浬、水没する
俺は次第に胸をざわつかせた。不穏な想像は歯止めが利かなかった。信じたくはないが、ある図式が出来上がるではないか。
憧れていた漫画家先生からひどい言葉を言われた。傷心のまま走り回り、帰ろうにも財布が無いから帰れない。ふとした拍子に川へたどり着く。ああ、もう、どうでもいいや。
「これ、相当まずいだろ」
むやみな刺激を避けようとする小野塚さんの判断が正しかったかもしれない。けれども、俺は居てもたってもいられなかった。ここで八子先生が永遠に帰ってこないということになったら、もはや話を聞くどころの騒ぎではない。どことなく、八子先生が急流へと体を傾けているように映ったのが拍車をかけた。
小野塚さんが静止を求めるのも聞かず、俺は無我夢中で走った。既に町中を捜しまわったせいで、膝は限界のはず。なのに、自分でも驚くほどの初速を発揮した。
勢いに乗った俺は誰にも止められない。遅れて小野塚さんも追ってきたようだが、既に俺は八子先生のもとへと到達しようとしていた。
「あれ? 刑部君だっけ。どうしたのだ、こんなところで」
とぼけた声を出す八子先生。おそらく、次の瞬間に瞠目していただろう。俺はあろうことか、先生へと体当たりをぶちかましていたのだから。
「先生! 早まらないでください!」
叫びとともに、俺の全身が川へと傾いていく。ふんばろうとしたが、軸足は全く機能していなかった。八子先生もまた、いきなり体当たりを喰らわされたため、抵抗する余地はない。
二人して水流へとダイブする。いや、二人ではなかった。追いついた小野塚さんが俺たちを引きとどめようと手を伸ばす。だが、女子高生一人の力で二人の人間を支えるなど土台無理であった。加えて、彼女も勢いあまって引き上げるのではなく、押し出してしまう。
派手な水しぶきを上げて俺たちは墜落した。遠浅の川だったらまだよかったが、川岸近くでも肩まで水につかってしまうほどの水深がある。意図的に飛び込んだのならば「泳ぐ」という選択肢が取れただろうが、不本意にくんずほぐれつダイブしてしまったのだ。必死にもがくが、俺たちの体は自然の流れへと身を任せる羽目になる。
断るまでもなく、無理心中を図るつもりはさらさら無い。しかし、このままでは男女三人の水死体が川から上がったというニュースが地方面を飾るのは明白だ。幸い、水流は穏やかなので、プールの中で泳いでいるのと大差ない。
とはいえ、服を着たまま水に浸かっているというのが災いしていた。着衣水泳なんてものが特別に授業されるように、普段着のまま泳ぐのは予想以上に労力を要する。なんとかもがいているが、足がつりそうだ。
更に、想定外の存在が錘となっていた。
「助けて。おぼ、れる」
派手にしぶきをあげて暴れる女子高生。俺の体を掴んでは離れている。そいつを繰り返すものだから、俺まで一緒に沈みそうになる。まともに会話できそうにない状況だが、どうしても確かめねばならなかった。
「小野塚さん。もしか、しなくても、泳げない、のか」
「ネコに、水泳ができると、思って、いるのか」
溺れそうになりながらどや顔を決めないでほしい。八子先生が泳法を会得しているのが幸いだったが、不穏因子の存在があまりにも強烈すぎた。
どうにか体を押しとどめなくては。水面から首を伸ばし、手がかりになりそうなものを探る。すると、おあつらえ向きに水面から突き出ている巨石があった。この辺りは水深が浅く、うまくいけばそのまま脱出できそうだ。
藁にも縋る思いで、俺は巨石を抱きかかえる。小野塚さんが俺の下半身に抱きつき、同様にして八子先生も小野塚さんを抱きしめる。
巨石を起点として生命線が出来上がる。しかし、俺が手を離せばおじゃんになってしまう、か細い代物だった。力が続く限り、流されて行方不明という最悪の事態は避けられそうである。けれども、所詮は時間稼ぎの一手。ここから川岸へと脱出を図らねばならない。
川岸まで数メートル。なんとか立ち泳ぎできそうなので、このまま岸に向かう。いや、それはできない。なにせ、カナヅチの小野塚さんがしっかりと俺の下半身を封じているのだ。
「カイカイ、離れ、ないで」
必死に懇願してくるものだから、「いったん離れろ」なんて命令できるわけがない。自由に泳げればどうにかできそうなんだけどな。
こうなると、助かる方法は一つ。第三者が通りかかるのを待って、岸まで引き上げてもらうしかない。三人もの人間が川で溺れかけているのだ。余程心無い人でない限りは助けに来てくれるはずだ。
しかし、待てど暮らせど通行人はやってこない。平日の夕暮れ時だから、ペットを散歩させているおじさんとかが来てもいいんじゃないか。都内から離れた郊外だからって過疎化が進み過ぎだろ。なんて、人口推移に文句を言っても益体はないか。
だんだんと腕力に限界が近づいてくる。流されて深みにはまりでもしたら全滅だ。誰か、誰か来てくれ。俺は必死に祈った。
偶然というものをこの時ほど神聖視したことはない。逆に、どうしてここにいるんだと訝しんだぐらいだ。
「浬。お前、職場見学を放り出して水浴びしているんじゃない」
「溺れてるんだよ。いいから助けてくれ」
的外れなことを言い放ったのは美琴だった。見慣れたセーラー服が月に代わっておしおきする戦士並みに頼もしく思えた。




