声のいらない男
ある日、片桐モータースへソアラ2800GTが入ってきた。
それまで誠が慣れ親しんできた車に比べると、ソアラのエンジンルームでは電気がずいぶん大きな顔をするようになっていた。燃料は電子制御で送られ、点火も機械仕掛けだけではない。温度や回転数、吸い込む空気の量をセンサーが測り、それを一か所へ集めて判断する。
山崎がボンネットを開けながら言った。
「これからはコンピューターですよ」
「だから何」
「いや、昔みたいに勘だけじゃ」
「勘だけでやってない」
誠は回路図を広げた。分からない記号があれば調べ、センサーの出力を測り、必要なら新しい測定器も買った。
「こういうの、嫌じゃないんですか」
「何が」
「電子制御」
「分からんなら覚えりゃいいだろ」
昔、必要になったから数学を覚えた。物理も覚えた。電子制御も、それと同じだった。
「機械が変わったんなら、見るもの変えりゃいいだけだろ」
数日後、山崎が机の上を見ると、ソアラの回路図と資料が何冊も積まれていた。
「……片桐さん」
「何」
「もう俺より詳しくなってません?」
「何が」
「いや、いいです」
新しい機械ほど、数字をよく出した。回転数、温度、電圧、圧力。昔なら分解して初めて分かったことを、今の機械は人間へ先に知らせてくれる。
チュチマには、それが少し不思議だった。
機械は昔よりずっと多くのことを人間へ伝えるようになっていた。
ただし、人間に聞かせるための声ではなかった。
*
機械が変わる一方で、片桐モータースの方には、もっと単純な問題が起きていた。
狭かった。
開業したころには一基だったリフトも、仕事が増えるにつれて二基になっていた。その二基の脇に作業台と工具棚、コンプレッサー、溶接機、測定器が並び、壁際には単車を一台ばらせる程度の場所が残っている。
誠一人なら、それでも十分だった。
山崎が入って二人になっても、まだ何とかなった。
だが、入ってくる車が増え、作業の種類が増えると、二基のリフトはたいてい何かに塞がるようになった。
一台はエンジンを降ろしている。
もう一台は部品待ち。
その脇に単車が一台。
外には今日納める車と、明日触る車が並んでいる。
そんな日に限って、修理の終わった車を客が取りに来ない。
「山崎、これ外へ出して」
誠が言うと、山崎は工場の入口から外を見た。
「出すところないですよ」
「じゃあ、あれ動かして」
「あれ今日取りに来るって言ってたやつです」
「まだ来てないじゃん」
「来てないからあるんです」
「電話した?」
「二回」
そこへ和子が事務所から顔を出した。
「三回」
「来るって?」
「夕方」
「夕方じゃ次の車入らないだろ」
「だから昨日から取りに来てって言ってるの」
そのとき、道路の向こうで一台の車がウインカーを出した。
今日の午後に入る予定の車だった。
誠と山崎が、同時に外を見た。
「……来たな」
「来ましたね」
和子が二人の間を抜け、道路へ出ていった。
どうにか空いた場所へ車を誘導しながら、運転してきた客へ何か説明している。
山崎が言った。
「もう一人いた方がいいんじゃないですか」
「人増やしてどこで仕事すんの」
「そこからですか」
人を増やせば仕事は進む。
だが、人間一人増やしたところで、床は広くならない。
*
それでも、仕事の方は待ってくれなかった。
先に入ってきたのは大森寛だった。
山崎より二つほど若い。国産車ディーラーで整備をしていたが、片桐モータースが人を探していると聞いて、自分からやってきた。
「なんでうちなの」
「片桐さんの仕事、前から見てましたから」
「給料、ディーラーより良くないよ」
「それでもいいです」
「変な奴」
結局、そのまま入った。
和子だけは、二日目にはもう「もりちゃん」と呼んでいた。
もう一人は清水宏典。
二十歳。自動車短大を出たばかりの新卒だった。
大森のように片桐モータースへ強い思い入れがあったわけではない。募集を見て面接を受け、話してみたら採用された。
最初は一般整備を覚えさせるつもりだった。
ところが清水は字が読みやすく、書類をなくさず、頼んだものを忘れなかった。
「ひろくん、これ車検場お願い」
「また俺ですか」
「一番ちゃんと帰ってくるから」
「それ、褒めてます?」
「褒めてる褒めてる」
部品の引き取り、車検場への持ち込み、記録簿や細かな書類。
気づけば清水には、そういう仕事が集まるようになっていた。
「俺、整備士で入ったんですけど」
「やってるじゃん、整備も」
「比率の話です」
「ひろくんが一番間違えないのよ」
本人には多少不満があったが、店としては非常に助かった。
*
人が増えると、役割も自然に分かれていった。
「チーフ、こっち終わりました」
清水が声をかける。
「じゃあ次、青いカローラ。先にブレーキ見て」
「はい」
本人が名乗ったわけでも、誠が任命したわけでもない。
大森や清水の仕事を見て、迷えば先に相談を受け、誠へ持っていくべき仕事かどうかを判断しているうちに、いつの間にか山崎は「チーフ」になっていた。
そのチーフへ、事務所から和子が声をかける。
「浩ちゃん、部品屋さんから電話」
「今行きます」
清水が山崎を見る。
「浩ちゃんなんですね」
「聞かなかったことにしろ」
大森は笑った。
「俺なんか、もりちゃんだぞ」
「知ってます」
「お前はひろくんだろ」
「そうでした」
和子の方にも、いつの間にか呼び名が付いていた。
「センム、これ金曜納車ですよね」
「そう。そっちは木曜の午後まで部品来ないから先に外へ出して」
「社長が今日見るって」
「見る場所ないでしょ」
「ですよね」
専務という役職を決めた覚えは誰にもなかった。
だが、受付、電話、帳簿、部品の発注、入庫予定、納車予定、車検の日程まで握っている人間を、若い連中がそう呼び始めるのに時間はかからなかった。
片桐モータースで、その呼び名だけは妙に定着した。
*
誠の仕事は、逆に狭くなっていった。
何でもやらなくなったという意味ではない。
皆ができることを、皆に任せられるようになった。
一般整備は大森がかなりのところまで見られる。山崎が現場全体を回し、清水は整備をしながら車検場や書類仕事まで受け持つ。
誠自身が、オイル交換から車検の持ち込みまで全部抱える必要はなくなった。
その代わり、妙な車が誠のところへ残るようになった。
「社長、これお願いします」
大森が一台のポルシェ911を指した。
930型の3.0リッターSCだった。
「何これ」
「ディーラーからです」
「なんでディーラーの車がうちに来るの」
「向こうで分からなかったそうです」
「何が」
「冷えてると調子悪くて、暖まると普通になるって」
「何やった?」
「燃圧、圧縮、点火、吸気漏れまでは見てます」
「制御圧は?」
「暖機後は見ました」
「冷えてるときは?」
大森が止まった。
「……まだです」
「じゃあまだ何も分かってねえじゃん」
「何もではないでしょ」
「症状が出てるとき測らなきゃ意味ないだろ」
誠は911のリアフードを開けた。
大森も、その横へ回った。
そういう車が少しずつ増えた。
ディーラーで部品を替えても直らなかった車。別の整備工場で症状が再現しなかった車。古くなって資料が少ない車。改造されていて、どこまでが元の状態なのか分からない車。
誠自身は、どこから来た車なのかにはあまり興味がなかった。
分からないものが来れば、測った。
測って分からなければ比べた。
それでも分からなければ、一度元へ戻した。
片桐モータースは、一般の客にとっては相変わらず町の整備工場だった。
だが同業者の間では、少し違う名前で知られるようになっていった。
他所で分からなければ、片桐へ持っていく。
それだけだった。
*
問題は、ますます場所がなくなったことだった。
部品待ちの車はすぐには出ていかない。原因を追っている車も、一晩や二晩で答えが出るとは限らない。整備が終わった車ですら、客の都合でその日のうちに引き取られるとは限らない。
そして車は、仕事が終わっても小さくならなかった。
「今日これ出ないと、明日の車入らないよ」
和子が言った。
「終わってるんだろ?」
「終わってる」
「じゃあ取りに来てもらえばいいじゃん」
「朝から三回電話してる」
「来るって?」
「明日」
「じゃあ困る」
「こっちがね」
誠はしばらく、整備の終わった車を見た。
「……すまん、清水」
「はい」
「これ、どっか時間貸しの駐車場に停めてきて」
清水が顔を上げた。
「え」
「歩いて帰ってきて」
「俺、整備士で入ったんですけど」
「知ってる」
「最近、車より俺の方がよく動いてません?」
「若いから大丈夫だろ」
「そういう問題ですか」
和子が事務所から声をかけた。
「ひろくん、領収書もらってきてね」
「そこはちゃんとしてるんですね」
「当たり前でしょ」
清水は鍵を受け取り、諦めた顔で車に乗り込んだ。
しばらくして、その一台分だけ空いた場所へ、待っていた別の車が収まった。
誠は工場の中を見た。
二基のリフトは両方とも埋まっている。片方は作業中。片方は部品待ち。壁際には単車が一台。外にも車が詰まっている。
「まだ回るだろ」
和子が誠を見た。
「回ってるんじゃなくて、私が回してるの」
山崎が黙って下を向いた。
大森も違う方を見た。
誰も助け舟を出さなかった。
「……分かったよ」
誠が言った。
「何が?」
「探すよ」
「何を?」
「広いとこ」
和子は少し笑った。
「やっと?」
*
探し始めると、今度は別のことが分かった。
成増の土地が、誠の知っている値段ではなくなっていた。
旧宅と工場をまとめて売った場合の査定を見せられ、誠はしばらく紙を見た。
「……家と工場込み? 桁間違えてない?」
「間違えてません」
「建物込みで?」
「建物より土地ですね」
不動産屋は平然としていた。
誠はもう一度数字を見る。
「誰がこんな値段で買うの」
帰宅して和子へ見せると、和子も一度は数字を見直した。
「高いわね」
「だろ」
「じゃあ売ればいいじゃない」
「家がこんな値段するわけないだろ」
「するって言ってるんだから」
「おかしいだろ」
「世の中がおかしいのよ」
誠は納得していない顔のまま、もう一度紙を見た。
「……また、お袋の金か」
和子が顔を上げた。
「何?」
「ここ。最初に買ったの、お袋が残した金だろ」
「でも、そこから先はあなたが働いたんでしょ」
「最初がなきゃ増えてない」
和子は少し黙った。
「じゃあ、また使えばいいじゃない」
「何に」
「次の工場に」
誠は返事をしなかった。
ただ、もう一度査定の数字を見た。
母が残した金で、最初の工場を持つことができた。
借金に追われなかったから、すぐ答えの出ない車を置いて考えることができた。儲からないからと途中で投げず、分からないものを分からないまま返さずに済んだ。
あのとき、ふみが残した金で買えたのは、土地や工具だけではなかった。
技術だけを考えていられる時間も、その中に入っていた。
そして何十年か経って、その土地は思いもしなかった値段になっていた。
今度も、その金で時間を買える。
*
新しい場所は、和光市の新倉に見つかった。
朝霞との境にも近く、成増からそれほど離れてはいない。それでも、旧工場とは比べものにならない広さがあった。
道路側に工場と事務所を置き、その脇から奥へ車を入れられる。整備待ちの車も、部品待ちの車も、作業の終わった車も置ける。
さらに奥には自宅も建てられた。
誠が最初に気にしたのは工場だった。
「リフト、何基入る?」
和子が呆れた。
「家より先にそれ?」
「家は寝られりゃいいだろ」
「私はそこで暮らすの」
「俺も暮らすよ」
「寝るだけでしょ」
土地と建物、新しい設備に金はかかった。
それでも、旧宅と旧工場の売却代金に、それまで積み上げてきた店の蓄えを合わせれば、大きな借金を背負わずに済んだ。
むしろ誠が辟易したのは、銀行の方だった。
「このくらいまではご融資できます」
「そんなに要らない」
「ですが、せっかくですから設備ももう少し」
「足りてる」
「運転資金としてお持ちいただいても」
「使わない金をなんで借りるの」
旧宅と工場の土地に値段がつき、新しい土地と工場の話が進み始めると、それまでより明らかに銀行の態度が変わった。
頼んでいない金まで貸すと言う。
断ってもしばらくすると、また別の話を持ってくる。
「社長、今なら条件もいいですし」
「だから要らないって」
「借りられるときに借りておいた方が」
「返すの俺だろ」
最後には、銀行員が帰ったあとで和子まで笑った。
「お金借りてくださいって、向こうから何回も来るのね」
「変な時代だな」
誠には、必要もない金を借りて仕事を増やす理由が分からなかった。
借金を返すために仕事を選ぶくらいなら、最初から借りない方がいい。
母が残したもののおかげで、最初の工場でもそれができた。
今度も同じだった。
誠はまた、売上のためだけに仕事を選ばなくていい場所を手に入れた。
*
引っ越しの最後の日、機械も工具も運び出した旧工場は、驚くほど広く見えた。
いや、広いのではない。
何もなくなっただけだった。
床には油や冷却水の染みが残り、リフトの柱があった場所だけ色が違う。壁には棚や工具を留めていた穴が残っている。
誠は入口に立ち、しばらく中を見た。
「こんな狭かったっけ」
横で和子が言った。
「ずっと狭いって言ってたでしょ」
「そうだけど」
「何年ここでやったと思ってるの」
「何年だっけ」
「そういうところよ」
誠は笑った。
外では山崎たちが最後の荷物を積んでいる。
古い看板だけが、まだ入口の上に残っていた。
水野が開業祝いに持ってきた、「片桐モータース」と書かれた看板だった。その横には、4と7を崩して組み合わせた小さな印がある。
取り外した看板を見て、和子が聞いた。
「これはどうするの?」
「持ってく」
「新しい看板作るんでしょ」
「だから何」
誠は看板をトラックへ積んだ。
理由は説明しなかった。
*
新しい工場の看板については、誠以外が決めた。
「片桐モータースでいいじゃん」
誠が言う。
山崎が首を振った。
「今度はあの印、ちゃんと使いません?」
「何で」
「もうみんな、あの印で分かってますよ」
「名前書いてありゃ分かるだろ」
和子も古い看板を見た。
「せっかくずっと使ってきたんだから、これでいいんじゃない?」
「好きにすれば」
「じゃあ好きにする」
結果、新しい看板には、あの4と7を組み合わせた印が大きく入り、その横に簡潔に、
KATAGIRI
とだけ書かれた。
誠は完成した看板を見上げた。
「片桐モータースって書いてないじゃん」
「片桐って書いてあるでしょ」
「英語で」
「読めるでしょ」
「読めるけど」
山崎が笑った。
「諦めてください、社長」
古い「片桐モータース」の看板は捨てられなかった。
新しい工場の奥、作業場から事務所へ入る壁に掛けられた。
*
新しい工場には、古い顔も順番にやってきた。
最初に来た司郎は、ヤードへ入るなり周囲を見回した。
「……広っ」
「そう?」
「そう? じゃねえよ。前んとこ、車二台入れたら終わりだったじゃねえか」
「二台は入ったよ」
「そういう問題じゃねえよ」
司郎は工場の中を一周し、空いているリフトを見て、それからヤードに並んだ車を見た。
「これなら、終わった車を客が取りに来なくても仕事できるな」
「それ和子にも言われた」
「今までよく回してたな」
事務所から和子が言った。
「私が回してたの」
「だそうです」
司郎は笑った。
*
水野は、新しい看板の前でしばらく足を止めた。
以前は「片桐モータース」の文字の横に小さく入っていた印が、今度は店の顔になっている。
「でかくなったな」
「何が?」
「印だよ」
「ああ」
水野はそれ以上何も言わなかった。
工場へ入る。
壁に掛けられた古い看板を見つけると、その前でも少し立ち止まった。
「捨てなかったか」
「まだ使えるから」
「何に使うんだ」
「壁」
水野は一度笑った。
「そうか」
それだけだった。
誠には、その印が水野にとって何を意味するのか、まだ分からなかった。
*
刈屋が来たのは少し後だった。
工場の前へ車を止めると、看板ではなく、まず建物全体を見た。
中へ入り、リフトを見た。
作業台を見た。
工具棚、測定器、部品置場を見る。
それから外へ出て、工場からヤードへ車を出す動線まで確かめた。
誠が聞いた。
「何見てんの」
「工場だ」
「見れば分かる」
「だから見てる」
刈屋はもう一度工場を振り返った。
「今度は足りるのか」
「たぶん」
刈屋が誠を見る。
「……たぶんで工場を作るな」
誠は一瞬黙った。
それから笑った。
「それ、疾風にも言ってたな」
「お前にも言ってきた」
「そうだっけ」
「だから手を焼くんだ」
刈屋はそう言いながら、もう一度新しい工場を見た。
その顔には、特に感想らしいものは出なかった。
ただ、帰るまで一度も「足りん」とは言わなかった。
*
新しい印は、ステッカーにもなった。
ある日、長く店へ出入りしていた客が、その束を見つけた。
「これ一枚くれよ」
「何に貼るの」
「俺の車」
「駄目」
「なんでだよ。ずっとここで見てもらってるじゃん」
「全部じゃないだろ」
「エンジンは片桐さんじゃん」
「じゃあエンジンに貼れば」
「見えねえよ」
山崎が笑いを堪えながら、その車のボンネットを開けた。
誠が何気なく中を見て、眉を寄せる。
「これ誰がやった」
「何が?」
「この配線」
「ああ、俺。追加メーター付けたとき」
「……そう」
誠は配線を摘まんだ。
「動いてるぞ」
「動いてるな」
「問題ないだろ」
「他所でKATAGIRIがやったって言うなよ」
「言わねえよ」
誠は工具箱を開けた。
「何してんの?」
「直してる」
「頼んでないけど」
「見つけたからな」
横で山崎が聞いた。
「社長、ステッカーは?」
「駄目」
「やっぱり?」
その車には最後まで貼られなかった。
別の車には貼った。
誠たちが最初から状態を確認し、直すところを直し、最後まで見た車だった。
いつしか4と7のステッカーは、ただの店の広告ではなくなっていった。
だからといって、貼ってあれば永久に安心というわけでもない。
これはまだ少し先の話だが、古いステッカーの付いた中古車が入ってきたとき、清水が言った。
「これ、うちのですよ」
誠は一度見ただけだった。
「いつ貼った?」
「分かりません」
「そのあと誰が触った?」
「分かりません」
「じゃあ関係ない」
「でもステッカー」
「貼ってあるから大丈夫じゃねえよ。貼ったときは大丈夫だったってだけだ」
清水は、それ以降ステッカーだけで車を判断しなくなった。
*
KATAGIRIになっても、普通の仕事はなくならなかった。
近所の乗用車も来れば、商用車も来る。車検もやる。オイル交換だけで帰る客もいる。
その一方で、速さを目的にした車も増えた。
スカイライン2000ターボRS-X。
赤と黒のスカイラインでやってきた若い客が、ボンネットの中を覗き込みながら聞いた。
「もう少しブースト上げられません?」
「上げられる」
「じゃあお願いします」
「上げない」
「なんでですか」
「帰ってこなくなるから」
「そこまで上げませんよ」
「どこまでなら壊れないか分かってる?」
「片桐さんが分かるんでしょ」
「だから上げない」
山崎が横で少し笑った。もう、このやり取りを何度も見ていた。
別の日、別の客には、
「片桐さんって、チューニング屋ですよね」
と言われた。
「違う。修理屋だ」
「こんなの作っといて?」
「調子悪いところ直してるだけだ」
「三百馬力出てますよ」
「出るよ」
「それをチューニングって言うんじゃないですか」
誠は首を振った。
「一発だけ三百馬力出して壊れるなら、三百馬力のエンジンじゃない」
客が黙る。
「行くだけなら馬力はいくらでも出せる。帰ってこられるところまでがクルマだ」
チュチマは、その言葉を聞いていた。
誰が最初に言ったのか。
もう、そんなことはどうでもよかった。
*
ある日の夕方、スカイラインGTパサージュ24Vターボが工場へ入っていた。
直列六気筒はアイドリングを続けている。走れないわけではない。普通に乗るだけなら、気づかない者もいるかもしれない。
だがスカイラインは言った。
【ひとつだけ、出方が違う】
『どれだ』
【三つ目】
チュチマは反射的に誠へ向けて意識を伸ばした。
『誠。三番だ』
だが誠は、もう動いていた。
「三番だな」
『……そうだ』
それでも誠は、三番だと分かっただけでは終わらせなかった。点火、燃料、圧縮、配線、センサーを一つずつ確認し、途中で決めつけることをしない。
横で見ていた山崎が言う。
「やっぱり三番ですよね」
「三番がおかしいのと、何がおかしいのかは別だ」
誠はさらに作業を続けながら言った。
「分かった気になるのが一番危ねえ。測れ」
原因は、三番のインジェクターへ行く配線の接触だった。
修理して、もう一度スカイラインのエンジンを始動する。
【揃った】
スカイラインが言った。
誠は排気音を聞き、回転計を見た。
「よし」
『ああ』
チュチマも同じ答えを返した。
誠は一度も機械の声を聞かなかった。
最初から最後まで、言葉として聞こえたことはない。
それでも今では、声を聞けるチュチマとほとんど同じ場所へ辿り着く。しかも誠は、そこで終わらず、なぜそうなったのか、その先まで調べるようになっていた。
『声がなくても、ここまで届くのか』
チュチマは長い間、機械の声を誠へ届けようとしてきた。
昔は、それが自分の役目だと思っていた。
今では、誠が先に気づく。
少し寂しかった。
それ以上に、嬉しかった。




