25.バセロン・オーンの見ている場面
どこか広い劇場のようなところだった。古い木の香りがする劇場に、彫刻豊かな縁取りの舞台が見えた。扇状に広がるベンチは人で埋まり、そのベンチでは人々が総立ちになり興奮めいた声を上げていた。
両手を叩き足踏みをして喜びを全身で伝えようとしている。観客は舞台に立つ髪の長い頬の上気した女性に向かって全身全霊で素晴らしさを伝えようとしていた。女性は彼らに向かって手を振り笑顔を見せながら涙を流していた。称える声が怒号のように飛び交い続ける。
「バセロン・オーンの妻が、歌姫なんだ」
アッフェル・フォルトはその記憶の映像を見つめながら呟いた。バセロン・オーンの見ている場面だった。彼は、この瞬間、一番後ろにあるベンチの脇に立って、女性を遠目に見ながら腕で顔を拭っていた。涙が拭っても拭っても止まらない。喜びと、国を出てきて良かったと言う思いが湧きあがって止まらない。
「なのに病か」
アッフェル・フォルトの言葉を聞いているかのように映像が変わる。小さな窓から陽が差し込む、広いのに床石ばかりが目立つ部屋の中央に、大きな木のベットがあった。その脇に座って、青ざめた妻の顔を見下ろす。バセロン・オーンの視線だった。
筋張った妻の手を握り、頬骨が浮いた顔にそっと手を伸ばし頬の髪をどけてやる。しかし、女性は落ちくぼんだ目で、それでも力強い瞳でバセロン・オーンを見上げていた。美しかった。
「あなただけでも戻って。あたしはもう十分だから。こんな素晴らしい事になるとは思わなかったの。オーン。あなたのお陰だわ」
そう言って、手をバセロン・オーンの手に重ねその指先にキスをした。バセロン・オーンの目から熱い物がこぼれおちる。
「ああ、思い出すわ。大聖堂で合唱隊と歌ったでしょ? 子供の声があんなに高く遠くまで伸びるだなんて思ってもみなかったわ。それに、あの大きな庭。街の庭とか言っているあの庭を、あんな大きな石の上から見下ろしながら歌うだなんて。あのアリアも楽しかったわ。月が出始めて幻想的で、まるで大地と一緒に歌っているような気持ちになって。人があんなに一緒になって音に震えだすなんて。全然知らなかったのよ」
うっとりとしゃべり続ける妻の手を取り、バセロン・オーンは屈みながらキスをした。妻の口の脇にも、話続ける妻の唇にも。妻はそれでも微笑むように話し続けた。バセロン・オーンは言った。
「心の病だと」
「いやよねぇ。こんなに良い所なのに。なんで、そんな病になっちゃうのかしら」
「故郷を見なければ治らないと」
「治るわよ。ここには歌があるんだから」
「ここの医者の水準は高いんだ」
「多くの人がこの国にやって来るほどね。良いお医者に診てもらえて付いてるわ」
微笑む声は止まらない。バセロン・オーンは妻の手を強く握りしめた。
「ダメよ」
と妻が言う。バセロン・オーンは首を左右に振ってさらに手を強く握りしめた。
「ダメよ」
とさらに妻が言うのだが、バセロン・オーンは首を左右に振り続けた。
アッフェル・フォルトが低い声で、
「妻の為。故郷を描きとって映像で見せるつもりだったのだろうか」
と呟いた。
バセロン・オーンの思いは、深い後悔と妻への贖罪と、妻を無くすかもしれないと言う恐怖で溢れかえって行く。そして、帰国の手続きの為に手紙を書きはじめる。何通も何通も書く。が、どの手紙にも返事がこない。途中から、全ての知人に、手当たりしだいに書き始め、妻を国へ戻してほしい、私の文を読んでほしいと訴えて、それさえも宛先不明で戻りだす。
バセロン・オーンは酒におぼれ、妻を顧みることさえできなくなり、バーで酔いつぶれる日々が過ぎた。バーを訪れる友人にすがり、妻を助けてほしいと訴え、ろれつが回らなくなり、家へも帰らなくなり、アッフェル・フォルトの映像が飛ぶように流れて行く。
いつしか、薄暗いバーの中、酔いつぶれたバセロン・オーンの姿があった。薄眼を開けると、手には四角い封筒が握られていた。朦朧とした頭だったが、中には入国許可証が入っている、と言うのが分かった。手紙の効果があったのだ。そこには、痛いほどの決意を持ったバセロン・オーンがいた。「やるぞ、やるぞ、やるぞ」と言う声にならない声が渦巻く中、
「酔っ払いの決意を読む方法が分かれば」
とアッフェル・フォルトが呟く内に、映像が切り替わった。
夕暮れ時、バセロン・オーンの出立の時だった。閉じられた部屋の扉をじっと見つめ、
「あきらめない」
とバセロン・オーンは呟いて背を向ける。不思議なほど、思考がない。走馬灯のように妻の顔が過り続ける。笑った顔、いたずらっぽく微笑んだ顔、怒った顔に、泣いた顔、そして、ぷっとふくれた顔で、想いでが止まる。バセロン・オーンは、静かに玄関の扉を開けた。霧雨だった。傘をささずにフェルト帽のつばを深くかぶって歩き出す。通りには音の無い、馬の無い四輪の車が走り、煉瓦の窓から陽光のような眩しい光が漏れていた。淵のある歩道を歩く。
車がはじく水たまりをよけながら暗い裏通りへ抜け、入口に庇のある、青いランプが灯る「ベッフェ」と言う小さな食堂の扉を開けた。すぐ入口に受付カウンターがあって、無愛想な男が立っていた。奥には重みのあるビロードのカーテンが掛っている。
バセロン・オーンはカウンターの男に、ポケットから出した一枚の紙を見せた。男は無愛想で、ガードマンのような厳つい肩の蝶ネクタイの男で、ゆったりと視線だけで紙を見る。それから、手を伸ばして紙を手に、呟きながら何度か擦った。するとカウンターの下から灯りがついたのか、紙が透けて絵が映る。光で見える透かし絵がだったのか、浮き出たように見えた。
男は、絵を眺めると納得したのか、無表情のまま、ゆっくりとした動作でバセロン・オーンに返した。すると、
「ようこそ、夢の国へ」
とにこりともせずに呟いた。バセロン・オーンはホッとした顔をして、バックを抱えるようにして、男が示した脇の分厚いカーテンに手を掛けて、分け入った。
すると、唐突に明るい陽の光が目に入った。まるで、アッフェル・フォルトが映像を切り変えたのではないかと思うような唐突さだった。映像は流れていた。カーテンを握る手の感触も残っているような、流れがあった。しかし、鼻孔を芝草の香りが襲い、気が付くと巨大な石の門の前に立っていた。
カーテンから一歩踏みこんだはずだった。なのに、そこははるか下に草原が広がり、峡谷の川が小さく見える、巨大な石橋の真ん中だった。背後で橋は切れていた。背後は宙で、数歩下がるとまっさかさまに落ちてしまう。そんな場所に立っていた。
バセロン・オーンはそんな場所に出て来たというのに、戸惑った様子を見せず、大きく息を吸うと胸を張って、力強く門に向かって歩き出した。固く閉じられた門は巨大で岩山のように大きかった。雲を突くほどの門を見上げながら近づくと、空から人声がした。甲冑に籠った声は、出入国管理官のものだった。
「誰の許可を持って入国するか」
「王のお情けによって、再入国の許可を頂きました」
通常のありふれた問答だった。
王以外にルフェンとの出入国を許可できるものはいない。この空中の門を造り、その出入国の権限を王に与えたのは、かつて王の先祖と懇意だったと言う妖精王だと言うのだが、真相を知る人間はこの世に居ない。つまり、そのくらい昔に造られた物で、そのくらい、この出入国の仕掛けはなぞに満ちたものだった。
ただ、ここで嘘を言うと、そのまま橋が崩れ落ちると言う話があった。嘘か本当か、出入国管理官は口が堅く真相を語る事はないのだが。まことしやかに、出入国の橋は嘘を聞いて落ちるのだ、と囁かれていた。それが真実だったからだろうか。出入国管理官は、この画一的な問答のみで、門を開けた。つまり、巨大な門はゆっくりと開らきだし、バセロン・オーンは立ったまま、光に飲まれ、人声と馬のいななきが響きだし、一瞬、濃厚な森の匂いに飲まれた。かと思うと、巨大な街壁の門の前に立っていた。
背後の石橋は消え、周囲は人であふれている。両側には休息テントがあり、商売小屋が建ち並び、人や馬が押し合う、ルー王国の王都の門前で、大通りの真ん中に突っ立っていたのだった。
出入国の門は、はるかかなたの山の上そびえる、陽光に尖塔が光って見える遠い景色に変わっていた。今度は、身動き一つしないで、街の門の前に移動していた。バセロン・オーンは、懐かしそうに巨大は街壁を眺めながら、目の前にある門に、他の旅人達と同じように並んだ。門を見て街壁のトンネルの向こうに明るい煉瓦の街並みを見て目を細めた。それから、通りを歩きだす。
「ぶらぶら歩いて、アッフェル・フォルト様みたいにあちこち叩いたり、棒でつついたりするばかりなんですね」
と言ったのはバッセルだった。アッフェル・フォルトが見ていた映像を同じように見ていた。




