Act6.「差しのべられた手」
夜の帳が完全に下り、闇に沈む森。一人置き去りにされた夢子は、座り込んだまま呆然と周囲を眺めていた。
ここにいると、またあのトランプ兵に捕まってしまうかもしれない。とはいえ、他の場所がここより安全な保証もない。先程の恐怖を思い出すと、立ち上がる気力は湧いてこなかった。
恐らくこの世界は、夢子が生きてきた現代日本より、ずっと危険に満ちている。銃や槍を当たり前に向けられる世界。そんな場所で今、夢子の手にあるのはたった一つの手錠だけ。それを押し付けた白ウサギの言葉が脳裏に過る。
『世界が終わる前に“アリス”を捕らえること。それが、この国での君の役目だよ』
その役目を果たさなければ、元の世界には帰れない。
だが夢子には、何をどうすればいいかさっぱり分からなかった。
(穴の中ではしゃいでたのが嘘みたい。……とにかく、どこか安全な場所を探さないと)
地面を押しのけるようにして、どうにか立ち上がる。そして、慎重に一歩を踏み出した。
トランプ兵がいた方とも、ピーターが去っていった方とも違う方向へと進む。頼りになるのは淡い月明かりだけ。暗い森は先が見通せず、どこにも辿り着けない気にさせる。そしてその不安は、歩みを進める度に強くなっていった。
どこまで行っても、木と草と地面の代わり映えのない風景が続く。続く。続く。続く。夢子は、まるで同じ場所をぐるぐる回っているような錯覚に陥った。……錯覚だと、思っていたかった。
特徴的な形の木の枝。少し前に転びかけた石。それが何度も何度も、同じ位置に現れる。代わり映えがないどころではなく、全く変化がない。
――同じ場所を、繰り返し歩き続けている。
(そんな、まさか……)
ザア、と木々が風でざわめいた。夢子はびくりと震え、逃げるように歩みを早める。だが視界を流れる景色は、どこまでもどこまでも同じ顔で付いて来て、夢子を恐怖と絶望に追い込もうとした。
もしこのまま、永遠に森を彷徨うことになったら? 夢子の頭に、最悪な想像が浮かぶ。それは、一気に心を折りにかかってきた。
(もう駄目、歩けない……)
夢子が諦めかけたその時、ようやく待ち望んだ変化が現れた。
果てしなく続く森の奥に、人がいる。青白い月明かりに浮かび上がるのは、白ウサギでもトランプ兵でもなく、まともな格好の若い男だった。
静かに宙を見つめていたその視線が、夢子へと移る。
「……幻覚か」
零れ落ちた男の呟き。夢子が「え?」と反応すると、男の目は驚愕に見開かれた。
「まさか……何故ここに……」
信じられない、という顔の男。夢子には、彼が何に対してそんなに驚いているのか分からなかった。敵意は感じられないものの、普通ではないその反応は十分警戒に値する。
逃げるべきかもしれない。
だが今は、誰かに助けを求めたくて仕方がない。
(どうしよう、危ない人には見えないけど……)
男にウサギ耳は生えていない。ライフルも槍も持っていない。ベストにジャケットというかっちりとした装いは、いかにも真面目そうだ。派手ではないが整った顔立ちで、年齢は二十代半ばに見えるが、もっと若いようにも歳を重ねているようにも見える。
落ち着いた茶褐色の髪は、程よく崩されこなれていた。一見すると短髪に見えるが、首に沿って伸ばされた長い襟足がちらりと覗いている。
男の姿に妙な心地良さを覚え、思わず見入っていた夢子は、彼が近付いて来たことにぎょっとした。後退り、先程転びかけた石で今度こそ転んでしまう。
「大丈夫か!」
男は駆け寄り、夢子の傍で片膝をついた。その動作に童話の王子様みたいだ、なんて場違いなことを思ってしまい、夢子は気恥ずかしくなる。
「あ、はい」
「……君は、ここで何をしていたんだ?」
「わたしは……」
夢子は、声は出るが言葉が出なかった。何から話せばいいのか分からない。森の様子がおかしいこと? それよりもっと前のことから?
トランプ兵との経験を活かし、返答例を用意しておくべきだったと後悔する。
異世界人だと知られれば、この人も態度を変えるかもしれない。トランプ兵を呼ばれるかもしれない。だから注意深く言葉を選ばなくてはならないが、考えれば考える程、何も出てこなかった。
困り顔で黙り込む夢子を見かね、男が質問を変える。
「先程、この辺で銃声がしただろう。怪我はないか?」
「はい。大丈夫です」
「そうか、良かった」
男はほっと息をつき、僅かに表情を和らげたが……夢子の手にある手錠に気付くと、途端に険しい顔になる。
「君は背の高いウサギ……いや、片眼鏡の男を見たか?」
「見ました。背の高いウサギ耳の片眼鏡の人。見たというより、わたしはその人にここまで連れて来られたんです。その人……ピーターさんが言うには、わたしが、」
このまま話していいものだろうか? 夢子は一瞬迷ったが、彼がピーターのことを知っているのなら話すべきかもしれない。今の自分の状況について、何か教えてもらえるかもしれないと思った。
「わたしが白ウサギになって、アリスを捕まえないといけない……らしいです」
男が息を呑む。驚きと困惑を浮かべたその瞳は、すぐに険しい色を帯びていった。何かを堪えるように、眉間に皺を寄せて目を伏せる彼。しかし抑えられなかったのか、荒々しく息を吐き出す。
「――くそっ!」
男は力強く握り締めた拳で、近くの木の幹を殴った。見た目からは想像できない乱暴な行いに、夢子はびくりと体を縮こませる。
男はそんな夢子を見てはっと我に返ると、若干焦った顔で「すまない」と詫びた。それから取り繕うように咳払いをする。
「それで、あいつはどこに行ったんだ?」
「わ、分からないです。詳しい説明もなく、どこかへ行ってしまいました」
夢子の返答に、男は呆れたように溜息を吐く。その反応は、ピーターがどういう人物なのかをよく知っている風だった。
「あの、ところであなたは……?」
「――ああ。私は常盤という。この近くに住んでいる者だ」
「わたしは夢子といいます。その……はじめまして」
状況にそぐわない、ごく普通の挨拶。夢子にそれを返された常盤は、一瞬だけ静止した。彼の翡翠色の瞳は愁いを帯び、夢子を透かしてどこか遠くを見る。しかし、夢子がそれに気付くことは無かった。
「突然“こんなところ”に連れてこられて、大変だっただろう。何か酷いことはされなかったか? 本当に怪我はないか?」
常盤は優しく問いかけ、遠慮がちに夢子の体を見る。夢子は穴から転げ出た時にこさえた擦り傷をさりげなく手で隠した。これくらい、どうってことはない。
「はい、大丈夫です。それよりもわたし……これからどうしたらいいのか、分からなくて」
「私なら君の置かれた状況について、ある程度の説明ができる。だが話は後だ。とりあえず私の家に来なさい。夜風で体が冷えただろう? 話をするのは君が充分温まって――怪我の手当てが済んでからだ」
どうやら全てお見通しらしい。夢子の努力は無駄だったようだ。強がりがばれて決まりが悪くなり、夢子はぎこちない笑みで誤魔化す。常盤は笑みを返すどころか、どこか固い面持ちになり――静かにゆっくりと、夢子に手を差し伸べた。
その手と常盤の顔を見比べる夢子。彼は、夢子が自ら手を取るのを待っている。それはまるで、野生の小動物を手懐けようとしているかのようだった。常盤の緊張が夢子に伝わり、空気が優しく張り詰める。
彼を信じて付いて行っていいのだろうか? と思わなかった訳ではない。しかし夢子の体は、自分でも驚くほど素直に彼の手を取っていた。ピーターとは違い優しく引いてくれる常盤の手に助けられながら、夢子は立ち上がる。
彼の手は硬くて温かかった。遠慮がちに最低限の力で夢子を包んでいたその手は、夢子がしっかり立ったのを見届け、離れていく。
「あっ!」
「どうした?」
「いえ、その……この森、おかしいんです。さっきから同じ場所をぐるぐる回ってて、全然出られなくて」
「ああ、それなら大丈夫だ」
(……なにが?)
常盤に付いていくと、何故か簡単に森から抜けられた。




