疾風
レースから戻った翌日、司郎のYDS-3は片桐モータースの作業台の横に置かれていた。昨日の最後、自分の場所まで戻ってきたところで力尽きたように止まったエンジンは、もう冷えている。
誠は右側のプラグを外し、しばらく黙って眺めた。
「どう?」
司郎が横から覗き込む。
「焼けてる」
「やっぱり?」
「ちょっとな」
誠はプラグを指先で回した。電極の角がわずかに丸くなっている。ギャップも、調整したときより広い。
「溶けた?」
「そこまでじゃない。熱で少し傷んで、ギャップが広がった。最後は回転落としたところで火が飛びにくくなって、かぶったんだろ」
「……壊した?」
誠は顔を上げた。
「これくらいなら壊れたうちに入らん」
「じゃあ、なんで最後止まったんだよ」
「知らん」
「知らんのかよ」
誠はもう一度プラグを見た。
「仕事終わったからだろ」
司郎が笑った。
「お前、たまに変なこと言うな」
「うるさい」
新しいプラグを入れ、燃料を確認して少し待ってから始動する。バァン、と二気筒が火を拾った。少し回転を上げてみても左右は揃っており、昨日の最後にあった不規則な失火はもうない。
【もう走れる】
チュチマには、その声が聞こえた。
『そうか』
【ちゃんと帰った】
『ああ』
【ゴールまで】
『見ていた』
YDS-3は少し得意そうに回転を上げた。
【じゃあ、また走れる】
『少し休め』
【なんで】
『人間も機械も、そういうものだ』
【時計は?】
『休みなく働いてこそ時計だ』
【ずるい】
誠はその会話を知らないまま回転を落とした。
「問題ないな」
司郎がYDS-3のタンクを軽く叩く。
「じゃあ次もいけるな」
「その前に全部見る」
「また?」
「また」
「昨日見ただろ」
「昨日走ったから見るんだよ」
司郎はため息をついた。それでも、もう文句は言わなかった。
*
四位という数字は、司郎が思っていたより少しだけ大きかった。優勝したわけではない。表彰台にも立っていない。だが初めての大きなレースで、前を走ったのは地力が段違いの三台だけだった。
それを見ていた者がいた。しばらくして、司郎に声がかかった。
「次、うちの車体で走ってみないか」
名前の知られたクラブの人間だった。
司郎はその話を聞いた日の夕方、片桐モータースへ飛び込んできた。
「俺、誘われた」
誠は車の下に潜ったままだった。
「へえ」
「へえ、じゃねえよ」
「何」
「もっと驚けよ」
誠が車の下から顔だけ出す。
「四位だったんだろ」
「初めてでだぞ」
「知ってる。俺もいたから」
「そういう話じゃなくて」
誠はまた車の下へ戻った。
「行けばいいじゃん」
「いいの?」
「何が」
「お前のYDS-3じゃなくなるぞ」
「お前のだろ、あれ」
「そうだけど」
「じゃあ好きにしろ」
司郎は少し黙った。
「……なんか寂しくない?」
「別に」
「冷てえな」
だが、その後も司郎は片桐モータースへ来た。別のチームの車体に乗るようになっても、何か気になると持ってくる。
「上でなんか変なんだよ」
「チームの人に見てもらえよ」
「見てもらった」
「じゃあいいだろ」
「でも変なんだよ」
「何が」
「分からん」
「分からんもん持ってくんな」
「だから持ってきたんだろ」
誠は嫌そうな顔をしながら、それでも見る。司郎が感じた違和感が本物なのか、何が違うのか。測り、比べ、確かめる。
そのうち司郎は、一人では来なくなった。最初は知らない男を一人、次には二人。別のクラブで整備をしている者、自分でも走る者、部品屋、ショップの人間と、顔ぶれも少しずつ増えていった。
最初はみな、片桐モータースの小ささを見て少し意外そうな顔をした。それでも誠が車体を見ると黙り、直ったものに乗れば、また来る。
看板の脇にある、4と7を崩したような小さな印も、少しずつ覚えられていった。
「あの印の店」
「司郎が行ってる片桐」
まだ、それだけだった。
誠自身は気にしていなかった。一般の修理もする。オイルも換える。パンクも直す。その横で、少し変わった単車が増えただけだ。
*
二年が過ぎた。
一九六八年。
片桐モータースは、相変わらず片桐モータースだった。工具の位置は大きく変わらず、床には相変わらず油染みがある。誠も自分で車の下へ潜り、自分で測り、自分で手を汚していた。
ただ、以前より仕事は増えた。普通の乗用車の横へ、明らかに普通ではない単車が入る日もある。
司郎は以前ほど毎日は来なくなった。その代わり、来るときには何かを持ってくる。車体だったり、部品だったり、人だったり。
そんなある日の午後、和子が工場へ顔を出した。腹が、ずいぶん大きくなっている。
「誠」
「ん?」
「今、動いた」
誠は手を止めた。
「何が」
和子はしばらく黙ってから、自分の腹を指した。
「この子」
「ああ」
「ああ、じゃないわよ」
「どこが?」
「どこがって……お腹よ」
誠は手を拭きながら近づいた。
「触れば分かる?」
「たぶん」
恐る恐る手を当てて待ってみるが、しばらく何もない。
「動かん」
「機械じゃないんだから、頼んですぐ動かないわよ」
もう少し待つ。
ぽこ、と手のひらに何かが当たった。
誠の眉が上がる。
「動いた」
「だから言ったでしょ」
「もう一回」
「知らないわよ」
「どのくらいで来る?」
「測ろうとしないで」
誠は真面目な顔をしていた。和子が笑った。
「あなた、エンジンなら振動だけでいろいろ分かるのにね」
「人間は分からん」
「昔からそうね」
誠はもう一度腹へ手を当てた。
「もう一回動かんかな」
「だから知らないって」
左腕では、チュチマが時を刻んでいた。中にいるものの声は、まだ聞こえなかった。
*
出産の日、誠にはすることがなかった。
これが困った。
故障した車なら見るところがある。測るところがある。分解もできる。何かがおかしければ、原因を絞っていけばいい。
だが今日は、何も触れない。
何も測れない。
廊下を歩く。
座る。
また立つ。
時計を見る。
チュチマは正確に進んでいる。
だから何だ、と思った。
時間が分かっても何の役にも立たない。
また歩く。
どれほど経ったのか。
奥から赤ん坊の泣き声が聞こえた。
誠は立ち止まった。
今まで聞いたことのない種類の音だった。
高くて、小さくて、それでも妙によく響いた。
*
男の子だった。
赤い。
小さい。
よく泣く。
誠は横から覗き込んだまま、しばらく動かなかった。
「……ちっちゃいな」
疲れ切った顔で和子が笑う。
「赤ちゃんだからね」
「壊れそうだな」
「壊さないでよ」
「触っていいの?」
「あなたの子でしょ」
誠は両手を見た。さっきまで何度も洗った。それでも、まだ油が残っている気がする。
「もう一回洗ってくる」
「もういいわよ」
「いや」
「誠」
「何」
「抱いて」
そう言われると断れない。
恐る恐る受け取る。
軽い。
だが、思ったより重い。
どこを支えればいいのか分からない。
「頭」
「頭?」
「そこ支えて」
「こう?」
「もっとやさしく」
「やってる」
「顔が怖い」
「しょうがないだろ」
腕の中で赤ん坊が少し動いた。
誠の身体が固まる。
「動いた」
「動くわよ」
「落ちない?」
「落とさないで」
「だから怖いんだよ」
和子が笑った。
誠も少しだけ笑った。
左腕のチュチマは、赤ん坊のすぐ近くにあった。
チュチマは黙っていた。何十年も前、別の片桐の腕で戦場の空を飛んだ。その次の片桐の腕で、工場の油にまみれた。
そして今、その腕の中に、新しい片桐がいる。
*
名前は、まだ決まっていなかった。いくつか候補はあったが、どれもしっくり来ない。
誠は病室の椅子に座り、眠っている赤ん坊を見ていた。小さな胸が上下している。呼吸している。それだけをしばらく見ていた。
チュチマには、別の景色が重なった。
夏の空。
傷ついた機体。
動かなくなっていく身体。
それでも帰ろうとした男。
そして、その男を最後まで連れて帰った機械。
四式戦。
疾風。
あの日、疾風は確かに言った。
必ず帰す、と。
だがチュチマには、届けられなかった。
長い時間が過ぎた。
今、目の前にいるのは戦闘機ではない。
兵士でもない。
ただ、生まれたばかりの子供だった。
『疾風』
チュチマは小さく呼んだ。
誠がわずかに顔を上げた。
何かを聞いたわけではない。
ただ、名前が浮かんだ。
「……疾風ってのはどうだ」
和子が顔を向けた。
「はやて?」
「うん」
「急に出てきたわね」
「なんとなく」
和子は眠っている子供を見る。
「速そうね」
「まあ、速そうだな」
チュチマは思った。
『速いからではない』
誰にも届かない。
『帰ってきたからだ』
*
刈屋が来たのは、それから少ししてからだった。
和子が赤ん坊を見せる。
「お父さん。疾風」
刈屋の手が止まった。ほんの一瞬だった。
「……疾風か」
誠がその顔を見る。
「変?」
「いや」
それだけ言った。
刈屋は赤ん坊を見る。それから誠の左腕を見た。チュチマがある。
刈屋は何も言わなかった。
「何?」
「何でもない」
「そうは見えないけど」
「気のせいだ」
誠は眉をひそめた。
刈屋はもう一度、眠っている疾風を見た。
「……また、手を焼かされるんだろうか」
「また?」
「こっちの話だ」
誠には意味が分からなかった。刈屋はそれ以上何も言わず、赤ん坊の顔を見ていた。
*
水野も来た。手には、見舞いにしては妙に大きな菓子の箱を持っていた。
「こんなの食えるの?」
誠が聞く。
「お前が食え」
「俺の見舞いじゃないだろ」
「細かいな」
水野は赤ん坊を覗き込んだ。
「名前決まったか」
「疾風」
水野の表情が止まった。
「……疾風か」
「何。やっぱりその反応するな」
「誰がした」
「刈屋さん」
「ああ」
「何なんだよ」
「別に」
水野は赤ん坊を見る。
しばらくして、誠が言った。
「親父が聞いたら、なんて言ったかな」
水野は少し考えた。
「知らん」
「またそれかよ」
「俺はお前の親父じゃないからな」
「知ってるよ」
水野はもう一度、赤ん坊を見た。
「まあ」
「何」
「悪くない名前だ」
「それだけ?」
「それだけだ」
水野は菓子の箱を置いた。その横で、チュチマは静かに時を刻んでいた。
*
夜。病室は静かだった。和子は眠っている。疾風も眠っている。誠はまだ起きていた。
左腕からチュチマを外し、枕元の小さな台へ置く。
長い一日だった。何も修理していない。何も調整していない。それなのに、ひどく疲れていた。
眠っている子供を見る。
「疾風か」
自分でつけた名前だと思っている。
チュチマは、その横で秒を刻んでいた。
『疾風』
もう一度、その名を呼ぶ。
今度は、空を飛び戦うための名前ではなかった。




