育つもの
疾風が初めてキャブレターを全部ばらしたのは、七歳のときだった。
刈屋が片桐モータースへ持ってきた古いキャブレターで、もう実車に使う予定はない。構造を見せる教材にはちょうどよかった。
「ここから空気が入る。燃料はこっちから上がってきて、ここで混ざる」
刈屋がそう説明しながら紙に簡単な図を描いていると、途中までは神妙に聞いていた疾風が、いつの間にかドライバーを手にしていた。刈屋が顔を上げたときには、もうフロート室が外れている。
「疾風。何をしてる」
「外してる」
「それは見れば分かる。誰がそこまで外せと言った」
「だって外れたから」
「外れるものを全部外していいわけじゃない」
「戻せばいいじゃん」
「戻せるのか」
疾風は机の上に並んだ部品を見た。さっきまで一つだったものが、ずいぶん細かくなっている。
「……たぶん」
「たぶんで機械を組むな」
少し離れたところで仕事をしていた誠が、思わず笑った。
「何を笑ってる。お前の息子だぞ」
「俺、そんなことしなかったけど」
「お前は分からんと聞きに来た。こいつは分からんまま先に外す」
疾風は叱られていることなど気にしていなかった。小さなジェットを指先で摘まみ上げる。
「爺ちゃん、これ何?」
「今から説明しようとしてたんだ」
「じゃあ教えて」
刈屋はしばらく疾風を見たあと、机の上の部品へ視線を落とした。
「……やっぱり手を焼くな、疾風は」
誠が顔を上げる。
「やっぱり?」
「こっちの話だ」
刈屋はそれ以上説明せず、ばらされたキャブレターを一つずつ指しながら、結局最初から教え直した。
*
疾風が育つのと同じように、片桐モータースも少しずつ変わっていった。
相変わらず普通の乗用車も来れば、商用車も来る。オイル交換だけの客もいれば、パンクを直しに来る者もいる。その一方で、司郎を入口にして増え始めたレース関係の客は、その後も途切れなかった。
ライダーがメカニックを連れてきて、そのメカニックが別の客を連れてくる。部品屋やショップの人間まで顔を出すようになり、いつしか「あの印の店」で話が通じるようになっていた。
誠自身は評判などほとんど気にしていなかったが、仕事の量だけは無視できなかった。
一人では手が回らなくなり、七十年代の終わりごろ、片桐モータースにも若い整備士が一人入った。
山崎浩二。
誠よりずっと若く、疾風よりは七つほど上だった。整備士としては真面目で、手順を飛ばさず、新しい車の資料もよく読む。誠のように何でも一人で抱え込もうともしないので、店を回すという意味ではむしろ使いやすいところもあった。
ただ、ときどき妙なところで疾風に負けた。
ある日、山崎がアイドリング中の車を見ている横を、学校帰りの疾風が通りかかった。
「これ、なんか変じゃない?」
山崎が顔を上げる。
「何が?」
「分かんない。なんか一個だけ音が違う」
「どれ」
「そこまでは知らない」
「知らないのに変って言ったのか」
「変だから」
山崎はもう一度エンジンへ耳を向けたが、すぐには分からなかった。結局、確認していくと一本のプラグコードにわずかな接触不良があった。
山崎が疾風を見る。
「……お前、なんで分かった」
「なんとなく」
「一番腹立つ答えだな、それ」
奥から誠が言った。
「気づくのと、直せるのは別だぞ」
「分かってる」
疾風が答えると、山崎が首を振った。
「こいつ、分かってない顔してますけど」
疾風は整備士になりたいわけではなかった。ただ、工場で育ったぶん、機械が普段と違うと妙に気づくことがあった。
*
速くしてくれ、と頼まれることも増えた。
ある日、若い客がセリカ1600GT(TA22)を持ち込んできた。まだ端正な形を保っているが、あちこちに年数なりの疲れが出ている。
「もうちょっと速くなりません?」
「なるよ」
誠が答えると、客の顔が明るくなった。
「ほんとですか」
「まず直せば」
「壊れてないですよ。普通に走ってますけど」
「普通に走るのと、ちゃんと走るのは違う」
圧縮を測り、点火を見て、キャブレターを合わせる。バルブクリアランスを確認し、摩耗したリンクや細かな部品を直していく。派手なことは何もしていない。ただ、セリカを本来あるべき状態へ少しずつ戻していった。
数日後、試乗から戻った客は目を丸くした。
「全然違うじゃないですか。速くなってる」
「速くしてない」
「いや、速いですよ」
「戻しただけだ」
客が意味の分からない顔をするので、誠は工具を片づけながら続けた。
「チューニングって調律だろ。まず、作った奴がこう動くはずだって決めたところへ戻す。その先は、それからだ」
誠にとって、速くすることと無理をさせることは同じではなかった。圧縮が揃い、燃焼が揃い、余計な抵抗がなくなれば、それだけで機械は速くなる。一か所だけを無理に頑張らせるより、全部を正しく働かせた方が速く、しかも長く走る。
いつの間にか、それが片桐モータースのやり方になっていた。
*
チュチマには、相変わらず機械の声が聞こえていた。
ある四気筒が、
【ひとつだけ、力が出てない】
と言った。
『どれだ』
【分からない。でも、ひとつだけ違う】
昔なら、チュチマは必死になって誠へ意識を向けただろう。
『誠。一つだ』
だがそのとき、誠はもう首を傾けていた。
「……一個、揃ってないな」
プラグを外して焼け方を比べ、必要なところには測定器を当てていく。
『そうだ』
別の日には、
【上まで回すと苦しい】
という声がした。
チュチマが、
『誠。上だ』
と伝えようとしたころには、誠はすでにアクセルを戻していた。
「上だけ変だな」
燃料、点火、吸気。考えられるものを順番に確認していく。
最初のうち、チュチマは自分の声が届いたのだと思っていた。
『届いたのか?』
だが、それが何度も続いた。
誠は、チュチマが何かを伝えるより先に異変へ手を伸ばすようになっていた。音や振動、匂い、熱、プラグの焼け方、測定器が示す数字。どれか一つを答えにするのではなく、複数の兆候が同じ場所を指すまで確かめる。
ある日、チュチマはようやく気づいた。
『……違う』
届いたのではない。
誠自身が、分かるようになったのだ。
*
疾風は、機械を直すことより、動かすことを面白がった。
それに最初に気づいたのは司郎だった。
十二歳になったころ、司郎が何気なく聞いた。
「お前、乗ってみるか」
「何に?」
「何でもいいよ」
連れて行かれたのは公道ではなく、外から車が入ってこない閉鎖されたコースだった。
最初に与えられたのは、ホンダCB50Sだった。
「速く走っていい?」
「駄目」
「なんで」
「まだ遅く走れないから」
「遅くなら走れるよ」
「真っ直ぐ走るだけならな」
司郎が最初に教えたのは速く走ることではなかった。発進と停止を繰り返し、同じ速度で同じ半径を回り、同じ場所からブレーキをかけ、同じ位置からアクセルを開ける。一つでもばらつけば、もう一度だった。
疾風には退屈だった。
「もっと速く走ろうよ」
「速く走る前に、遅く正確に走れ」
「面白くない」
「面白くなくてもやれ」
「司郎のおっさん、昔からこんなだったの?」
「昔はもっと馬鹿だった」
「へえ」
「そこは否定しろよ」
少し大きくなると、四輪にも乗せた。
トヨタ・スターレット1300S(KP61)だった。
軽くて後輪を駆動し、速すぎない。何をすると車体がどう動くのかを覚えるには、教える司郎にとっても、教わる疾風にとっても、都合のいい車だった。
司郎はハンドルを切ることより先に、どこを見るかを教えた。ブレーキを踏むことより先に、荷重がどこへ移るかを感じさせた。
「ハンドル切ったから曲がるんじゃねえぞ」
「じゃあ何で曲がるの」
「前が食ってるからだ」
「食う?」
「そのうち分かる」
「今教えてよ」
「身体で分かった方が早い」
わざわざ雨の日を選んで出向いて、低い速度でスターレットの後ろを滑らせたこともある。
疾風は反射的に大きく修正し、タイヤが再び食った瞬間、今度は反対へ振られた。慌てて戻し、どうにか止める。
「今ので分かったろ」
「滑った」
「違う。戻ったときの方が危なかったろ」
疾風は少し考えてから、うなずいた。
「滑ったら終わりじゃない。その先がある」
もう一度やる。
今度は修正を少し減らす。
戻りも小さい。
「そう」
司郎は、それだけ言った。
路面を変え、車を変え、ときには二輪へ戻りながら、そういったことを何年も繰り返した。
*
誠が一度だけ見に来たことがある。
疾風がスターレットを走らせるのを腕を組んで眺め、戻ってきたところで車体を一度見回した。
「どうだった?」
疾風が聞く。
「壊してないな」
司郎が吹き出した。
「お前、それしか言わねえな」
「壊さないなら好きにしろ」
「親父も乗れば?」
「俺はいい」
「なんで」
司郎が先に答えた。
「昔からこいつ、乗るより弄ってる方が好きなんだよ」
誠は否定しなかった。
「触ってる方が面白い」
司郎が一瞬、懐かしそうな顔をした。
ずっと昔、自分が同じようなことを聞いたときにも、誠はそう答えた。
疾風は走ることを覚え、誠は機械を見ることを覚え続けていた。
そして片桐モータースにも、次の時代が近づいていた。




