小野塚と美琴、一触即発
「この辺りは水深が浅い。どうにか岸まで引き上げてくれないか」
「分かった。でも、道具がいるな。近くにホームセンターを見かけたから、少し待っていろ」
言い終わる前に美琴は走り去っていった。丸腰で川に入ったら美琴まで被害に遭ってしまう。咄嗟に道具を使おうとしたのはいい判断だ。もう少し我慢していないといけないが、救援が来ると分かっているのだ。自然と両腕に力が入る。
しばらくして、美琴がロープを片手に戻って来た。日常生活だと綱引きにしか使え無さそうな立派な物だ。カウボーイよろしく先端を振り回し、岩の近くへと放り投げる。
俺がロープを掴んだのを確認し、それこそ綱引きをやるように美琴は俺たちを引き上げる。地引網漁にかかった魚の気分だ。なんて、冗談をかますぐらいの余裕は出てきた。川岸までの道筋を示されたのだから、そいつを伝えばいい。小野塚さんは俺に引っ付いたままだが、八子先生は独自にロープにしがみついていた。
ややあって、俺たちは川岸へと脱出に成功するのだった。びしょびしょに濡れた制服が気持ち悪いが、構わず土手に仰向けになる。方々に息を切らしていると、美琴が心配そうに前かがみになった。
「一体どうしたっていうのよ。職場見学に出かけて川で溺れるなんて。それに、出版社はここから電車で数十分離れたところでしょ」
「経緯を説明するとちょっと面倒くさいんだけどな。それよか、美琴こそどうしてこんなところにいるんだ」
「見学に来ていた工場がこの近くだからよ。とっくの昔に見学を終えて帰ろうとしたら、とんでもない邪気を感じてな。そいつを辿ってみたらここにたどり着いたわけさ」
質問に質問で返すと、美琴は真面目な顔つきで答えた。邪気って、化け物の類はいないはずだぞ。
「ううむ。ひどい目にあったのだ。いきなり突き飛ばすなんてひどいのだ」
八子先生がずぶぬれのセーターを広げながら嘆く。「突き飛ばす」発言に美琴が顔をしかめた。なんか、あらぬ誤解をされそうだぞ。きちんと説明したところで納得してくれるかどうか。
懸念していると、小野塚さんが無言のまま八子先生の前に立ち尽くした。彼女もまたずぶぬれになって、髪の毛から雫が垂れている。犬でなくとも全身を震わせたくなる濡れ雑巾ぶりだが、微動だにしていなかった。
文句を言いつつも気楽な調子だった八子先生が、嘘のように押し黙る。直立する小野塚さんは、この世ならざる雰囲気を醸し出していた。
一切の言葉を発せず、いきなり八子先生の前に両手を差し出す。理解できない行動の連続に、八子先生は反応できていない。そして、大きく手を叩くと、先生は糸が切れたように仰向けに倒れるのであった。
美琴があらかじめ「邪気」なんて不穏な発言をしたせいだろう。小野塚さんがUターンしてくると、自然に後退してしまう。いつもと変わらぬ眠たい表情のはずだが、仮面を被っているのではないかと訝みたくなる。
「貴様、その女性に何をした」
美琴がかみつくと、小野塚さんはあっけらかんと答える。
「八子先生にはしばらく眠ってもらった。秘技、猫だまし」
先ほどと同じように両手を叩く。相撲の技にあるやつか。先制で相手をひるませるやつ。ひるんでいるどころか、完全に気絶している。大事には至っていないよな。
「心配しなくていい。気を失っているだけ。起きても、川で溺れて気絶したと説明すれば辻褄は合う」
俺の心配をよそに、小野塚さんは淡々と答える。そして、美琴へと歩み寄っていくにつれ、彼女の体に変化が現れた。頭の上にカチューシャを装着していないのにネコミミが顕出し、臀部からはうねるように尻尾が生える。いつぞや目撃したリアル猫娘。そいつが再び俺の眼前に降臨しようとしているのだ。
「面と向かって話をするのに八子先生は邪魔。あなたも、本気でやりあうなら、目撃者が少ないほうがいい。でしょ、陰陽師」
「妖怪のくせに気が利くじゃないか。だからといって、手加減はしないけどね」
美琴もカバンを投げ捨て、手には護符を握っている。なんだこの、絵に描いたような一触即発の雰囲気は。俺はそそくさと八子先生のもとに避難する。
獣としか思えない構えで威嚇する小野塚さん。対して、美琴も一切に動じずにらみ合いに応じている。ここでようやく、俺は悟った。この二人は決して出会わせてはいけない。一難去ってまた一難どころか、十難ぐらいあるんじゃないか。
「浬が最近、妙な臭いを漂わせていると思ったら、あなたの仕業だったのね」
美琴がびしりと指摘する。浮気を見抜いた妻みたいになっているが、小野塚さんも動じない。
「遅かれ早かれ陰陽師には感づかれると思っていた。妖怪を討伐する人間がいると師匠から教えてもらったし」
妖怪の指南役ということは、葛葉みたいな奴だろうか。決して脅しではないとの証拠に、小野塚さんは両手の爪をむき出しにしている。人間が伸ばしていい長さではない。
やばいぞ。クラスメイト同士で本気の争いをするなんて。お互いに事情を分かっていないから、このままだとどちらか一方、下手したら両者が大けがをする羽目になる。幸いにして八子先生は気絶したまま。むしろ、彼女が覚醒する前に事を片づけなくてはならない。




