帰ってこい
片桐モータースが新工場に移転する前、疾風が十六になったころ。
法律上は二輪免許を取れる年齢だったが、学校はそう簡単には許さなかった。免許を取らない。単車を買わない。乗らない。少し前に荒れただけあって、そういう空気が強い時代だった。
司郎が聞いた。
「免許取らねえの?」
「学校がうるせえ」
「隠れて取れよ」
誠が横から言った。
「やめとけ」
司郎が振り返る。
「お前が言うの?」
「そのために学校と喧嘩する意味ないだろ」
疾風も肩をすくめた。
「別にいいよ。コースじゃ乗れるし」
「それはそうだけどよ」
山崎がタイヤを転がしながら口を挟んだ。
「俺なら隠れてでも取ってただろうけどな」
「チーフ、そういうとこ雑だよね」
「お前までチーフって呼ぶな」
「みんな呼んでるじゃん」
「お前は山崎さんでいい」
疾風は司郎と山崎を交互に見た。
「……ていうか、三ない運動なんてできたの、あんたらが調子こいたせいだろが」
「俺ら?」
司郎と山崎が、ほとんど同時に言った。
「カミナリ族とボーソー族だろ」
「一緒にすんな!」
二人が同時に叫んだ。
結局、疾風は免許を取らなかった。取れなかったのではない。敢えて取らなかっただけだった。学校と揉めてまで公道を走る必要はないし、二年待てばそれで済む。
その間も司郎のところではCB50Sにも、もう少し大きな単車にも乗り、四輪ではスターレットだけでなく何台もの車を動かした。速く走る技術より先に、車体が何をしているかを感じ、その状態を崩さずに使うことを身体へ浸透させていった。
*
そして疾風が十八になった。その二年の間に、片桐モータースは新しい工場へ移り、看板もKATAGIRIに変わっていた。
学校も終わり、二年前なら面倒だった校則も、もう関係ない。教習所へ通うつもりは最初からなく、免許は試験場で直接取ることにした。
「試験場行ってくる」
朝、そう言うと、新聞を読んでいた誠が顔を上げた。
「勉強した?」
「した」
「学科じゃなくて」
「何を」
「試験の走り方」
「運転ならできるよ」
「そういうところが心配なんだよ」
疾風には意味が分からなかった。
*
ディーゼルのカペラで技能試験を終えたあと、試験官は採点表を見ながら疾風を呼び止めた。
「君、相当乗ってるだろ」
「乗ってません」
試験官が顔を上げる。
「いや、乗ってるだろ」
「公道では乗ってません」
「公道では?」
「閉鎖コースなら、小さいころから」
「誰に教わった?」
「親父の友達で、伊東司郎って人です」
試験官の鉛筆が止まった。
「……伊東司郎?」
「はい」
「国際A級の伊東司郎?」
疾風は少し考えた。
「たぶん」
「たぶんって、お前」
「他に伊東司郎っているんですか」
試験官は採点表を机へ置いた。
「あの伊東だろ。富士から出てきて、国内で上がっていって、五百まで乗った」
「五百には乗ってました」
「世界GPも走っただろ」
「そうなんですか」
試験官が疾風の顔を見た。
「お前、本当に知らんのか」
「そんなすごいの、あのオッサン?」
「オッサンって……」
試験官は呆れたあと、少し笑った。
「俺、覚えてるぞ。雑誌にも載った。世界の看板みたいな連中と同じところ走ってたんだ」
「へえ」
「へえ、じゃない。途中まで全然引かなかった。向こうの方がいいマシンだったはずなのに、コーナーじゃ離れない」
そこまで話すと、試験官の方が少し熱を帯びた。
「ところが途中からエンジンがおかしくなった。高い回転でばらつくようになったらしい」
「で?」
「普通なら追うんだよ。せっかく世界のトップと同じところ走れてるんだから。でも伊東はやらなかった。途中から露骨に回さなくなった」
「壊れると思った?」
「たぶんな。早めにシフトして、抜かれても追わない。順位は落ちた。それでも止まらず走って、九位でポイント持って帰った」
疾風は少し考えた。
「……それ、親父みたいだな」
「親父?」
試験官は、ちらっと採点表へ目を落とした。
「片桐って……KATAGIRIの、片桐誠か?」
「そうですけど」
「……お前、あそこの息子か」
今度は疾風の方が少し驚いた。
「親父もそんな知られてんの?」
「レースや速い車に関わってりゃ、名前くらいは聞くよ」
試験官は改めて疾風を見る。
「伊東司郎に乗り方教わって、片桐誠の息子か」
「そうです」
「そりゃ妙に乗れるわけだ」
「それ、関係あります?」
「あるだろ」
試験官は笑いながら採点表を取り直した。
「まあ、それならこの乗り方も分かる」
「受かりました?」
「いや」
「え」
「今日は落とす」
「なんで」
「確認」
「してましたよ」
「知ってる」
「じゃあ」
「俺には分かった。でも試験は、見てるって分からなきゃ点にならん」
疾風は納得できない顔をした。
「ただし伊東に習ってようが、確認は確認だ。今日は落とす」
「そこは駄目なんですね」
「当たり前だ」
試験官は採点表を閉じた。
「次は俺には当たらないかもしれんが、あざといくらいに首振ってみろ」
「あざといくらいに?」
「見てるだけじゃ駄目だ。見たって分かるようにやれ」
「なるほど」
「あと、伊東の真似して走るなよ」
「してないです」
「してるから言ってんだ」
*
その日の夕方、KATAGIRIにはちょうど司郎がいた。疾風は工場へ入るなり言った。
「落ちた」
「なんで」
「確認してるのが分からないって」
司郎は笑った。
「見せなきゃ試験にならねえだろ」
「知ってたなら先に教えろよ」
「聞かなかっただろ」
「普通教えるだろ」
「普通、運転できる奴に首の振り方まで教えねえよ」
横で工具を片づけていた山崎も笑った。
「試験場は運転できるだけじゃ駄目だからな」
「チーフまで知ってたの?」
「聞かれなかったし」
「この店、そういうのばっかりだな」
疾風はしばらく司郎を見た。
「司郎のおっさん」
「何だ」
「あんた、そんなすごかったの?」
司郎が眉を上げる。
「今ごろ気づいたか」
「世界GP走ったの?」
「ちょっとな」
「ちょっとって何」
「何戦か」
「ポイント取ったって」
「取った」
「なんで言わなかったの」
「聞かなかっただろ」
「またそれかよ」
疾風は呆れた。作業台の向こうから誠が言う。
「昔から口だけは速かったぞ」
「お前は黙ってろ」
司郎が即座に返す。
疾風は笑ったあと、試験官から聞いた話を思い出した。
「でも、途中でマシンおかしくなって、勝負やめたんだって?」
司郎の顔から、少しだけ笑いが消えた。
「まあな」
「もったいなくなかった?」
「もったいなかったよ」
「じゃあなんで」
司郎はすぐには答えず、少し離れたところで作業している誠を見た。
「昔、一台壊したからな」
誠は何も言わなかった。疾風にも、その意味は分からなかった。
「ふうん」
それだけ言って、疾風は次の試験の日を確認した。
「次は受かる」
「首振れよ」
「分かったよ」
*
二度目の仮免技能試験で、疾風は前回とは別人のように首を振った。
もちろん、運転そのものを変えたわけではない。ミラーも見ているし、交差点へ入る前には左右も確認している。前回だって、それ自体はしていた。ただ、それでは試験官には確認しているように見えなかったらしい。
だから今回は、ミラーを確認してから右を向き、左を向く。目だけで十分見えるところまで、わざわざ首を動かして見せた。本人としてはかなり馬鹿馬鹿しかったが、前回の試験官から「あざといくらいに首振ってみろ」と言われた以上、その通りにやるしかない。
カペラを所定の位置へ戻し、試験官の指示で車を降りると、採点表を見ていた男が少し妙な顔をした。
「君、確認大きいね」
「前回、あざといくらいに首振れって言われました」
「誰に?」
「前の試験官です」
試験官は一瞬黙ったあと、採点表へ目を戻した。
「……まあ、見ないよりいい」
疾風はその日のうちに仮免許を受け取った。
*
仮免許を取ると、今度は実際の道路で練習することになった。助手席に乗ったのは司郎だった。
KATAGIRIのカローラバンに「仮免許練習中」の標識を付け、疾風は初めて一般の交通へ出た。車を動かすことそのものに不安はなかった。発進も停止も、車幅感覚も、ブレーキの加減も、試験場で初めて覚えたものではない。
それでも、閉鎖コースと公道では勝手がまるで違った。前を走る自転車が何の前触れもなく少し右へ寄り、路地からは軽トラックが鼻先を出す。青信号なのに前車が理由もなく減速することもあれば、横断歩道の脇に立つ人間が渡るのかどうかも分からない。
最初のうち、疾風はそうしたものを一つずつ「避ける対象」として見ていた。
「近い」
司郎が言った。
「何が」
「前」
「止まれるよ」
「止まれるかどうかじゃねえ。止まらなくて済む距離を取れ」
疾風は少しアクセルを戻し、前車との間を広げた。
しばらく走ると、今度は左から自転車が出てきた。疾風は早めに速度を落とし、自転車がそのまま道路を横切るのを待った。
「今のは?」
司郎が聞く。
「見えてた」
「そうじゃねえ」
「何」
「出てくるかもしれないと思ったろ」
「まあ」
「それでいい」
司郎は前を見たまま続けた。
「コースにいる奴は、みんな走るつもりで来てる。道路は違う。何するか分からん奴まで一緒に走ってる」
閉鎖コースでは、車をどう動かすかを覚えればよかった。だが公道では、車の外にいる人間まで含めて読まなければならない。その違いは、疾風が思っていたよりずっと大きかった。
何日か練習するうちに、疾風の運転は少しずつ変わった。必要なら早めに速度を落とし、前車との距離を取る。見えないところでは急がず、相手がこちらの想像どおりに動くとは考えない。
司郎は次第に何も言わなくなった。
それが、たぶん合格だった。
*
本免許の路上試験は一度で通った。
免許証を受け取ってKATAGIRIへ戻ると、山崎が最初に気づいた。
「どうだった」
「受かった」
「首振った?」
「もういいよ、その話」
山崎が笑う。作業台の向こうで誠が顔を上げた。
「そう」
「それだけ?」
「何が」
「もうちょっとないの?」
誠は少し考えてから、カローラバンの鍵を放った。
「じゃあ、もう一人で走れるな」
疾風が鍵を受け取る。
「どこ行くの」
「どこでもいい。ちょっと走ってこい」
「一人で?」
「免許取ったんだろ」
山崎が横から、
「事故るなよ」
と言った。
誠は車の方も見ずに、
「帰ってこい」
とだけ言った。
「分かってるよ」
疾風は笑って工場を出た。
*
一人で道路へ出ると、妙な感じがした。隣に司郎はいない。何をしても誰も口を出さない。だからといって自由になったような気もしなかった。むしろ、判断するのが全部自分になったぶん、前より責任が増えたように感じた。
速く走ろうと思えば走れる。黄色信号へ無理に入ることも、前の車へ詰めることもできる。隣に司郎はいないから、止める者もいない。
けれど、そんなことをしても意味はなかった。疾風は普通に走った。信号で止まり、前車との距離を取り、見えないところでは速度を落とした。
途中、少しだけ交通量の少ない道へ入り、アクセルを踏んでみた。カローラバンのエンジンが少し大きな音を立て、車体が前へ出る。
疾風はその動きを確かめるように少しだけ踏み続け、それから戻した。
「まあ、こんなもんか」
誰に言うでもなく呟いた。
少し遠回りしてKATAGIRIへ戻り、車をいつもの位置へ入れてエンジンを止めた。
工場へ顔を出す。
「ただいま」
誠は作業の手を止めなかった。
「おかえり」
それだけだった。




