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Act7.「ホットココア」

 夢子が居た場所から歩いて数分のところに、常盤の家はあった。鬱蒼と茂っていた森が開け、整えられた道の先にポツンと洋館が佇んでいる。それは鉄格子の門に守られた、アンティーク調の立派な邸宅だった。


 外壁は暗い赤茶色のレンガ張りになっている面と、白色の漆喰で塗られた面に分かれている。二階建てで、焦げた色の三角屋根には小窓が付いていた。ドールハウスのように可愛らしくも、重厚な“本物感”がある。周囲には他に人の住む建物は見当たらずとても静かだ。


 夢子は彼に導かれるまま門を通る。入ってすぐ左手には庭があった。手入れはされているのだろうが飾られてはいない、最低限の緑があるだけの整然とした庭だ。建物の一階から続くようにタイルが敷かれており、その上に椅子とテーブルが置かれたテラスがある。


 玄関まであと数歩のところで、扉が自動的に開いた。こんなに作りこまれた世界観で、まさかここだけ現代風の自動ドアなのかと思ったが、そうではない。開かれた扉の向こうから小さな影がひょっこり現れた。そこに居るのは幼い少年だ。少年は夢子たちをつぶらに見上げながら、声変わり前の澄んだ声で「おかえり」と言った。


 夢子の胸下までしかない背丈、華奢な体躯、幼い顔立ちを見るに、少年は小学校低学年くらいの年齢だろう。常盤の弟だろうか? それにしては年が離れ過ぎている。……まさか息子なんてことは……あるだろうか。ちらりと常盤の様子を窺うと、彼は夢子が口を開くよりも先に「同居人だ」と言った。小さく「親子ではない」と付け加えて。

(わたしはそんなに、何か言いたげな顔をしていたかな?)


 黄朽葉色の髪を綺麗に切り揃えたその少年は、小さな体には大きすぎるアイボリーのカーディガンをぶかぶかと纏い、薄水色の長いマフラーを首に巻いている。淡い黄色の瞳は曇りなく、冬の朝の如く清澄で、そこには無垢な少年のあどけなさと、大人びた知性が共存していた。見れば見るほど吸い込まれそうになる。……頭にちょこんと乗っかった、小さな丸い耳らしきものについて触れるのは、また後ででいいだろう。


「こんばんは、お姉さん。ようこそ」

 初対面の人物に対して少しも臆した様子のない少年に、夢子は自分の方が幼いように錯覚した。少年は大きな瞳でじっと夢子を見つめている。人からこれ程まっすぐ見つめられることなど中々あるものではなく、照れはしたが、不思議と全く嫌ではなかった。

 この少年の視線や言動からも敵意は感じられない。夢子は出来るだけにこやかに挨拶を返し、名乗った。すると少年も名前を教えてくれる。


 少年の名前は黄櫨はじというらしい。常盤同様に和を感じる響きに、夢子はこの世界がどこの国に近いのか分からなくなった。きっと自分の知るどこの国でもないのだろう。


 黄櫨に迎えられ家の中に入ると、静かで落ち着いた香りがした。頭の固そうな古色の家具たちはどれも時が止まって見える。他所の家に入ると異世界のように感じるのは、元の世界と同じらしい。

 綺麗に絨毯の敷き詰められた廊下を靴のまま歩くことは、生粋の日本人である夢子には抵抗があり、できるだけそっと歩いた。


 暖炉が燃える暖かな部屋に通された夢子は、一目で上等だと分かるソファに座るよう促され、両手でスカートの裾を整えながらそっと腰を下ろす。できるだけ礼儀正しく、優雅に努めようとしたのだが……外と中の寒暖差にやられたのか、くしゃみが出た。


「あ、ごめんなさい……」

「大丈夫か? すぐに温かい飲み物を持ってこよう」

 常盤は黄櫨に「彼女の手当てをするように」と言い残すと、さっと部屋を出ていってしまう。こんな小さな子に手当てって……と戸惑う夢子だが、黄櫨の行動は早かった。


 黄櫨は「まず傷を洗おう」と夢子を手洗い場に連れていき、洗い終えて再び部屋に戻ってくると、体を寄せ隣に座った。そしてその小さな手の平を夢子に差し出す。疑問符を浮かべる夢子に、黄櫨は「手当てするよ」と言った。


「本当に、大したことないんだよ。小さな掠り傷ばっかりだし」

「手当てしないと、僕が常盤に怒られる」

 夢子は気が引けたが、そう言われてしまえば従うしかなかった。傷付いた自分の手を黄櫨の手の上にそっと置く。黄櫨の横には救急箱があった。一緒に部屋に戻ってきた時には持っていなかった筈だが……一体いつの間に?


 黄櫨は夢子の傷に眉一つ動かさず淡々と、手際よく処置を施していく。消毒し軟膏を塗り込む優しい指先がくすぐったかった。手の平、手の甲、膝……。こうして一つ一つ見ていくと、思った以上にたくさんの傷をこさえていたらしい。殆どは穴を出て斜面を滑った時のものだろうか。これだけの怪我で済んだのが不思議なくらい、ハードな体験をした気がする。


「大きな傷には、絆創膏も貼っておこう」

「うん。でもそれくらいは、自分で貼るよ」

 そう言った夢子に、往生際が悪いと言わんばかりに黄櫨は溜息を吐いた。年下の少年の窘めるような態度はなんとも可愛らしい。夢子は素直に「お願いします」と委ねた。


「手当てっていうのは、手を当てることなんだよ。そしてその手は、他人のものの方が効果がある」

「え?」

「夢子は、手当てする手が傷だらけのなのと、傷一つないのと、どっちがいいと思う?」

「それは……傷がない手、かな」

「ほら、そうでしょ」

 当たり前のように語られる少年の自論は、意外と子供っぽい。夢子は“マイナスとマイナスは、乗じるとプラスになるよ”という無粋な屁理屈を飲み込んだ。

 手当ては、自分じゃない誰かの手の方が効果がある。それが体の治癒速度に関係するかどうかは分からないが、怪我して弱った心に他人の優しさが作用するのは本当のことに思えた。


 黄櫨が丁寧に絆創膏を貼っている間、夢子はそっと部屋を見回す。部屋の奥には橙色の炎が燃えている暖炉。体だけでなく目にも暖かく、パチパチと爆ぜる音は耳に心地よい。壁、床、テーブルは風合いのある木製で、部屋全体が深みのある茶系の色で統一されている。天井の八灯式シャンデリアと、壁掛けランプの琥珀色の光が、革張りのソファに艶やかに反射していた。


 まるで上質なホテルみたいな部屋だ。この部屋も、玄関も、手洗い場も、どこもかしこも生活感がない洗練された空間である。この世界では皆、こんな家に住んでいるのだろうか?


「はい、おしまい」

 夢子が黄櫨の声に引き戻された時、役目を果たし終えた救急箱は既にどこかへ姿を消していた。代わりに黄櫨の手には分厚い本が鎮座している。……また、いつの間に。救急箱の消失も本の出現も、見逃してしまった。この少年は手品師なのだろうか?


「手当てしてくれて有り難う。その本は?」

「今読んでる本。本を持ってると落ち着くんだ。いつでも、どこでも、同じことが書いてあるから。時々変わるけど」

 黄櫨はパラパラとページをめくって見せる。紙面にはひたすら細かい文字が埋め尽くされているだけで、挿絵も会話も見当たらない。とても幼い少年が読む本には思えなかった。しかし彼は読むのだろう。夢子はこの少年のことをもっと知りたいと思った。そのためにはまず、自分の話からするのが礼儀だろう。


「そういえば、わたしのこと……ちゃんとお話ししてなかったよね。わたしは遠くから来たの。だからこの辺のことに詳しくなくて、森で迷って困ってたところに、常盤さんが声を掛けてくれたんだ。突然知らない人の手当てをすることになって、驚いたでしょ?」

「驚いたよ。知らない人じゃなかったから」

 夢子は首を傾げる。知らない人じゃない……と黄櫨は言った。それはつまり以前から“夢子のことを知っていた”ということだろうか。思えば黄櫨だけでなく、最初に会った時の常盤の反応も、初対面にしてはおかしくなかっただろうか。


「わたし達、初対面だよね?」

「そうだよ」

「……黄櫨くんは、わたしを知ってるの? 人違いではなく?」

「うん。知ってるよ」

 これはどうしたものか、と夢子は悩む。相手は子供だ。年不相応の落ち着き様で忘れがちだが、幼い子供なら、反射的に知ったかぶりをしてしまうこともあるだろう。いちいち追及や否定をするのは大人げなく思えた。結局夢子は、一旦自分の疑問を保留にする。


「そっか。でもわたしは黄櫨くんのこと、何も知らないから、教えてくれると嬉しいな」

「……いいよ。僕は、黄櫨。ここで常盤と二人で暮らしてる。眠りネズミの黄櫨だよ」

「眠りネズミ? 君はネズミなの?」

「うん、そう」

 今度はきっと、幼い子供の戯れ言ではない。何故ならここは不思議の国で、不思議の国には眠りネズミが居るもので、そして何より彼の言葉を証明するように――その頭には可愛らしいものが二つ、付いている。実のところ初めて彼を見た時から、夢子はずっとそれが気になっていた。


「素敵なお耳だね。少しだけ、触ってみてもいい?」

 夢子がそう言うと、黄櫨の丸い目がより丸くなる。分かりにくいが驚いているようだった。それもそうだ。出会ったばかりの他人に耳を触らせてくれ、なんて言われたら誰でもそうなるだろう。現実世界だったなら変質者として即通報ものだ。夢子はそれを重々承知していたが、やはりどうしても、触れて確かめたいのだ。目の前に存在するものが確かにホンモノであると確認したい。


 人間の頭に生える獣の耳。一見現実の世界と変わらない不思議の国で、それだけがはっきり明確なファンタジーだと思えた。


「別に、いいよ」

 黄櫨から了承を得て、夢子は遠慮がちに手を伸ばす。夢子は黄櫨がいつでも拒めるように出来るだけゆっくりとした動作を心がけたが、彼がその手を払いのけることはなかった。


 指先が丸い耳に触れる。冷たい。細かな毛でふわふわしている。思っていたより薄い。柔らかい。ぐにぐにする。指で充分堪能した夢子は、次に手の平で包み込み、撫でてみた。されるがままになっていた黄櫨だったが、どうやらそれはくすぐったいらしく、手の中から逃げるように両の耳をピクピクと動かす。夢子は「ごめん」と慌てて手を引いた。黄櫨は何も言わなかったが、特に気を悪くした様子もない。いや、読み取れないだけかもしれない。表情の乏しい子だった。


 透き通る瞳、白い頬、小さな口。彼には人形の如く清らかで常なるものがある。それは、彼が血の通った生物であるということを忘れてしまいそうな程に、無機質で――神聖だった。


「そういえば、黄櫨くんは眠りネズミなのに眠ってないんだね?」

 夢子が尋ねると黄櫨はすぐに頷く。無愛想な表情に反して、対応は丁寧で優しい。


「僕、眠るのは好きじゃないんだ。眠っている間って何も出来なくて、損したみたいだから。常盤にはよく怒られるんだけどね」

 眠らない眠りネズミ、なんて。変なの。アリスを追いかける白ウサギ、なんてのも変だ。なんて素直じゃない世界なんだろう。


 カタ、とドアが開き、常盤が戻ってきた。彼の手にはカップを三つ乗せたトレーがある。白く立ち上る湯気は見ているだけで体が温まった。お礼を言って受け取った夢子は、カップから香る甘い匂いに頭を痺れさせる。


 カップの中身はホットココアだ。濃いチョコレート色はドロリと重量感がある。ふう、と息を吹きかけて冷まし、唇の先で温度を確かめながらそっと味わう。……美味しい。ココアを練って練って、ミルクと混ぜた味。濃厚な甘味がじんわりと全身に広がり、疲労や緊張が解かれていく。疲れた時にはとことん甘いものが沁みるな、と思った。隣の黄櫨も同じものを飲んでいるので、子供向けの味付けにしているのかもしれない。常盤は紅茶を飲んでいるようだった。


「とっても美味しいです。生き返ったみたい」

「それは良かった。体は温まったか? ブランケットならあるが……」

 夢子は「大丈夫です」と遠慮する。この部屋は十分に暖かいし、これ以上手間を取らせるのは申し訳ない。それに早く本題に入りたかったのだ。常盤は説明を求める夢子の視線に、ティーカップをソーサーに置いて、一つ息をついた。


「さて、何から話すべきか……。君はピーターからどこまで聞いている?」

「アリスが世界の終焉を企てていて、白ウサギになってアリスを捕まえるのが、わたしの役目だということと……それくらいでしょうか」

 他に何か言っていただろうか? 落ち着いた状況で丁寧に聞いていた訳ではないから自信がない。


「えっ。君が白ウサギになるの? どういうこと? じゃあピーターは?」

 黄櫨がカップを置き、丸い目で夢子に迫る。夢子は予想していなかった反応に驚いた。「黄櫨」と、常盤が静かに名前を呼ぶ。すると黄櫨は落ち着きを取り戻し、スルスルと自分の位置に戻っていった。


(どういうこと? はこっちが訊きたいんだよね、ほんと)

 そういえばピーターは、説明役は自分の他に適任が居ると言っていた。もしかするとそれがこの人だったのかもしれない。夢子が常盤を見ると、彼は憂いを含んだ複雑な顔をしていた。夢子は森で初めてそれを告げた時の反応を思い出し、きっと彼にとって良くない状況なのだろうと察する。


「ごめんなさい。面倒ごとに巻き込んでしまって」

「いや、君が謝る必要はない。巻き込まれたのは君の方だろう」

 夢子は彼の優しい言葉に、曖昧に微笑む。最初に自分から巻き込まれにいったということは、言わないでおいた方が良さそうだ。


「気の毒だが、巻き込まれた以上は知ってもらわなければならない。この世界のこと。この世界で今何が起きているのか。それから、白ウサギの役目について。本来ならピーターが責任をもって説明すべきところだが……あいつのことだ。面倒だと、私に押し付けていったんだろう」

 夢子は彼の“押し付けていった”という言葉に、去り際のピーターの行動を思い返す。


「あの人がわざわざ常盤さんの家の近くで銃を撃ったのは、そういうことだったんですか?」

 常盤は「そういうことだろうな」と呆れたように言う。

 夢子はひとつ安心を得た。あの時のピーターの発砲は、自分に向けられたものではなかったのだ。良かった。だがあんな真似をしなくても、常盤に一言声を掛けていけば良かったのではないか?


 もしかすると、ピーターが夢子のことを直接頼んでいかなかったのは、それでは常盤に受け入れてもらえないと考えたからではないだろうか。……トランプ兵が言っていた。異世界人は不吉で危険な存在なのだと。


 常盤は不思議なまでに、夢子がここに来た経緯や、何者なのかを尋ねようとしない。更に彼の言葉の端々には、夢子がこの世界を知らない余所者であることを理解しているかのような言い回しが散りばめられていた。

 夢子は彼がどこまで察しているのか分からず、正体を明かせずにいる。異世界人と知られた瞬間追い出されたらどうしよう。


 夢子はマグカップの側面を強く握り締める。触れた部分からは心地よい熱が伝わってきた。早く体が温まるように、という優しさの込められたココア。しかしきっと歓迎はされていないのだろう。


「……説明を始めよう。何か分からないことがあったら、話の途中で遮ってくれて構わない。疲れたら言ってくれ」

「はい、お願いします」

 夢子は色々なものを飲みこみ、頷く。


「まずこの世界について、最も重要な話をしよう」

 常盤は話を始めた。

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