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小野塚、名前で呼ばせる

「どうしてそんなもんが気軽に出てくるんですか」

 出てくること自体は不思議ではない。瑞稀に着せようとしていたから。でも、もう一度考えてみてほしい。牟田先生は男の一人暮らしだぞ。なのに、そんなものを持っているなんて不自然じゃないか。


「漫画の資料だ」

「別に普通なのだ」

「どう考えても普通ではありませんよね」

 あれれ、おかしいぞ。真顔で唱和され、俺は困惑する。漫画家はみんな資料のためにメイド服を個人的に所有しているものなのか。絶対に、この二人が特殊だと思う。そう、だよな。


「おお、可愛い。着てみたい」

「小野塚さん。こんなのを着て帰ったら、駅で職務質問されます」

 瑞稀の言う通りだ。秋葉原とか池袋の町中ならともかく、駅の改札を通過しようした瞬間にストップがかかるだろう。あと森野、お前は鼻の下を伸ばさんでもいい。


「ダメなら他にもあるぞ。セーラー服とかナース服とか」

「だから、なんでそんなもんを持ってるんですか」

 漫画家牟田馬論。彼の闇は想像以上に深そうだ。あまり触れたくない。


 結局、出歩いても一番違和感がないということで、八子先生と小野塚さんはセーラー服を借りることになった。高校を卒業したのは十年近く前のはずなのに、八子先生のセーラー服姿が妙にしっくりくるのはなぜだろうか。同学年にいたら、エロすぎて勉強に集中できない。ちなみに、俺は牟田先生のお古で、よれたTシャツとズボンを借りることとなった。少しどころじゃなくかび臭いが、ちゃんと洗濯はしているんだよな。


 危惧していた改札での検問も突破し、俺たちは電車に揺られる。幸い、帰宅ラッシュはまだで、所々席は空いていた。ただ、椅子に座っていると心地よい揺れにより、自然と夢の世界へ誘われる。森野なんか、乗車した瞬間に爆睡しているし。

 瑞稀が振り子のように首をコクコクさせているのを観察していると、いきなり袖を引っ張られた。何事かと首を左に傾けると、口を真一文字に結んだ小野塚さんだった。しきりに辺りを警戒している。悪しき妖怪とかいないよな。こいつは地獄行の幽霊電車ではないはずだぞ。


「もし、浬が良かったら、だけど」

 区切るようにして呟く。どことなく塩らしく、俺の袖を握る手にも力が込められている。時折漏れる息遣いから、そこはかとない緊張感が伝播してきた。

「私のこと、名前で呼んでも、いい」

「でも、小野塚さんって名前で呼ばれるのは好きくないんじゃ」

 きちんと名字で呼んだのに睨まれる。理不尽だ。


 丹念に辺りを見回したのち、指を唇に当てた。はにかみながらも告げてきた。

「浬にだけ、特別」

「そ、そうか」

「だから、呼んでみて」

 能動的に呼べと言われると逆に呼びにくい。おまけになぜだか胸が圧迫されているし。食物で物理的にお腹いっぱいというよりは、精神的に膨れ上がっているかのようだ。


 口の中の水分がすごい勢いで失われているが、舌なめずりをしてどうにか潤す。そして、俺は大きく息を吸い込んだ。

「輝夜、さん」

 発せられたのは蚊の鳴く声。すると、小野塚さんは頬を膨らませた。

「さんは余計。瑞稀は呼び捨てなのにずるい」

 なんか妙なところで拗ねていないか。俺は後頭部を掻いて、今一度息を吸った。


「輝夜」

「うん、それでいい」

 サンタさんにプレゼントをもらった子供かってぐらい充実しているな。名前呼びするくらい大した労力じゃないのに。大した労力、じゃないはずだよな。なんか、別方向からとてつもない圧迫感を受けているのはどうしてだろうか。お前、振り子時計の真似事をしていたんじゃないのかよ。


 八子先生とも別れ、俺たちはようやく宇迦駅へと到着する。あの先生、別れ際に「小学生が考えそうなすごろくパート2を作るのだ」と不穏なことを口走っていたな。そんなものを作る余裕があるなら仕事をしてもらいたい。


 そんな期待も込めて、犬太郎の最新刊にお布施をしようかな。他の常翔社作品も改めてチェックしたいし。瑞稀辺りなら、書店に誘えば了承するだろう。あまり遅くなるとよーこさんがうるさいが、少しぐらいなら平気なはずだ。


 俺は瑞稀に呼びかけようと手を上げる。だが、その直後に異変が襲った。

 視界が暗転する。あれ、おかしいぞ。体が、重い。立っていられるのもやっとなぐらいだ。体のバランスが崩れる。片膝をついたのが運の尽き。視界が暗転する。めまぐるしく景色が移り変わり、激しい吐き気に襲われた。

「浬、どうした」

「浬さん、大丈夫ですか」

 女性陣二人がいち早く駆けつける。俺が覚えていられたのはここまでだ。とてつもない倦怠感に身を任せ、そっと目を閉じるのであった。

主人公がとんでもないことになっていますが、これにて第3章終了です。

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