次の腕
チュチマは、そのやり取りを誠の左腕から見ていた。
疾風は一人で出ていき、自分の判断で戻ってきた。
誠もそうだった。
チュチマが先に知らせなくても、誠はもう自分で機械の答えへ辿り着く。
『誠』
当然、返事はない。
『お前にはもう、私は必要ない』
誠が工具を置いた。
理由もなく左腕を見る。文字盤の中では、秒針がいつも通り動いている。
『あいつに渡してやれ』
誠はしばらく時計を見ていた。それから、工場の外にいる疾風へ目を向けた。
「……そろそろか」
山崎が振り返る。
「何がです?」
「いや」
誠自身にも、なぜそう思ったのかは分からなかった。ただ、その考えだけが妙に自然にそこへ収まった。
*
数日後、誠はチュチマを外した。
持っていったのは、昔から使っている時計屋だった。十五歳のとき、止まったままのチュチマを初めて持ち込んだ店でもある。
ただし、カウンターの向こうにいる男は、あのころとは違っていた。
「いらっしゃい」
誠が差し出した時計を受け取ると、男はすぐに表情を変えた。
「ああ。片桐さんのですね」
「覚えてる?」
「そりゃ覚えてますよ。親父の代から診させてもらってる時計ですから」
誠が使い始めてからも、チュチマは何度かこの店へ戻ってきていた。止まるまで放っておくことはせず、調子が悪くなる前に整備へ出し、必要なら部品も交換してもらった。
自分で中を開けようとは、一度も思わなかった。
「今回は、いつものオーバーホールですか」
「いや」
誠は少し間を置いた。
「息子に渡そうと思って」
時計屋は一度、誠を見た。それから手の中のチュチマを見る。
「……そうですか」
「だから、その前に一回見といて」
「分かりました。じゃあ、いつもより念入りに見ておきます」
「いつも通りでいいよ」
「分かりました。親父のころから、やってきたとおりに」
時計屋も父から店を継ぎ、誠もいつの間にか、父親として時計を次へ渡そうとしている。
誰もそれを口にはしなかった。
*
数週間後、チュチマはKATAGIRIへ戻ってきた。
誠はすぐには疾風へ渡さず、まず自分の左腕へ戻した。数日、いつも通りに使いながら時刻を見て、クロノグラフを動かし、遅れや進みがないか確かめる。
山崎がそれを見て言った。
「片桐さんなら、時計くらい自分で触れそうですけどね」
「触らんよ」
「なんでです?」
「知らねえものまで触るのは腕じゃねえよ」
「でもエンジンなら初めて見るのでも開けるじゃないですか」
「開ける前に調べるだろ」
「時計も調べれば」
「時計屋がいるだろ」
山崎は少し考えて、
「まあ、そうですけど」
と引き下がった。
チュチマは静かに時を刻んでいた。誠の腕で過ごす時間が、もう長くないことだけは分かっていた。
*
その日の夕方、疾風は工場の端で山崎の作業を眺めていた。
「疾風」
誠に呼ばれ、振り返る。
「何」
誠は左手首のベルトを外し、チュチマを差し出した。
「これ」
「時計?」
「持っとけ」
疾風はすぐには受け取らなかった。
「いいの?」
「いいよ」
「ずっと着けてたじゃん」
「だからだよ」
疾風はようやく受け取った。
子供のころから何度も見てきた時計だった。黒い文字盤。細かな傷の入ったケース。新品のように綺麗ではないが、それまでずっと誠の腕にある姿しか知らなかったせいか、手のひらに載せると妙に違って見えた。
「俺が若いころからずっと着けてた」
誠が言った。
「事故らず帰ってきたからな」
疾風が顔を上げる。
「親父、事故くらいしてるだろ」
「帰ってきただろ」
「……まあ、そうだけど」
疾風はもう一度時計を見る。
「これ、こないだ時計屋に出してたやつだろ」
「そう」
「俺にやるため?」
「そう」
「なんで急に?」
誠は少し考えた。
免許を取ったから。十八になったから。もう子供ではないから。
理由をつけようと思えば、いくらでもつけられた。だが、どれも少し違う気がした。
「……たぶん、今かなと思った」
「たぶんって何だよ」
「知らん」
疾風が笑った。
「親父が分かんないこともあるんだ」
「あるよ」
「へえ」
「いらないなら返せ」
「いる」
疾風はすぐに答えた。
*
疾風はチュチマを左腕に巻いた。
誠の腕に長く馴染んだ革ベルトは少し緩く、穴を一つ内側へ通すとちょうどよく収まった。腕を持ち上げ、文字盤を見る。
「なんか爺くさくない?」
「じゃあ返せ」
「いや、もらうって」
山崎が横から覗く。
「似合ってるよ」
「それ褒めてる?」
「十八でその時計してる奴、そうそういないぞ」
「やっぱ爺くさいってことじゃん」
誠は二人のやり取りを聞きながら、自分の左腕を見た。
十五歳で初めてチュチマを巻いて以来、三十年近くそこに時計があるのが当たり前だった。それでも、不思議と何かを失った感じはしなかった。むしろ、長く預かっていたものがようやく次の場所へ移ったような、そんな感覚の方が近かった。
チュチマは疾風の腕から、空いた誠の左腕を見ていた。
『誠』
届かない。
最後まで、言葉として届くことはなかった。
それでもチュチマには分かっていた。この男には、もう自分が必要ない。
『それでいい』
誠は理由もなく左手首を一度さすった。
*
「じゃあ、ちょっと走ってくる」
疾風が言った。
「また?」
「今度は時計付き」
「関係ないだろ」
「試してくる」
「時計を?」
「何となく」
「時計は走らせても速くならんぞ」
「分かってるよ」
疾風は笑って工場を出た。
少しして、外でエンジンがかかる。車はゆっくりと道路へ出ていった。
チュチマは、新しい腕の体温を感じていた。
誠とは違う。歩幅も、腕の振り方も、脈の速さも違う。まだ若く、これから何をするのかも分からない。
それでも、その腕は確かに次の場所だった。
『疾風』
疾風が、ふと左腕を上げた。
文字盤を見る。
それから前を向き直る。
聞こえたのか。
ただ時刻を見ただけなのか。
チュチマにも、まだ分からなかった。
ただ一つ確かなのは、もう誠の腕ではないということだった。
チュチマは、次の腕で時を刻み始めた。
これにて父である片桐誠編終了で、1990年からの片桐疾風へと続きます。
引き続きお楽しみください。




