29 間違いなく悪役設定
◇◇◇
この季節、長い時間、外に出ているもんではない。
中天が過ぎれば、陽射しの温もりは消えてしまい、寒さしか主張をしなくなってくる。
(風邪をひく前に、早く収拾をつけなくちゃ)
痛そうな音を立てて、その場に膝をついたサイリ君を、わたしは目を細めて見下ろしていた。
「忘れ薬……。わたし、君に嘘を吐いていたわ。実は作っていたのよ。改良版。これで半年分の記憶が消えるはず。……大丈夫よ。安全性は、保証できているからね」
「………………」
いつもの減らず口が返ってこないのは、寂しいけれど、こうすることが一番。
わたしは、早い段階で、ここにサイリ君の追手がやってきたら、これを使おうと決めていた。
ここにいた期間、丸々。
半年分の記憶を失うことは、彼にとって痛手になるかもしれないけど、でも、毒舌が吐けるほど近しかった部下、髪の薄いイーヴンと、筋肉を信仰しているフレッドがいれば、サイリ君は、きっと大丈夫だ。
(もう少ししたら、彼らを起こして、サイリ君を、王女さまのところに連れて行ってもらおう)
それから先は、サイリ君自身が決断することだ。
「君は、本来の自分の人生を生きなくちゃ……」
わたしは、サイリ君を労わるように、その場に屈んだ。
長いドレスの裾が地面に触れている。
よりにもよって、汚れが目立ちそうな薄黄色の分厚いドレス。
上手な洗濯の仕方を、優秀な家事能力も持っている彼に、聞いておけば良かった。
もう二度と、毒舌だけど凄腕の「使用人」とは会えない。
「こうすることが一番なの。無駄を嫌う君なら、分かるでしょう。わたしのところにいたところで、何の発展性もないのよ」
この家は、高齢の幻獣と、高齢のおばあちゃんが慎ましく、その日暮らしをしている場所だ。
(最初から、サイリ君は期間限定の使用人って話だったんだから、雇用期間の最終日が少し早まったっていいじゃないの)
「わたしはね、君は凄い人だって、本当に思っているから、その力を、わたしのところだけではなく、たくさんの人のために役立ててほしいのよ。辛い経験ばかりしたルファス家とは、この際、縁を切ったって構わないじゃない? 王女さまだって、君が「いい人」だって思っている方なら、真剣に話せば、君の想いを理解してくれるはずよ。だから……ね」
指先だけ、彼の黒髪に触れてみた。
さらさらと思っていたけど、意外に癖っ毛だったみたいだ。
「なんか、君って猫みたいねえ」
変態さながらに、この感触を忘れないでおこう。
そんなことを、ちらっと考えてしまったら、何だか、うるっときてしまった。
「ああ、嫌になるわ。年を取ると、涙腺が。ふふっ」
――と、涙混じりに笑っていたら……。
猫ではなく、犬のように、サイリ君は、ぶるぶるっと身じろぎして、激しく頭を横に振ったのだった。
「いい加減、やめてください。くすぐったいんですけど?」
「あっ、ごめんなさい」
ずいぶんと、早いお目覚めだ。
わたしの計算では、あと一時間は朦朧としているはずだったのに……。
(……嫌だわ。サイリ君、記憶がないのに、目覚めた瞬間、見知らぬおばさんが、頭を撫でているって、とんでもない悪夢よね。心の傷を増やしてしまったわ)
犯罪?
(訴えられるのは、わたしなのかしら?)
「気分を害したと思うから、謝るわ。わたしは、その……怪しい者じゃなくてね……」
「知っていますよ。ミレーナさん。……僕の髪を乱して、気は済みましたか?」
「……………はい?」
今まで生きてきて、一、二に入るくらい、わたしは、ぎょっとした。
ついさっきまで、わたしに好き勝手に撫でられていたサイリ君が顔を上げて、わたしを凝視しているのだから。
「……あ……れ?」
あらら?
慌てて、ポケットに戻したはずのアトマイザーを確認しようとしたものの……。
すでに、それは、わたしのもとを離れて、サイリ君の手中にあった。
………あいつ、盗んで行ったのだ。
(ああ、わたしが君の頭を撫でて、感傷に浸っている間に、ポケットから奪っていたのね)
気づかなかったわよ。
サイリ君ったら、スリの才能もあるんじゃないの。
「……やっぱり……ね。あの咆哮で、幻獣がここにいることを、軍に知られるかもしれないのに、貴方は、そのことは特段気にしていなかった。バレたとしても、自衛ができるからですよね?」
「…………えー……と」
「やると思ったんですよ。三時間は心許ないから。絶対「改良版」を作っていて、持ってくるだろうなって。危険を察知していたので、余裕を持って顔を隠すことができました。貴方の緩慢な動きのおかげです」
悪戯っ子のように、嗤わないでほしい。
(……君、間違いなく、今、悪役の設定になっているわよ)
「どうせ、わたしは緩慢な動きしかできないわよ。ああ、もう、バレていたのなら、仕方ないけど。サイリ君。いい子だから、それ……わたしに返してくれないかな?」
「嫌ですよ。当然でしょ。また同じことされたくないですからね」
「でも、今、わたしが言ったこと。あれが真実なのよ。遥々、お迎えが来てくれたのなら、それに乗っかっておいた方がいいでしょ。そのうち、帰りたくても帰れなくなってしまうわ。今、いるべきところに戻っておくのが、君のためなんじゃないの?」
「…………君のため……ねえ」
まるで、地獄の底で這っているような声で、サイリ君が反芻した。
半年間、彼と付き合ってきたのだから、よく分かる。
彼は、めちゃくちゃ怒っているのだ。




