放課後と休みだけだ」
「うん」
「返事は『はい』だ」
「はい」
「箒は使えるか」
「それくらい使える」
「はい、だ」
「……はい」
源一は顎で工場の奥を示した。
「じゃあ掃け」
誠が箒を取ると、すぐに声が飛んだ。
「そこじゃない。奥からだ。手前から掃いたら、また踏むだろ」
「はい」
言われてみればその通りだったので、誠は奥へ回った。床には砂や泥だけでなく、細かな金属の削り屑や、油を吸って固まった埃が溜まっていた。家の掃除とは少し勝手が違ったが、やることそのものは難しくない。
その日の仕事は、ほとんど掃除だけで終わった。
*
次の日も誠は工場へ行った。その次の休みにも行った。
最初のうちは掃除ばかりだったが、何日か通ううちに工具を運ばされるようになり、そのうち外した部品の洗浄も任されるようになった。
何をしているのか分からない作業も多かったが、誠は分からないまま適当にやるのが嫌だった。源一が「十のスパナ」と言えば十ミリを渡し、十二と言えば十二を渡す。知らない工具を指されたときには、その場で聞いた。知ったふりをして違うものを渡すより、その方が早かった。
外したボルトも、最初に並んでいた順番が違えば長さや形が違うことに気づいた。それからは、言われなくても元の場所が分かるように置くようになった。
ある日、源一が取り外した部品を何気なく床へ置いたので、誠はそれを拾って新聞紙の上へ移した。
「余計なことすんな」
「砂つく」
「……まあいい」
源一はそれ以上何も言わなかった。
誠がいちばん気になったのは、エンジンだった。作業を終えた車のエンジンが掛かると、つい手が止まった。音を聞き、排気の匂いを嗅ぎ、車体に伝わる細かな震えを眺めていると、同じ車でも作業の前と後では何かが違っている。
「仕事しろ」
背後から源一に言われた。
「してる」
「見てるだけだろ」
「これ、さっきと音違う」
源一の手が止まった。
「どこが」
誠はもう一度聞いた。違うことは分かる。だが、何がどう違うのかを言葉にすることはできなかった。
「分からん」
「じゃあ仕事しろ」
「はい」
誠が部品洗いへ戻ったあと、源一はしばらくエンジンの音を聞き、点火時期をわずかに調整した。
もう一度エンジンを掛ける。音が変わった。
誠は洗っていた部品から顔を上げた。源一はそれを見たが、何も言わなかった。
*
数か月後、誠は時計屋のカウンターへ封筒を置いた。
店の主人が中身を確認し、奥から包みを持ってきた。
「お待たせしました」
布の上に置かれた時計は、最初に持ち込んだときとほとんど同じに見えた。ケースの傷は残っている。文字盤も古いままだった。風防にも、消えなかった傷がいくつかある。新品のようにはなっていない。ただ、傷んだ革ベルトだけが新しいものへ替えられていた。
「動く?」
「もちろん」
主人は笑った。
「時計ですから」
誠は時計を受け取り、左腕へ巻いた。十五歳の細い腕には少し大きく、重く感じられたが、不思議と邪魔だとは思わなかった。
耳へ近づけなくても、意識すれば小さな音が分かる。
ち、ち、ち、ち。
一定の間隔で、規則正しく時を刻んでいる。
父が使っていた時計だった。父が死んだ日にも、おそらく腕にあった時計だった。
それ以上のことを、誠はまだ知らない。どうして父がドイツの時計を持っていたのかも、父がどんな場所でこれを使っていたのかも知らなかった。今すぐ知りたいとも思わなかった。
自分で働いて、自分で稼いだ金で直した。今日からは、自分が使う。それでよかった。
『誠』
声がした。返事はない。
時計は、もう一度呼んだ。
『誠』
そのとき、誠がふと左腕を見た。
「……なんだ?」
何かを感じたのかもしれない。ただ、時計の音が気になっただけなのかもしれない。誠自身にも分からなかった。時計にも分からなかった。
けれど十二年前、義雄の腕で動きを止めた時計は、いま再び時を刻んでいた。
今度は、片桐誠の腕で。
読んでいただき、ありがとうございます。
当外伝は、別途連載中の本編をより楽しんでいただくための前日譚となります。




