50.月が建物の向こうへ落ち始めていた
月が建物の向こうへ落ち始めていた。建物は、黒い大きな影に見えた。その陰に、数騎の騎馬が入って行く。王弟殿下の報告を聞いて、王の側近が駆け付けたのかもしれない。遠く黒い影が、裏にある大門に吸い込まれていく。と中から、一騎、馬首を廻して出てくる者がいた。その影がみるみる近づいてくる。閉まりかけた門が慌てて開かれ、騒ぎになっているようだ。と思うと、近づいてきた馬から人が飛び降りて、目の前に立った。アッフェル・フォルトが、一瞬呆然とした。そして、慌てて片膝を大地に着いた。シェルフォードも顔をこわばらせて同じように片膝をつくと、バッセルも歌姫も、男の顔をちらちら見ながら、まねて片膝をついた。と、まるで、それを待っていたかのように、アッフェル・フォルトが言った。
「王陛下」
その言葉で、バッセルが蒼白になった。国王陛下だ、と思った途端に、バッセルは大地に額がつかんばかりに頭を垂れた。アッフェル・フォルトはと言うと、軽い会釈で止め、その脇で、シェルフォードが深々と頭を下げる。しかし、歌姫はと言うと、驚いて顔を上げてしまった。この人が?! と言う声が聞こえそうな顔で、のけ反るように王を見る。と、そこで、王の濃い紫の目とあって息を飲んで固まる。背の高い肩幅の広い王は、はっきりした骨格の精悍な顔つきの男だった。細さが目立つ弟とは違って、男の色気がそこにあった。歌姫はうっとりした目で王を見たまま動かない。と、王は片手でイライラと縮れた黒髪を混ぜるように掻きあげると、
「顔を上げて立て。人が見る」
と慣れた様子で命じた。
アッフェル・フォルトが膝の土を払ってゆっくり立つ。シェルフォードは優雅と言えそうな腕の動きで、足を払って立ち上がる。が、バッセルは膝が震えて立てない。恐れ多くて動けない。歌姫はと言うと、王の顔に見惚れて立てない、と言うより声が全く聞こえていない。王はイラっと、
「バッセル! 余は腰ぬけを監察者見習いに命じたのか!」
と叱責するように言った。バッセルはそれを聞いて反射的に立ち上がる。震えが、全く別の意味で背筋を下から上へ駆け抜けた。名を覚えられていると言う驚きで、王に任命された監察者見習いとしての誇りと、そして、王を失望させたと言う恐怖で、棒を飲んだように固まった。ついで、一目見ただけで、こちらが誰かと分かるのか、とおののいた。歌姫はと言うと、その叱責でやっと周囲に気がついて、慌てて自分も立ち上がる。
王はそれを見て、すぐにアッフェル・フォルトへ視線を向けた。何事も無かったかのように話しだした。
「余が、侵食の危機の笛を止めさせた。王城から見下ろすと、恐ろしい勢いで人々がここへ集まって行くのが見える。ボンクラの我が弟の屋敷の前に、だ! 伝送者の映像など見なくてもはっきりと、明かりがうごめき、民が集うのが見える」
アッフェル・フォルトは黙ったまま聞いた。文句を諾々と聞いている、と言う顔ではなかった。王は手にした鞭で自分のブーツを縁をたたく。と、何を考えていたのか、一瞬視線が、公園の向こう、大通りを、そぞろ歩きのように行く紳士淑女の群れに向かった。王城近くの屋敷からも人々が出て、集まりだしたようだった。
「原因は?」
と言う、王の短い問いに、アッフェル・フォルトは、
「物語でイメージを操る者が居ります」
「バセロン・オーンだな」
断定だった。アッフェル・フォルトの視線に、
「おまえが都中に出した指示だ。王宮の伝送者達から逐次聞いている。と言うより、見せられている。物語でイメージを作り、王都を席巻している男だったな」
王城から連れ従っている近衛の中に伝送者がいて、逐次報告を受け続けていた、と言うことだった。王の向こう、慌てて駆けつける騎馬の中に、アルヘルストの姿を見付けた。アッフェル・フォルトは、考え込みながら言った。
「憶測になりますが、彼は歌を復活させたいのかもしれません」
「なぜ、そう思う」
「人々の歌への恐怖を、物語の力で掻き消しています。いいえ、消そうとしています。歌を聞かなければ呪われる、と本気で信じさせる事に成功しています。これは、歌を復活させたいからだ、と思います」
そして、自分の妻を堂々と帰還させたかったのではないだろうか、とアッフェル・フォルトは考えた。失敗したが、したかったのは、こんな単純な事だったのでは、と思ったのだ。しかし、王は、厳しい声で言い返した。
「復活させてどうする? 千年前に戻したいのか? 操りたいのか?! ここまで安心できる世界になった。それを、また、術者におびえる世界に戻したいのか!」
と言った後、さらに、
「絶対に、そんな事はさせない。余がさせぬわ! この混乱を見よ! 何をたくらんでいようと、奴ができることは何もない。あるのは、永遠の監獄暮らしだ!」
と力のある声で言うと、かたっと音がした。全員が反射的に音の方を振り向くと、歌姫がバッセルの袖を握り締めながら、ゆっくりと倒れるところだった。音は慌てて踏み出したバッセルの短ブーツの音だった。シェルフォードが素早く、片手を出して、重みに潰れそうなバッセルごと歌姫を支える。
「この者は?」
「歌姫です」
「はっ。やはり、弟の屋敷にいたのだろう。ルフェンに行ってから、異国かぶれになったからな。自慢の我が国を、ルフェンの者に見せてやりたいと言いに来たが、ルフェンの者が歌姫だとも、もともとここの出身者だとも言わなかった。もともとおかしかったが、向こうで、ルフェンの手の者に洗脳されたわ!」
と怒りをにじませながら言う。そして、
「イメージに歌を歌わせたと言うが、この女が歌ったのではあるまいか?」
「いいえ。イメージです。バセロン・オーンも妻に罪を着せられないようでした」
「はん! 本当か? そう都合よく、歌のイメージを持っている者などいまい」
と言うと、アッフェル・フォルトが平静な声で、
「昔のイメージでしたら私が」
と答えた。
歌声を優しいと記憶している者は、きっと自分一人だろう、とアッフェル・フォルトは思った。母なら歌う、と思っていたのも自分だけだ。バセロン・オーンにとっては、願ったりかなったりだったか、それとも、やり過ぎたと思わせる程だったのか。追い払うことに成功した、と思うべきかもしれない。と思っていると、
「バセロン・オーンが利用したのか」
と暗い声で王が言った。と思うと、王とは思えないような言葉で、しかし、品よく左を向いて大地へ向かって罵詈雑言を吐きすてた。アッフェル・フォルトが利用されたと聞いて怒り狂ったらしい。が、すぐに冷静な顔になり、
「バセロン・オーンは、この女を国で歌わせたいから、歌を容認させたいのか。あそこに集めたのはその為の脅しか? 歌を容認させないと、圧殺されるほどの民があそこへ集まって来るぞと言う脅しか?」
「脅しかどうかは分かりませんが、良い機会だと思うかもしれません。彼らを退去させたいならば、歌を許可して頂きたいと」
でなければ、なぜ、広場に集めようとしているのだろう、とアッフェル・フォルトは考える。わざわざ、三つもの物語を重ね合わせて、あの広場に人を集めさせている。歌の為でなくてなんの為か。物語の力を見せつける為なら、と思ったところで、陛下への謁見の許可を望んでいた、と言う話を思い出す。王陛下が問い続ける。
「理由はなんだ? この女は、十分、ルフェンで歌姫として活躍していると聞く。ルフェンの大使は大人気だと顔が赤くなるほど訴えていたぞ。向こうで歌えるなら、わざわざ、罪人になってまで歌う必要もあるまい」
アッフェル・フォルトは歌姫を見た。そして、
「バセロン・オーンは、この者の心の病を恐れています。歌姫が故国を思う悲しみで病になってしまうのではと恐れているようです」
「だから、国に戻してやりたいと言うことか。そして、歌い手のままでいさせてやりたい、と。けなげだな!」
最後は侮蔑を込めた一言だった。人の死さえかまわない、と言うこの陽動に、王は完全に頭に来ているようだった。
「もしくは、自分の物語の力を見せて、陛下へのとりなしを望んでいるのかもしれません」
「嘆願か? 脅しで嘆願ができるとでも? そう思うような愚かな男か」
「謁見を望んでいたのは確かです。物語の、人を集めるこの力は恐怖です。陛下が手にすべき力だと思ったのかもしれません」
「愚かな」
と言っただけで切り捨てた。力は監察者の館の所属であり、王の自由になるものではない。と言うのが、この国のルールだった。王はルールを曲げるつもりは微塵もない。と言う事だった。
「アッフェル・フォルト、この騒動を静めよ。王の名の下に、全ての力の枷を外す許可を与える」
と言い放った。
奇妙な静寂が落ちた。王はアッフェル・フォルトを見ていた。王の眼には、先ほどの憤りや苛立ちが無く、嘘のような静けさがあった。シェルフォードが、歌姫を抱えながら、礼儀正しく視線を落として、二人の話を聞きいっていたのだが、顔をこわばらせながら面を上げた。と、王を見た。
「シェルフォード。私の許可の下だ。おまえの役目は一時免除だ」
と王は言った。シェルフォードは動揺したように視線をさまよわせた。王弟の屋敷を見ているアッフェル・フォルトを見て、王へ視線を戻した。王は口の両端を歪め、笑いのような顔を造って言った。
「侵食の危機はない。笛は鳴って居ないのだからな。静まり返った後には、我が愚弟の余興の一つにでもなっているだろう。明日からの祭りの話題の一つになる」
と言うと、アッフェル・フォルトへ挑む様な眼を向けた。
バッセルは、歌姫を抱えながら考えていた。意味が分からなかった。王が、侵食の危機の笛を鳴らさせなかった。これは、間違いなく侵食の危機なのに、と思ったところで、バッセルは視線を上げた。王と苦しげな顔をしているシェルフォードを見た。
アッフェル・フォルトは、昔、母親を救うために全ての人間を街から消した。どこか遠くへ飛ばしたと言う。それは、監察者の力ではなく、もっと別の、異質な力だった。人間の力ではなく、妖精王の娘の力? と思い、バカなとバッセルは慌てて考える。シェルフォードはその異質な力を使わせないために、アッフェル・フォルトの傍にいる監視人で、王が監視せよと命じている。そして、今、この時、アッフェル・フォルトが力を使ったとすると、全てが誰にも分からないように収まったとすると、それは、
「街中の人を消してしまうのですか!」
とバッセルは声を上げた。そして、
「そんな酷い事を、辛い事を、アッフェル・フォルト様へさせようとしているんですか!」
と叫んでいた。目の前にいるのが王だと言うのに、必死になって訴えていた。
「あれほど、苦しい顔をなさっていたアッフェル・フォルト様へ、また、同じ事をさせようとしているんですか! アッフェル・フォルト様は、アッフェル・フォルト様は、全ての人が帰って来れるようにと、都を守っているんですよ、なのに、逆の事をさせるんですか!」
「バッセル」
驚いたようにアッフェル・フォルトが止めた。
「アッフェル・フォルト様の枷は、監察者になる為に付けた枷なのですよね? なら、外せるのは老師だけではありませんか? 長老のみなさまにしか外せない、それが、監察者の枷ですよね? だから、誰が何を言っても、その枷は、アッフェル・フォルト様が従うべき枷で。第一、監察者の枷を命令一つで外せるはずがない!」
アッフェル・フォルトは二歩で近づいた。まだ、半分ほど歌姫を抱きかかえたままのバッセルは逃げられずに、どちらかと言うと立ち向かうような表情で、アッフェル・フォルトを睨む。と、アッフェル・フォルトはその顔へ手を伸ばした。バッセルはたたかれる、と思って一瞬目をつぶった。そんな自分が悔しくてすぐに目を開けた、が、くぐもった声が出た。鼻をつままれ顎を上へ向けさせられていた。表情の分からないアッフェル・フォルトと目があった。
「そう簡単に、人間を消せるか。ばか」
そう言ってから、陽気に、
「せっかく、のびのび仕事ができるっていうのに、邪魔をするな」
と告げた。バッセルの、王への不敬罪的な言葉は止んでいた。陽気なアッフェル・フォルトの声は、
「おまえはまだ知らないんだよ。私が、あんな子供のままでいると思うか? あんな未熟な力のまま、成長したと思うなよ」
と、にっと笑った。バッセルは、アッフェル・フォルトの心が分からなかった。でも、何かが違うような気がした。間違っているような気がしたのだ。それで、大声で言った。
「子供の時に、あんなに痛そうな顔をしてたじゃないですか。大人だって痛いんです! 足を折ったら、叔父も姪も同じように痛がりました。痛さに年は関係ない!」
アッフェル・フォルトの顔がこわばる。
「同じ状況で同じことをしなきゃならないなら、それだけで辛いんじゃないんですか? 歌を求める人も、歌を嫌う人も、同じように、歌い手に集まっている。アッフェル・フォルト様はその人々を蹴散らすんですよ?! どうやってか、僕には分かりません。でも、アッフェル・フォルト様は、彼らを、歌を無きもののように、歌を悪い物のようにして、彼らを追っ払ってしまうんですよ! お母様の歌った歌を、今はいない人の歌を!」
王は厳しい顔をしたままだった。シェルフォードは視線を下げた。バッセルは、泣きそうな顔で、
「辛くないはずないじゃないですか。心が痛くないはずないじゃないですか」
と必死になって訴えた。
アッフェル・フォルトはバッセルから手を離し身体を起こした。視線を逸らせ、建物群へ目をやった。月はすっかり沈み込み、いつしか、空を雲が覆い始めていた。
「星が隠れて行く。暗くなってからではやっかいだ」
と呟いた。そして、離れて行こうとすると、その上着の裾をしっかりと掴む手があった。
「バッセル。みんなが傷つくのは、もっと辛い。そうだろう?」
とアッフェル・フォルトは、そう言いながら、手を外そうとした。そして、驚いて動きを止めた。細く白い手だった。バッセルとシェルフォードに抱きかかえられるようにして失神していたはずの歌姫の手だった。目を開けて、縋るようにアッフェル・フォルトを見上げ、必死になって、アッフェル・フォルトの上着を掴んでいた。
「私に」
と歌姫はかすれるような声を出した。気がついたばかりのせいで、喉が枯れていた。歌姫は口を濡らすように唾を飲むと、再び声を出した。
「私に、歌わせて下さい」
と。




