Act5.「アンダーランド」
「動くな!」
背中に突き刺さる制止の声に、起き上がろうとしていた夢子は動きを止めた。その声は白ウサギのものではない。彼よりも少し高いテノールだ。
(一体なに?)
戸惑う夢子の首横で、すっと空気が動いた。目だけでそこを確認した夢子は、あまりの状況に息を呑む。――刃物だ。槍の先端のようなものが首に突き付けられている。
きゅっと心臓が縮み上がった。体が硬直し、悲鳴さえ上げられない。
声の主は夢子が大人しくしているのを見て、槍を少しばかり遠ざけ「立て」と命じる。夢子は力の入らない足で、何とか立ち上がった。そして横目でそっと、槍を持つ人物……青年を見る。
歳の頃は夢子と変わらないくらいだ。黒い髪に黒い瞳。頭には円筒状の帽子。濃紺の学生服じみた詰襟に、白いゼッケンみたいなものを付けていて、その真ん中には赤いハートが一つ、大きく描かれている。
「何者だ。一体ここで何をしている」
青年の後ろには、同じような格好の者が数名。ハートの数は人によって違い、トランプのようだった。彼らは皆一様に夢子を警戒している。
(……なんで?)
特に怪しい身なりをしている訳ではない。彼らにとって見慣れないものだと言われればそれまでだが、一般的な女子高生の制服姿だ。格好が問題でないなら、ここが立ち入り禁止の場所だったのかもしれない。
とにかく何か答えなければと、夢子は声を振り絞った。
「あの、わたしは穴から落ちてきて……あれ?」
視線でそこを指し示した夢子は、目を疑う。そこには穴も、転げ落ちてきた斜面すら無かった。魔法みたいに忽然と消えている。
苦し紛れの嘘だと思われては堪らない、と焦る夢子。しかし青年は疑うどころか納得したようだった。
「やはり異世界人か。この森は異世界へ繋がりやすいと聞く。もう長いこと、迷い込んでくる者はいなかったが……」
なんだ、分かってるんじゃないか。それなら話が早い!
夢子は案外すんなり理解してもらえたと、ほっとする。だが。
「異世界人はこの世界に混沌を招く、危険な存在だ。申し訳ないがここで始末させてもらう」
「えっ!? ちょっと待ってください! わたしは、」
「問答無用!」
青年が槍を構え直す。そして、鋭い切先が夢子の首を貫く――かに思われたその時、“轟音”が響き渡った。
例えばその音を文字に起こすなら、ドキュン、ドカン、バコン。文字面は間抜けになりがちだが、実際は違う。空気が破裂し、衝撃が波となり、鼓膜を震わせる。
それは、重い銃声だった。
青年がはっと音の方を見る。驚いた彼が槍を持つ手を震わせなかったのが幸いだった。夢子も繋がったままの首をおずおず回して、そちらを見る。
少し離れたその場所には、大きな銃身を悠々と構える長身。それは、いつの間にか姿が見えなくなっていた白ウサギだった。
「邪魔だよ」
静まり返ったその場に、抑揚のない冷たい声が響く。白ウサギの言葉と視線は、足元の何かに向けられていた。
(あ……)
一陣の風が吹き、夢子の元に夏の夜の匂いを運ぶ。硝煙は、場違いな花火大会を彷彿とさせた。
「君さ、なんでちゃんと付いてこないの?」
呆然としている夢子に、白ウサギが歩み寄る。彼は片手にライフルを提げたまま、もう片方の手で夢子の腕を掴み「ほら行くよ」と言った。そのまま夢子を連れて行こうとする白ウサギに、青年が声を上げる。
「お、お待ちください! 事情は存じ上げませんが、その少女は異世界人に見受けられます。危険な不穏分子たる異世界人を見逃す訳にはまいりません!」
話し方からして、彼らは面識があるようだ。使命感に燃える青年に、白ウサギは心底面倒そうに溜息を吐く。
「ハア。僕を異世界人と間違えるくらいだから、勘違いじゃない?」
「……暗くてお姿がよく見えず、部下が無礼を働いたようで申し訳ございません。ですがその少女は、」
「しつこい。そもそも君達“トランプ兵”に、僕を止める権限は無いだろ」
(……トランプ兵?)
夢子は改めて彼らのゼッケンを見た。ここにいるのは、全員ハートのカードらしい。
青年は暫く押し黙り、やがて諦めたように一歩後ろに下がる。他のトランプ兵達も、さっと白ウサギに道を空けた。
夢子は彼に腕を引かれてその場を後にする。最後に、一度だけ振り返ってしまった。
銃声が聞こえた方向。森の茂みに隠されたそこには――人影が伏している。先程の白ウサギと青年のやりとりから察するに、白ウサギも夢子同様捕まりかけたのだろう。そして、何らかのいざこざが起きた。
今が夕暮れで本当に良かったと、夢子は心から思った。
明るければ見えてしまうものを、闇が曖昧にしてくれているから。
――夢子は白ウサギに掴まれたまま、森の中を歩かされる。訊きたい事は山程あった。だからこそ何から訊けばいいのか選べない。それと、少しだけ逃げ出したかった。
ぴたり。何もないところで、どこかに辿り着いたかのように、白ウサギの足が止まる。夢子は今度はその背に鼻をぶつけることは無かった。
白ウサギは夢子の腕から手を離すと、自分より遥かに小さな少女を圧するように見下ろす。
「君、名前は」
「……夢子です。七日町夢子」
「それ、どっちが名前?」
「七日町が苗字で、夢子が名前です」
おかしなことを訊くのだな、と夢子は思った。もしかすると不思議の国では海外のように、名前が先で苗字が後なのだろうか?
「二つも名前があるなんて面倒くさいな」
「え……では、お好きな方をどうぞ」
どうやらここでは、名前は一つだけらしい。
トランプ兵との一件を引きずり、どこか反応の鈍い夢子。そんな彼女に、白ウサギは何かを差し出した。夢子は近付いてきた手にびくりと肩を震わせ、過剰に反応してしまったことを恥ずかしく思いながら、彼の手にある物を見る。
それは銀色に光る金属の輪。手錠だ。
一瞬拘束されるのかと身構えたが、そうではないらしい。彼は強引に、夢子の手にそれを押し付けた。
「君にはこれから、しなくちゃいけないことがある」
夢子は“ようやくか”と思った。やっと本題という訳だ。彼が自分をこの世界に連れてきた理由が遂に分かるのである。しかし告げられたそれは、より疑問を深めるものでしかなかった。
「世界が終わる前に“アリス”を捕らえること。それが、この国での君の役目だよ」
「……え?」
全く意味が分からない。
夢子は改めて、自分の手にある手錠を見た。それは刑事ドラマで使われている無骨なものではなく、アンティーク調の細やかなあしらいが施されたアクセサリーめいたものだ。だが重みがあり、頑丈な作りをしている。恐らくおもちゃではない。
(これでアリスを捕まえるってこと? 世界が終わるってなに? なんで、わたしが?)
大量の疑問符を浮かべる夢子を無視して、白ウサギは続ける。
「アリスはこの国のどこかに潜んでる。それを探し出し、追いかけ、捕らえるのが白ウサギの役目」
「ちょっと待って下さい。なんで白ウサギがアリスを追いかけるんですか? アリスが白ウサギを追いかけるのが物語の冒頭でしょう?」
「そんなの知らないよ」
「……白ウサギの役目ということは、わたしは、あなたのお手伝いをすればいいんですか?」
あまりに理不尽な要求だが、それをこなさない限り元の世界に帰ることはできないと、夢子には何となく想像がついていた。それがお約束の展開というものである。
しかし首を横に振った白ウサギの次の言葉に、夢子は呆気にとられるしかなかった。
「違うよ、僕じゃない。君が白ウサギになるんだ」
「え?」
――何を言っているんだこの人は。いや、このウサギは。
わたしが白ウサギになる、だって? わたしは人間だし、彼のように長い耳は生えていないし、髪だってこの通りの色素の濃さ。これじゃあ百歩譲って黒ウサギだろう。そもそも“なる”ってなんだ。なるって……白ウサギになる? わたしはどちらかというと、アリスの気分でここに来たのに?
「なんで?」
「ならなくちゃいけないからだよ。君は僕の代わりに白ウサギになって、アリスを捕らえる。役目を果たさないと君は帰れない。いいね、君が白ウサギだ。分かった?」
そんなのいい訳ないじゃないか。と思いながらも、それを口に出来ない。彼の勝手な言葉には、嫌だとは言えない何かがある。
「……耳の短い、黒ウサギでも?」
「姿形にそれほど意味は無いよ。説明は、僕がするより適任がいるから」
まるで「じゃあ」とでも言うような声色に夢子は慌てる。急にそんな訳の分からないことを言われて、右も左も分からない場所に置き去りにされてたまるものか。この世界は危険すぎる。一人の時に先程みたいな目に遭ったら、今度こそおしまいだ。
「ちょっと待ってください、白ウサギさん!」
「僕はもう白ウサギじゃないよ」
「じゃあ、あの……あなたのお名前は?」
「なんで?」
「教えてくださいませんか」
「……ピーターだよ。別に、覚えておく必要は無いけど」
「……ピーターさん。もう少し説明してください。何も分からないんじゃ、引き受けようが……」
ハア、と深い溜息が夢子を突き放す。次の瞬間、夢子の身体に戦慄が走った。
いつの間にか消えていた銃が、またいつの間にか現れ、その非情な銃口を夢子に向けているのだ。
夢子は反射的に目を瞑る。
――発砲音。今度は、花火大会を思い出している余裕は無かった。
心臓がまるで耳の中に移動したみたいにうるさく響いている。口の中がカラカラだ。……生きている。銃弾は当たっていない。二発目は、こない。
夢子は恐る恐る目を開けた。ピーターはもう夢子を見ておらず、さっと背を向けると、足早に去っていった。
……今のは何だったのだろう。
引き受けなければ撃つ、という脅しだったのだろうか。
「なに、これ」
夢子は一気に力が抜けて、その場にずるずると崩れ落ちた。
女の子なら誰だって一度は憧れる不思議の国。その幻想に胸を躍らせやって来たのは、絵本に描くには物騒すぎる世界。踏み入れた途端に死の恐怖を味わい、命の終わりを間近で感じてしまった。
(これから、どうすればいい?)
今ここに紫がいたら、どれだけ心強かっただろう。話し合って、一人より最適な答えが見つけられる筈だ。もし彼女が怯えているなら、その手を引くだけの勇気を取り戻せる筈だ。
ああ、でも、
ワンダーランドに君はいない。
夢を嫌う現実主義な君だから、君だけは、絶対ここにはいない。
夢というには、思い描いていたものとあまりにかけ離れているけれど。




