Act8.「世界確立論」
「話を始める前に、一つ確認しておきたい。君は、この世界のことをどこまで理解している?」
常盤の一言目に、夢子はぎくりとする。彼のそれは、夢子が別の世界から来たことを前提としているようにしか聞こえなかった。だがそこまで分かっていて追い出そうとしないなら、隠す必要も無い。夢子は肩の力が少しだけ抜けた。
「それは、わたしがこの世界の人間ではないって、ご存知だってことですよね? あの……見た目で分かるものなんですか?」
「……いや、外見で判断した訳ではない。君と出会ったあの森は“そういうこと”が起きやすく、今夜は状態が乱れていたから、どこか別の場所と繋がったのだと思っただけだ」
「状態?」
「ああ。君はあの森で、妙な体験をしただろう?」
妙な体験。その言葉が指すものは、一つしかない。夢子は繰り返し同じ道を歩き続けたことを思い出した。
「あれは、異世界との接続による空間情報の乱れが引き起こした“バグ”だ。座標データが破損し、未定義の空白が出現した。その空白に君の認識が反映されたのだろう。君はあの時、明確な行き先をイメージしていたか?」
淀みなく言葉を連ねる真面目な顔。夢子はそれを、ぽかんと見つめた。何を言っているのかさっぱり分からない。だが問いには答えられる。
「いえ。この辺りのことは分からないので、とりあえず進んでいました。でも、それがどう関係するんですか?」
「……そうだな。そこから話すことにしよう。この世界を語るには避けて通れない、根幹となる部分だ」
はい、と真剣な顔で頷き、続きを待つ夢子。そんな彼女に、常盤は僅かに表情を緩めた。
「君は、この世界は何で出来ていると思う?」
あまりに予想外で唐突な質問に、夢子は一瞬言葉に詰まる。
「え……えっと、鉄、酸素、ケイ素?」
「賢い回答だな。それもある意味では正解だ。だが、今は君が意識している世界について話そう」
「意識している世界? 確かに、日常の中でケイ素を意識することはないですけど……目に見えないですし」
何気ない夢子の返答に、常盤の瞳が揺れる。それがあまりに、本質に近かったからだ。
「……そうだ。世界を形作るのは、意識の中で見ているもの。“観測”と“認識”。この二つで世界は確立している。例えば……」
常盤は、夢子に見せるようにゆっくりと、自分のカップにソーサーを被せた。
「今、このカップの中には何が入っている?」
「紅茶ですよね」
「本当にそうか?」
夢子には常盤の質問の意図が分からない。自分と黄櫨はココアを飲んでいたが、常盤のカップに入っていたのは、確かにルビー色の紅茶だった筈だ。
「君が見たというのは、ソーサーで蓋をされていない状態のカップの中身だ。今のこのカップの中身を見たわけじゃないだろう?」
(……ああ、そういうことか)
夢子は、彼の言わんとしていることに気付き始める。
「私が君に質問したのは“今のカップの中身が何か”だ。今に至るまでの過程が無ければ、このカップの中を知る術はない。つまり、」
「今このカップに入っているものは、コーヒーかもしれないし、水かもしれないってことですね」
夢子の確信めいた顔に、常盤は少しだけ驚いた様子で「正解だ」と言うと、ソーサーをあるべき場所へと戻す。カップの中身は空だった。
「未観測、認識以前の存在は、無限の可能性を秘めている。カップの中身は空だったが、先程まではココアにも、鼠にだって成り得たかもしれない」
観測者に認識されて、初めてその物は存在が確立される。
それを聞いて、夢子はとある有名な話を思い出した。
「もしかして量子力学のお話ですか? シュレーディンガーの猫とかの」
「君は博識だな」
(あ、シュレーディンガーって異世界でも通じるんだ。……っていうか、賢いとか博識とか、めっちゃ褒めてくれるなあ)
夢子はいい気になりそうな自分を悟られないよう、顔を引き締めた。
「世界を構成する粒子は、観測されるまでは複数の状態が重なり合って存在している。それは何ものでもあり、何ものでもない状態。無であり全だ。それを観測し認識することで、意識のエネルギーによって現象化している」
世界は意識の投影。
この世界では、それが理論ではなく現実だった。
先程の森の異常は、空白となった空間に夢子の認識が反映された結果だ。あの時の夢子は不安から、どこにも行けないような気がしていた。その意識が、同じ道を繰り返させた。森を正しく認識していた常盤が介入したことで、そこから抜け出せたのだ。
「現象は、観測者が強く認識するほど確かなものとなる。だからこの世界では、認識が最も重要だとされているんだ。この世界……不思議の国も、一人の観測者の認識から始まった」
「観測者……もしかして、それがアリスですか?」
そう思ったのは、アリスが物語の主人公だから。それだけの理由だ。
常盤が頷く。夢子は自分で言っておきながら腑に落ちない。
「アリスは、無から有を生んだということですか? 認識することで生まれたなら、認識する前は生まれる前で、観測できるものも無いですよね?」
「いや、認識以前にもこの世界は存在していた。だが成り立ってはいなかった。それをアリスが見つけ、認識し、確立させた」
分かりそうで、全く分からない。夢子はこめかみを指でほぐしながら「うーん」と唸る。アリスという観測者がいて、未確定の世界を見つけ、それを不思議の国だと認識した。……もう、そのまま分かった気になることにしよう。
「なんとなく、分かった気がします」
「それでいい。曖昧に理解した方がいいこともある。君が学者になりたいなら別だが」
そんな予定はないからいいや、と夢子は思った。
「あの……アリスって人間じゃなくて、神様みたいなものなんでしょうか?」
「さあな。誰も姿を見たことはない」
「でも、この世界を創った存在なんですよね? そんな大昔から生きている人間がいるとは……」
「この世界が生まれたのは大昔であって、そうでもない。“君の世界”とは時間の流れが違うから、少々ややこしく感じるかもしれないが」
夢子は、常盤の言葉に静止した。
「わたしの世界のこと、知ってるんですか?」
「……君の世界というより、こことは別の世界が無数に存在している、ということは広く知られている」
常盤が言うには、夢子の世界とこの世界以外にも、世界は星の数ほど存在しているとのことだ。異なる世界同士は通常は触れ合うところにないが、時折何らかの歪みで繋がってしまうのだという。歪みを介し迷い込んで来るのが、彼らの言うところの異世界人だ。
異世界人の発生でこことは違う世界があるらしいと判明したものの、自由に行き来することは出来ず、常に外から内への一方通行だという。そのため不思議の国では、異世界の存在自体が胡乱なものであるらしい。
そんなところから来た異世界人が警戒されるのは、仕方ないのかもしれない。
「自由に行き来できないなら、ピーターさんはどうやってわたしの世界に?」
「分からないな。君はどうやってここに来たんだ?」
「ピーターさんに会って、穴に落ちて、出た先が森でした」
「ピーターと会う前、元の世界で何かおかしな事はなかったか?」
「え?」
夢子は意味が分からず聞き返す。その反応を見て、常盤は「いや、なんでもない」と取り下げた。夢子は少し気になったものの、それよりもっと気になることを優先させる。
「あの……わたしの他に、異世界人ってどの位いるんですか?」
同胞、もしくは同胞ではないにしろ近い立場の者がいれば、助けになってくれるかもしれない。夢子はそれを期待した。だが常盤は首を横に振る。
「迷い人は稀なんだ」
「他の人は帰ってしまったということですか?」
「……ああ」
彼がそう答えるまでには重々しい間があった。夢子は嫌な予感がする。もし無事に帰っておらず、今はいないのであれば、それが何を指すのか。先程のトランプ兵達の対応から、想像に難くない。常盤はこの件について追及されたくないようで、不自然に目を逸らす。
「話を戻そう。……つまりこの世界は、アリスの認識で作られているということだ。そして今、アリスによって――この世界は消されようとしている」
そう語る常盤の表情は暗い。夢子は黄櫨の反応も気になって隣を見るが、少年は本の虫になっていて感情は読み取れなかった。話を聞いていないのかもしれない。
「消されるってどういうことですか?」
「この世界が跡形もなくなるということだ」
「……どうしてそんなことに?」
「それは本人に直接訊くしかないだろうな」
「そもそも世界を消すなんて、可能なんですか?」
「アリスには可能だ。認識することで生まれたものを消し去る方法は一つ。観測者が意味や価値を“否定”することで、それは無かったことになる」
常盤は、不思議の国の仕組みについて説明を始めた。その話はこれまでより一層難しかったが、夢子が自分なりに理解してまとめると、こうだ。
――この世界には物質が存在する表世界と、表世界を形成するための裏世界“バックグラウンド”がある。
バックグラウンドとは観測と認識を具現化し、管理している領域。
ありとあらゆるものを設計・構築しているプログラムであり、世界の細胞であり、0と1であり、色であり、香りであり、風であり、命である。
そこで何かを消去したり、書き換えることができるなら、それは表世界を自由自在にできるということに他ならない。だがバックグラウンドへのアクセスや編集を許されている者は限られている。その最上位者が、創造主アリス。彼女の変更を書き換えることは誰にもできない。
そして今、アリスがバックグラウンドで世界の消去を進めていて、それが表世界では“虚無化”という――空間やそこにいる人々が、存在ごと消えてしまう現象になっているとのことだった。消えてしまったものは、記録からも記憶からも抹消される。
夢子は聞けば聞くほど、自分の範疇を超えている話だと感じた。
「アリスを捕まえるなんて、できるのでしょうか?」
「何とも言えないな。アリスの居場所は誰にも分からない。だが、アリスがバックグラウンドで何か行動を起こす際には、表世界にも異変が現れる。局地的な異常気象であったり、いわゆるポルターガイスト現象であったり、その形は様々だが……異変の起きている場所ではバックグラウンドへの出入口が目撃されたこともある。異変がアリスに繋がるヒントになるかもしれない」
「異変……。アリスを捕まえられたとして、その後はどうするんですか?」
説得できれば一番だが、話が通じない場合は二度とバックグラウンドにアクセスできないよう、永遠にどこかに幽閉でもしておくのだろうか。だとすればそれに加担するのは気が引ける。しかし、現実はもっと残酷だった。
「アリスはその一存で世界を脅かす可能性がある。だからこの国の王は、アリスの支配からの脱却を考えている。世界は人々の認識だけで維持するべきで、アリスは不要だと」
「えっと……?」
「……アリスは捕らえられ次第、極刑だ」
インパクトのある言葉に、夢子は気が遠くなる。
(極刑って……死刑ってこと?)
幼い頃に自分を重ね合わせた、夢見る楽しさの象徴ともいえるアリス。その名前を冠する者を、大人になりかけている今、殺さなければならないなんて。




