4 ネムちゃん
◇◇◇
「大丈夫ですか!? 今、おもいっきり頭を打ちつけましたよね?」
「うっ。ネム……。ネムちゃんが」
「………………眠? やはり、頭の打ちどころが悪かったんじゃ?」
「急がなきゃ!」
「待ってください。とにかく、立ち上がらないと、何処にも行けませんよ」
床に仰向けになったまま、じたばた両手をばたつかせているわたしに、彼は救いの手を差しのべてくれた。
「ありがとう。ごめんなさい」
「そんなことより、ネムちゃんって?」
「わたしの家族のネムちゃんよ。最近、暑くて、散歩が足りてなかったから、怒っているのね」
「散歩?」
「やだ。こうしちゃいられないわ。行かないと」
高齢なネムちゃんが、地響きを起こして、叫ぶくらいだ。
緊急性が高いに決まっている。
乱れた髪もそのままに、わたしは、全速力で家の隣にある巨大な物置まで走り出した。
……が、しかし。
てっきり、呆れて帰ると思っていたのに……。
なぜか、青年は私にぴったりと寄り添っていた。
(何で?)
そのまま、帰ってくれても良かったのに。
――謎だ。
やはり、交通費を欲しくなったのだろうか?
「あのー……。ミレーナさんって、犬でも飼っているんですか?」
「飼う……だなんて? とんでもないわよ。あの子は、わたしの唯一の家族で、相棒よ」
「家族で相棒?」
そうだ。
崇高で賢くて強い、人間なんかが遠く及ばないモノ。
(本当は、採用した方に、もったいぶって見せたかったんだけど、この際、仕方ないわね)
ほーら、見てちょうだい! わたしの可愛い家族を!!
……と言わんばかりに、わたしは得意げに、母屋の隣の元は牛舎だったネルちゃんの小屋の引き戸をおもいっきり全開した。
見た?
可愛いでしょう?
脳内で、出来上がっていた我が子自慢の流れ。
しかし、その親バカが結果的に災難を招くことになったのだ。
―――瞬間。
「…………っくしゅゅゅんんん!!!」
ネムちゃんの特大のくしゃみが、湿った風と水滴をまき散らして、棒立ちになっていた彼=サイリさま目掛けて、華麗に命中したのだった。
(おう……)
全身、くまなく濡れたわね。
漆黒の髪も、立派な魔法使いのローブも、ぐしょぐしょになるくらい。
……見ちゃいけない。
でも、ここは私の家。
逃げるわけにはいかなくて、わたしは彼と向かい合うしかなかった。
(あーーあ)
被害者のサイリ《《さま》》は、頭の前から爪先まで、ネムちゃんの唾液に塗れていて、悲惨なほど、ぐっしょりになっていた。
「……なるほど。ミレーナさんは、ずいぶんと変わった家族をお持ちみたいですね?」
それは、間違いなく皮肉でしょう。
ふさふさの耳と尻尾。
毛むくじゃらな外見に、ふわふわの翼。二階建てだった小屋の中身全体を占拠している大柄の体躯。
「…………デカイですよ」
サイリさまが口の端を歪めて、呟いた。
「まさか、貴方が幻獣を飼っていたなんてね……」
彼はべとべとになった髪を、慎重にかきわけながら、目のあたりだけ、ポケットから取り出したハンカチーフで拭い、まじまじとネムちゃんを観察していた。
こんな場面だというのに、大層、お美しいこと。
水も滴るいい男だなんて……。
(実際は、ネムちゃんの生温かいアレなんだけどね……)
ああ、見惚れている場合じゃなかった。
「サイリ……さま。この度は、その……このようなことになってしまって、何とお詫びを申し上げれば良いものか……」
「本当にね」
「…………ぐ」
……社交辞令的な謝罪は拒否か。
(いまどきの若者は、肝が座っているわ)
サイリさまは、容赦なく、本音をぶつけてきたようだ。
「まったく、面接だからと、気合をいれてしまったのが間違いだったんでしょうかね。僕の一張羅。特級魔法使いにしか支給されない貴重な外套が、獣の唾液でべたべたになるなんて……。もう、お先真っ暗。人生おしまいですね」
「えっと……。し、死なないでね」
「別に死にはしませんよ。ちょっと言ってみただけです。でも、この一着で、ここで提示された給料の一年分くらいの金額にはなると思うんですけど」
「それは、わたしが死んだ方が良い額ね?」
「ふふん。どうせ、弁償するつもりなんてないんでしょうに?」
「………………モウシワケ」
ぐうの音もでなくて、わたしが壊れた人形のように、頭を下げようとしたら……。
「わぉぉぉん!!」
再び、ネムちゃんが雄叫びをあげた。
なんという、過激な自己表現。
ふかふか好きなネムちゃんのために、敷き詰めていた干し草を、四肢を使って豪快に蹴り飛ばしている。




