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現代の付喪神は、時計の姿で顕現する。外伝2父ちゃん編  作者: lemonia


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12/14

声のいらない男

 ある日、片桐モータースへソアラ2800GTが入ってきた。


 それまで誠が慣れ親しんできた車に比べると、ソアラのエンジンルームでは電気がずいぶん大きな顔をするようになっていた。燃料は電子制御で送られ、点火も機械仕掛けだけではない。温度や回転数、吸い込む空気の量をセンサーが測り、それを一か所へ集めて判断する。


 山崎がボンネットを開けながら言った。


「これからはコンピューターですよ」


「だから何」


「いや、昔みたいに勘だけじゃ」


「勘だけでやってない」


 誠は回路図を広げた。分からない記号があれば調べ、センサーの出力を測り、必要なら新しい測定器も買った。


「こういうの、嫌じゃないんですか」


「何が」


「電子制御」


「分からんなら覚えりゃいいだろ」


 昔、必要になったから数学を覚えた。物理も覚えた。電子制御も、それと同じだった。


「機械が変わったんなら、見るもの変えりゃいいだけだろ」


 数日後、山崎が机の上を見ると、ソアラの回路図と資料が何冊も積まれていた。


「……片桐さん」


「何」


「もう俺より詳しくなってません?」


「何が」


「いや、いいです」


 新しい機械ほど、数字をよく出した。回転数、温度、電圧、圧力。昔なら分解して初めて分かったことを、今の機械は人間へ先に知らせてくれる。


 チュチマには、それが少し不思議だった。


 機械は昔よりずっと多くのことを人間へ伝えるようになっていた。


 ただし、人間に聞かせるための声ではなかった。


     *


 機械が変わる一方で、片桐モータースの方には、もっと単純な問題が起きていた。


 狭かった。


 開業したころには一基だったリフトも、仕事が増えるにつれて二基になっていた。その二基の脇に作業台と工具棚、コンプレッサー、溶接機、測定器が並び、壁際には単車を一台ばらせる程度の場所が残っている。


 誠一人なら、それでも十分だった。


 山崎が入って二人になっても、まだ何とかなった。


 だが、入ってくる車が増え、作業の種類が増えると、二基のリフトはたいてい何かに塞がるようになった。


 一台はエンジンを降ろしている。


 もう一台は部品待ち。


 その脇に単車が一台。


 外には今日納める車と、明日触る車が並んでいる。


 そんな日に限って、修理の終わった車を客が取りに来ない。


「山崎、これ外へ出して」


 誠が言うと、山崎は工場の入口から外を見た。


「出すところないですよ」


「じゃあ、あれ動かして」


「あれ今日取りに来るって言ってたやつです」


「まだ来てないじゃん」


「来てないからあるんです」


「電話した?」


「二回」


 そこへ和子が事務所から顔を出した。


「三回」


「来るって?」


「夕方」


「夕方じゃ次の車入らないだろ」


「だから昨日から取りに来てって言ってるの」


 そのとき、道路の向こうで一台の車がウインカーを出した。


 今日の午後に入る予定の車だった。


 誠と山崎が、同時に外を見た。


「……来たな」


「来ましたね」


 和子が二人の間を抜け、道路へ出ていった。


 どうにか空いた場所へ車を誘導しながら、運転してきた客へ何か説明している。


 山崎が言った。


「もう一人いた方がいいんじゃないですか」


「人増やしてどこで仕事すんの」


「そこからですか」


 人を増やせば仕事は進む。


 だが、人間一人増やしたところで、床は広くならない。


     *


 それでも、仕事の方は待ってくれなかった。


 先に入ってきたのは大森寛だった。


 山崎より二つほど若い。国産車ディーラーで整備をしていたが、片桐モータースが人を探していると聞いて、自分からやってきた。


「なんでうちなの」


「片桐さんの仕事、前から見てましたから」


「給料、ディーラーより良くないよ」


「それでもいいです」


「変な奴」


 結局、そのまま入った。


 和子だけは、二日目にはもう「もりちゃん」と呼んでいた。


 もう一人は清水宏典。


 二十歳。自動車短大を出たばかりの新卒だった。


 大森のように片桐モータースへ強い思い入れがあったわけではない。募集を見て面接を受け、話してみたら採用された。


 最初は一般整備を覚えさせるつもりだった。


 ところが清水は字が読みやすく、書類をなくさず、頼んだものを忘れなかった。


「ひろくん、これ車検場お願い」


「また俺ですか」


「一番ちゃんと帰ってくるから」


「それ、褒めてます?」


「褒めてる褒めてる」


 部品の引き取り、車検場への持ち込み、記録簿や細かな書類。


 気づけば清水には、そういう仕事が集まるようになっていた。


「俺、整備士で入ったんですけど」


「やってるじゃん、整備も」


「比率の話です」


「ひろくんが一番間違えないのよ」


 本人には多少不満があったが、店としては非常に助かった。


     *


 人が増えると、役割も自然に分かれていった。


「チーフ、こっち終わりました」


 清水が声をかける。


「じゃあ次、青いカローラ。先にブレーキ見て」


「はい」


 本人が名乗ったわけでも、誠が任命したわけでもない。


 大森や清水の仕事を見て、迷えば先に相談を受け、誠へ持っていくべき仕事かどうかを判断しているうちに、いつの間にか山崎は「チーフ」になっていた。


 そのチーフへ、事務所から和子が声をかける。


「浩ちゃん、部品屋さんから電話」


「今行きます」


 清水が山崎を見る。


「浩ちゃんなんですね」


「聞かなかったことにしろ」


 大森は笑った。


「俺なんか、もりちゃんだぞ」


「知ってます」


「お前はひろくんだろ」


「そうでした」


 和子の方にも、いつの間にか呼び名が付いていた。


「センム、これ金曜納車ですよね」


「そう。そっちは木曜の午後まで部品来ないから先に外へ出して」


「社長が今日見るって」


「見る場所ないでしょ」


「ですよね」


 専務という役職を決めた覚えは誰にもなかった。


 だが、受付、電話、帳簿、部品の発注、入庫予定、納車予定、車検の日程まで握っている人間を、若い連中がそう呼び始めるのに時間はかからなかった。


 片桐モータースで、その呼び名だけは妙に定着した。


     *


 誠の仕事は、逆に狭くなっていった。


 何でもやらなくなったという意味ではない。


 皆ができることを、皆に任せられるようになった。


 一般整備は大森がかなりのところまで見られる。山崎が現場全体を回し、清水は整備をしながら車検場や書類仕事まで受け持つ。


 誠自身が、オイル交換から車検の持ち込みまで全部抱える必要はなくなった。


 その代わり、妙な車が誠のところへ残るようになった。


「社長、これお願いします」


 大森が一台のポルシェ911を指した。


 930型の3.0リッターSCだった。


「何これ」


「ディーラーからです」


「なんでディーラーの車がうちに来るの」


「向こうで分からなかったそうです」


「何が」


「冷えてると調子悪くて、暖まると普通になるって」


「何やった?」


「燃圧、圧縮、点火、吸気漏れまでは見てます」


「制御圧は?」


「暖機後は見ました」


「冷えてるときは?」


 大森が止まった。


「……まだです」


「じゃあまだ何も分かってねえじゃん」


「何もではないでしょ」


「症状が出てるとき測らなきゃ意味ないだろ」


 誠は911のリアフードを開けた。


 大森も、その横へ回った。


 そういう車が少しずつ増えた。


 ディーラーで部品を替えても直らなかった車。別の整備工場で症状が再現しなかった車。古くなって資料が少ない車。改造されていて、どこまでが元の状態なのか分からない車。


 誠自身は、どこから来た車なのかにはあまり興味がなかった。


 分からないものが来れば、測った。


 測って分からなければ比べた。


 それでも分からなければ、一度元へ戻した。


 片桐モータースは、一般の客にとっては相変わらず町の整備工場だった。


 だが同業者の間では、少し違う名前で知られるようになっていった。


 他所で分からなければ、片桐へ持っていく。


 それだけだった。


     *


 問題は、ますます場所がなくなったことだった。


 部品待ちの車はすぐには出ていかない。原因を追っている車も、一晩や二晩で答えが出るとは限らない。整備が終わった車ですら、客の都合でその日のうちに引き取られるとは限らない。


 そして車は、仕事が終わっても小さくならなかった。


「今日これ出ないと、明日の車入らないよ」


 和子が言った。


「終わってるんだろ?」


「終わってる」


「じゃあ取りに来てもらえばいいじゃん」


「朝から三回電話してる」


「来るって?」


「明日」


「じゃあ困る」


「こっちがね」


 誠はしばらく、整備の終わった車を見た。


「……すまん、清水」


「はい」


「これ、どっか時間貸しの駐車場に停めてきて」


 清水が顔を上げた。


「え」


「歩いて帰ってきて」


「俺、整備士で入ったんですけど」


「知ってる」


「最近、車より俺の方がよく動いてません?」


「若いから大丈夫だろ」


「そういう問題ですか」


 和子が事務所から声をかけた。


「ひろくん、領収書もらってきてね」


「そこはちゃんとしてるんですね」


「当たり前でしょ」


 清水は鍵を受け取り、諦めた顔で車に乗り込んだ。


 しばらくして、その一台分だけ空いた場所へ、待っていた別の車が収まった。


 誠は工場の中を見た。


 二基のリフトは両方とも埋まっている。片方は作業中。片方は部品待ち。壁際には単車が一台。外にも車が詰まっている。


「まだ回るだろ」


 和子が誠を見た。


「回ってるんじゃなくて、私が回してるの」


 山崎が黙って下を向いた。


 大森も違う方を見た。


 誰も助け舟を出さなかった。


「……分かったよ」


 誠が言った。


「何が?」


「探すよ」


「何を?」


「広いとこ」


 和子は少し笑った。


「やっと?」


     *


 探し始めると、今度は別のことが分かった。


 成増の土地が、誠の知っている値段ではなくなっていた。


 旧宅と工場をまとめて売った場合の査定を見せられ、誠はしばらく紙を見た。


「……家と工場込み? 桁間違えてない?」


「間違えてません」


「建物込みで?」


「建物より土地ですね」


 不動産屋は平然としていた。


 誠はもう一度数字を見る。


「誰がこんな値段で買うの」


 帰宅して和子へ見せると、和子も一度は数字を見直した。


「高いわね」


「だろ」


「じゃあ売ればいいじゃない」


「家がこんな値段するわけないだろ」


「するって言ってるんだから」


「おかしいだろ」


「世の中がおかしいのよ」


 誠は納得していない顔のまま、もう一度紙を見た。


「……また、お袋の金か」


 和子が顔を上げた。


「何?」


「ここ。最初に買ったの、お袋が残した金だろ」


「でも、そこから先はあなたが働いたんでしょ」


「最初がなきゃ増えてない」


 和子は少し黙った。


「じゃあ、また使えばいいじゃない」


「何に」


「次の工場に」


 誠は返事をしなかった。


 ただ、もう一度査定の数字を見た。


 母が残した金で、最初の工場を持つことができた。


 借金に追われなかったから、すぐ答えの出ない車を置いて考えることができた。儲からないからと途中で投げず、分からないものを分からないまま返さずに済んだ。


 あのとき、ふみが残した金で買えたのは、土地や工具だけではなかった。


 技術だけを考えていられる時間も、その中に入っていた。


 そして何十年か経って、その土地は思いもしなかった値段になっていた。


 今度も、その金で時間を買える。


     *


 新しい場所は、和光市の新倉に見つかった。


 朝霞との境にも近く、成増からそれほど離れてはいない。それでも、旧工場とは比べものにならない広さがあった。


 道路側に工場と事務所を置き、その脇から奥へ車を入れられる。整備待ちの車も、部品待ちの車も、作業の終わった車も置ける。


 さらに奥には自宅も建てられた。


 誠が最初に気にしたのは工場だった。


「リフト、何基入る?」


 和子が呆れた。


「家より先にそれ?」


「家は寝られりゃいいだろ」


「私はそこで暮らすの」


「俺も暮らすよ」


「寝るだけでしょ」


 土地と建物、新しい設備に金はかかった。


 それでも、旧宅と旧工場の売却代金に、それまで積み上げてきた店の蓄えを合わせれば、大きな借金を背負わずに済んだ。


 むしろ誠が辟易したのは、銀行の方だった。


「このくらいまではご融資できます」


「そんなに要らない」


「ですが、せっかくですから設備ももう少し」


「足りてる」


「運転資金としてお持ちいただいても」


「使わない金をなんで借りるの」


 旧宅と工場の土地に値段がつき、新しい土地と工場の話が進み始めると、それまでより明らかに銀行の態度が変わった。


 頼んでいない金まで貸すと言う。


 断ってもしばらくすると、また別の話を持ってくる。


「社長、今なら条件もいいですし」


「だから要らないって」


「借りられるときに借りておいた方が」


「返すの俺だろ」


 最後には、銀行員が帰ったあとで和子まで笑った。


「お金借りてくださいって、向こうから何回も来るのね」


「変な時代だな」


 誠には、必要もない金を借りて仕事を増やす理由が分からなかった。


 借金を返すために仕事を選ぶくらいなら、最初から借りない方がいい。


 母が残したもののおかげで、最初の工場でもそれができた。


 今度も同じだった。


 誠はまた、売上のためだけに仕事を選ばなくていい場所を手に入れた。


     *


 引っ越しの最後の日、機械も工具も運び出した旧工場は、驚くほど広く見えた。


 いや、広いのではない。


 何もなくなっただけだった。


 床には油や冷却水の染みが残り、リフトの柱があった場所だけ色が違う。壁には棚や工具を留めていた穴が残っている。


 誠は入口に立ち、しばらく中を見た。


「こんな狭かったっけ」


 横で和子が言った。


「ずっと狭いって言ってたでしょ」


「そうだけど」


「何年ここでやったと思ってるの」


「何年だっけ」


「そういうところよ」


 誠は笑った。


 外では山崎たちが最後の荷物を積んでいる。


 古い看板だけが、まだ入口の上に残っていた。


 水野が開業祝いに持ってきた、「片桐モータース」と書かれた看板だった。その横には、4と7を崩して組み合わせた小さな印がある。


 取り外した看板を見て、和子が聞いた。


「これはどうするの?」


「持ってく」


「新しい看板作るんでしょ」


「だから何」


 誠は看板をトラックへ積んだ。


 理由は説明しなかった。


     *


 新しい工場の看板については、誠以外が決めた。


「片桐モータースでいいじゃん」


 誠が言う。


 山崎が首を振った。


「今度はあの印、ちゃんと使いません?」


「何で」


「もうみんな、あの印で分かってますよ」


「名前書いてありゃ分かるだろ」


 和子も古い看板を見た。


「せっかくずっと使ってきたんだから、これでいいんじゃない?」


「好きにすれば」


「じゃあ好きにする」


 結果、新しい看板には、あの4と7を組み合わせた印が大きく入り、その横に簡潔に、


 KATAGIRI


 とだけ書かれた。


 誠は完成した看板を見上げた。


「片桐モータースって書いてないじゃん」


「片桐って書いてあるでしょ」


「英語で」


「読めるでしょ」


「読めるけど」


 山崎が笑った。


「諦めてください、社長」


 古い「片桐モータース」の看板は捨てられなかった。


 新しい工場の奥、作業場から事務所へ入る壁に掛けられた。


     *


 新しい工場には、古い顔も順番にやってきた。


 最初に来た司郎は、ヤードへ入るなり周囲を見回した。


「……広っ」


「そう?」


「そう? じゃねえよ。前んとこ、車二台入れたら終わりだったじゃねえか」


「二台は入ったよ」


「そういう問題じゃねえよ」


 司郎は工場の中を一周し、空いているリフトを見て、それからヤードに並んだ車を見た。


「これなら、終わった車を客が取りに来なくても仕事できるな」


「それ和子にも言われた」


「今までよく回してたな」


 事務所から和子が言った。


「私が回してたの」


「だそうです」


 司郎は笑った。


     *


 水野は、新しい看板の前でしばらく足を止めた。


 以前は「片桐モータース」の文字の横に小さく入っていた印が、今度は店の顔になっている。


「でかくなったな」


「何が?」


「印だよ」


「ああ」


 水野はそれ以上何も言わなかった。


 工場へ入る。


 壁に掛けられた古い看板を見つけると、その前でも少し立ち止まった。


「捨てなかったか」


「まだ使えるから」


「何に使うんだ」


「壁」


 水野は一度笑った。


「そうか」


 それだけだった。


 誠には、その印が水野にとって何を意味するのか、まだ分からなかった。


     *


 刈屋が来たのは少し後だった。


 工場の前へ車を止めると、看板ではなく、まず建物全体を見た。


 中へ入り、リフトを見た。


 作業台を見た。


 工具棚、測定器、部品置場を見る。


 それから外へ出て、工場からヤードへ車を出す動線まで確かめた。


 誠が聞いた。


「何見てんの」


「工場だ」


「見れば分かる」


「だから見てる」


 刈屋はもう一度工場を振り返った。


「今度は足りるのか」


「たぶん」


 刈屋が誠を見る。


「……たぶんで工場を作るな」


 誠は一瞬黙った。


 それから笑った。


「それ、疾風にも言ってたな」


「お前にも言ってきた」


「そうだっけ」


「だから手を焼くんだ」


 刈屋はそう言いながら、もう一度新しい工場を見た。


 その顔には、特に感想らしいものは出なかった。


 ただ、帰るまで一度も「足りん」とは言わなかった。


     *


 新しい印は、ステッカーにもなった。


 ある日、長く店へ出入りしていた客が、その束を見つけた。


「これ一枚くれよ」


「何に貼るの」


「俺の車」


「駄目」


「なんでだよ。ずっとここで見てもらってるじゃん」


「全部じゃないだろ」


「エンジンは片桐さんじゃん」


「じゃあエンジンに貼れば」


「見えねえよ」


 山崎が笑いを堪えながら、その車のボンネットを開けた。


 誠が何気なく中を見て、眉を寄せる。


「これ誰がやった」


「何が?」


「この配線」


「ああ、俺。追加メーター付けたとき」


「……そう」


 誠は配線を摘まんだ。


「動いてるぞ」


「動いてるな」


「問題ないだろ」


「他所でKATAGIRIがやったって言うなよ」


「言わねえよ」


 誠は工具箱を開けた。


「何してんの?」


「直してる」


「頼んでないけど」


「見つけたからな」


 横で山崎が聞いた。


「社長、ステッカーは?」


「駄目」


「やっぱり?」


 その車には最後まで貼られなかった。


 別の車には貼った。


 誠たちが最初から状態を確認し、直すところを直し、最後まで見た車だった。


 いつしか4と7のステッカーは、ただの店の広告ではなくなっていった。


 だからといって、貼ってあれば永久に安心というわけでもない。


 これはまだ少し先の話だが、古いステッカーの付いた中古車が入ってきたとき、清水が言った。


「これ、うちのですよ」


 誠は一度見ただけだった。


「いつ貼った?」


「分かりません」


「そのあと誰が触った?」


「分かりません」


「じゃあ関係ない」


「でもステッカー」


「貼ってあるから大丈夫じゃねえよ。貼ったときは大丈夫だったってだけだ」


 清水は、それ以降ステッカーだけで車を判断しなくなった。


     *


 KATAGIRIになっても、普通の仕事はなくならなかった。


 近所の乗用車も来れば、商用車も来る。車検もやる。オイル交換だけで帰る客もいる。


 その一方で、速さを目的にした車も増えた。


 スカイライン2000ターボRS-X。


 赤と黒のスカイラインでやってきた若い客が、ボンネットの中を覗き込みながら聞いた。


「もう少しブースト上げられません?」


「上げられる」


「じゃあお願いします」


「上げない」


「なんでですか」


「帰ってこなくなるから」


「そこまで上げませんよ」


「どこまでなら壊れないか分かってる?」


「片桐さんが分かるんでしょ」


「だから上げない」


 山崎が横で少し笑った。もう、このやり取りを何度も見ていた。


 別の日、別の客には、


「片桐さんって、チューニング屋ですよね」


 と言われた。


「違う。修理屋だ」


「こんなの作っといて?」


「調子悪いところ直してるだけだ」


「三百馬力出てますよ」


「出るよ」


「それをチューニングって言うんじゃないですか」


 誠は首を振った。


「一発だけ三百馬力出して壊れるなら、三百馬力のエンジンじゃない」


 客が黙る。


「行くだけなら馬力はいくらでも出せる。帰ってこられるところまでがクルマだ」


 チュチマは、その言葉を聞いていた。


 誰が最初に言ったのか。


 もう、そんなことはどうでもよかった。


     *


 ある日の夕方、スカイラインGTパサージュ24Vターボが工場へ入っていた。


 直列六気筒はアイドリングを続けている。走れないわけではない。普通に乗るだけなら、気づかない者もいるかもしれない。


 だがスカイラインは言った。


【ひとつだけ、出方が違う】


『どれだ』


【三つ目】


 チュチマは反射的に誠へ向けて意識を伸ばした。


『誠。三番だ』


 だが誠は、もう動いていた。


「三番だな」


『……そうだ』


 それでも誠は、三番だと分かっただけでは終わらせなかった。点火、燃料、圧縮、配線、センサーを一つずつ確認し、途中で決めつけることをしない。


 横で見ていた山崎が言う。


「やっぱり三番ですよね」


「三番がおかしいのと、何がおかしいのかは別だ」


 誠はさらに作業を続けながら言った。


「分かった気になるのが一番危ねえ。測れ」


 原因は、三番のインジェクターへ行く配線の接触だった。


 修理して、もう一度スカイラインのエンジンを始動する。


【揃った】


 スカイラインが言った。


 誠は排気音を聞き、回転計を見た。


「よし」


『ああ』


 チュチマも同じ答えを返した。


 誠は一度も機械の声を聞かなかった。


 最初から最後まで、言葉として聞こえたことはない。


 それでも今では、声を聞けるチュチマとほとんど同じ場所へ辿り着く。しかも誠は、そこで終わらず、なぜそうなったのか、その先まで調べるようになっていた。


『声がなくても、ここまで届くのか』


 チュチマは長い間、機械の声を誠へ届けようとしてきた。


 昔は、それが自分の役目だと思っていた。


 今では、誠が先に気づく。


 少し寂しかった。


 それ以上に、嬉しかった。


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