14.これから芽が出る場所じゃわい!
腰を落とした老師が、垣根の下で顔を真っ赤にして片手を振り上げていたのだった。シェルフォードは、ちょっと躊躇したのだが、頭を下げて、
「申し訳ございません」
と少し離れた場所で言った。頭を突き出さない事を謝ったのか、畑を歩いた事を謝ったのかは分からなかったのだが、老師は顔を真っ赤にしたまま、
「謝ればよいと思っておるのか! 人の畑をなんだとおもっておる。あれは大事な薬草畑じゃ。それを。それを」
と言うと、その脇で不貞腐れた顔でしゃがみこんでいたアッフェル・フォルトが、
「土を踏んだだけじゃないですか。芽を踏んだわけじゃなし」
とわざとらしく、痛そうに自分の頭を撫でながら言う。すかさず老師が、
「これから芽が出る場所じゃわい!」
と叫び直した。
バッセルは、自分の直感を信じて良かった、と胸をなでおろした。と思った瞬間、
「バッセル。二人を止めるのがおまえの仕事じゃ! サボっておった癖に、何をいけしゃぁしゃぁと、他人事のような顔をしておる!」
と怒鳴られた。
バッセルは、首をすくめるしかなかった。老師でさえも止められない二人を、自分が止めれるはずもない。と思ったのだが、老師にその理屈は通らなかったようで、
「これから先、二人を止める人間がいないとなれば、この監察の館が、どれだけ城から敵対視されるかわかったのものではないわ! わしの命は永遠ではないのじゃぞ! おまえは見習いといえども、監察の館の未来を担っておるのじゃぞ!」
と続け出す。バッセルがいくらなんでも、言いすぎではないだろうか、と思った時だ。
「老師。それは幾らなんでも、バッセルには荷が過ぎましょう」
と言う声が聞こえた。
バッセルは、その声で、老師の膝に抱えられる様にして横たわっているウウローカに気が付いた。老師付きの監察者で、いつものおっとりとした声だったのだが。何で気づかなかったのだろうと思うくらい唐突に、その場の惨状に気が付いた。
老師は畑を見ながらしゃがんでいたわけじゃない。額から血が出て、上着の裾や腕に血が散っているウウローカをしっかりと抱えて座り込んでいたのだった。よく見ると老師の顔色は真っ青で、怪我や傷は無いようだが、ついさっき、アッフェル・フォルトが駆けよるまで、もしかしたら、茫然自失だったのかもしれない。元気にアッフェル・フォルトに手を上げて、やっと声が戻って来たのかもしれない。
「長の会に走って行こうとして、こけたのですか?」
とアッフェル・フォルトが真顔で聞くと、再び、老師はアッフェル・フォルトの額を叩いた。が、今度は力があまり入っていないようだった。アッフェル・フォルトは片目を閉じただけで、痛そうな顔はしなかった。ただ、老師が苦い声で、
「賊じゃよ」
と低く言うと、
「侵食の危機以上の危機ですね」
と静かに言った。バッセルが、老師の幻視が破られ、監察の館に侵入を許す、そんな力のある賊がいる、と思うと、鳥肌が立つような寒気を感じて、腕を擦った。すると、アッフェル・フォルトがさらに、
「老師のストッパーである、ウウローカに何かあったら、監察の組織自体が崩壊しますよ」
と続けた。バッセルは、まじめに、そう言う問題だったのだろうか、と首をのばすと、
「アッフェル・フォルト様、冗談もそのくらいになさってください。侵食の危機の方へどうぞお行きください」
とウウローカが、老師の膝から起きあがろうとして肘で身体を支えながら言ったのだった。バッセルは、どこからが冗談で、どこからが本当なのかが分からなくなって来た。深刻な事態のはずだった。賊も、侵食の危機も、怪我したウウローカも、何もかも大変な事になっているはずだった。なのに、アッフェル・フォルトがのほほんと、
「でも、ウウローカ。血が出ているし」
と言って、自分の懐からすっと小さなスカーフを取りだした。そして、よいしょっと言うような声をだしそうな雑な動きで、片膝をつきながらウウローカの額に当てた。バッセルはそこで、慌てて、
「水で濡らした布巾を持って参ります!」
と言って、館へ駆けだしたのだった。
少年が走り出したのを見て、老師が言った。
「侵食の危機の笛と同時に破られた」
老師の幻視の話しだった。
「館の中の者でしょうか?」
とアッフェル・フォルトが普通の声で聞き返す。バッセルが聞いたら驚くような真面目な声だった。
「いや。わからん」
と否定しながら、老師は黙る。すると、シェルフォードが、
「王城へはなんとご報告されましょうか?」
と問いかけた。すると、アッフェル・フォルトが、
「無視だ、無視」
と代わりに答えた。老師は苦い顔をして、
「と、言うわけにもいかん」
と言うと、
「どうしてでしょう?」
と素朴な声が落ちた。
大人たちははっとして顔を上げる。濡れた布巾と、気付けの酒と、動けない場合の毛布と下に敷くクッションを手に、バッセルが立っていた。あまりに素早い、そして、気の効いた品ぞろえだった。よく知っている老師の館からとはいえ、この素早さに、大人達は舌を巻き、アッフェル・フォルトはつい、ぼそりと、
「そうだ、こいつは最高の見習いだった」
と言う。すると、バッセルが、
「何かごまかそうとしてらっしゃいますか?! どうして、王城へわざわざご報告しなきゃならないんですか? ここは、王権とは別の治外法権の場所でございますよね? いちいち報告の義務はないはず!」
と言った。そして、さらに、
「だからこそ、全ての民の命を預かる誇りも責任も、一人一人の監察者に任されているのではありませんか! 命令を仰いでからでないと動けないようでは、イメージの害から国は救えない。それが、監察者の館の創設理念のはずです!」
と言い足した。バッセルはさらに、だからこそ、全てを捨てて、ここに人が集まってくるんじゃないですか! と心の中でさらに叫んだ。
老師は深く息を吐いた。アッフェル・フォルトが首の後ろを掻いた。そして、ウウローカが何か言おうとしたのだが、その前に、シェルフォードが、
「国を治める王に、国で起こった怪異を伝えるのは、義務でも何でもない。民としての善意だ」
と言うと、バッセルは、
「その報告で、王城の権威の下に、監察者の館に命令が下るのではありませんか!」
と聞き返すと、
「命じられて動くような人間達なら、ここに集まって来ないのじゃろう」
と老師がまぜっかえす。バッセルは真剣な顔で、
「地方都市と言えども、地主に伝える事で起こる騒動を知っているんです。問題を知って放置する地主は役立たずですが、問題を知ったからと言って、もともとのすべき者達から権力を取り上げて、自分の権力で事を解決してしまう地主だって危険なんです」
「ほぉ、なぜじゃ? 何もかも、地主がやってくれれば、こんな楽な事はないじゃろう?」
と老師が面白そうに言うと、
「一人でできる範囲はしれています。他人に任せることができない地主には、地主にしかできない事ですからと言って、情報を曲げて伝える人間が集まってくるんです。権力が地主から、傀儡へ移るのなんか容易い。その上、もともと、すべき責任があった者達は、責任も力も取り上げられて、無力になって行く上、悪くすると悪事を働き始めるんです! 心が歪むと、正しくあるのは難しいんです。権力の分散は大事です。そして、責任と誇りは、それと同じくらい大事なんです!」
と言いきった。老師はうんうんと頷いて、
「聞いたじゃろ。アッフェル・フォルト。この問題は、我らで解決して、王城へ奏上せねばなるまい。シェルフォードの言うのもしかり。王へ伝えるのは我らが民の善意じゃよ。しかして、バッセルの言う通り、責任も大事じゃ。なにもかも、王任せではならんしの」
と言ってから、
「アッフェル・フォルト。おまえが、この問題を解決せい」
と付けたした。
アッフェル・フォルトは、むっと不服そうな顔をした。が、さらに、老師が、
「賊は、あの箱を持って行ったわい」
と言う。老師は、意味を捕らえそこねたアッフェル・フォルトに、
「銀の小箱じゃ。紫の宝石の入っている、あの箱じゃ」
と言ってから、顔がくしゃっとしそうなほど皺を寄せて笑った。アッフェル・フォルトの虚をつかれた顔と、その直後の焦った顔を、老師は楽しそうに眺めた。バッセルには、ものすごく意地の悪い笑い顔に見えた。
老師は続けた。
「皇太后の首飾りが入った箱じゃ。それだけでも、たいそうな値打ちものじゃの」
とさらりと言った。さらに、
「あれは、おまえに渡された贈答品じゃ。陛下に下賜された物を無くしたとあっては、極刑をまのがれぬよ」
と歌うように言い、
「大げさな」
と言うアッフェル・フォルトの呟きに、老師は深く首を左右に振って、
「なんのなんの。あれは、皇后陛下から下されたものじゃ。しかも、王陛下が願い下賜されておる。それを、その辺の木箱が無くなったと同じレベルと思うてはおるまいのぉ?」
と言った。アッフェル・フォルトは何も言い返さなかった。バッセルが不思議に思った。宝石が下賜されたのは重要だろうが、それが無くなったのも大変な問題だと思うが、誰かがお金を儲けただけの事だ。体面にこだわらないアッフェル・フォルトが顔色を変えるはずがない、と思ったのだ。その顔に気づいたのか、シェルフォードが低い声で、
「銀の小箱は、王の私書箱。入っていれば、どんな紙切れだって王の言葉だ」
と告げた。バッセルは、はっとして、アッフェル・フォルトを見上げると、アッフェル・フォルトは、静かに、
「王城へ使者を。連絡を取り、銀の小箱が巷に流れた話をし、取り締まりの強化を願いでて下さい」
と言った。
「せぬよ」
と老師が言うと、
「せぬよ、じゃない! 今すぐ連絡を! 取らないと言うなら、私が行きます! シェルフォード、おまえの公爵家の紋を使え! 夜でも城へ入れるだろう」
「ならぬ」
と言う老師に、
「参ります」
と言って、アッフェル・フォルトは立ち上がる。すると、老師が、
「侵食の危機に入れる賊じゃ。今、王城に連絡し、監察者の館に不信を持たせて、賊を捕まえられると思っておるのか!」
と言った。アッフェル・フォルトは、立ち上がりかけの腰を半分上げた姿のままで動きを止めた。老師はさらに、
「この館の者のしわざかもしれん。王城が騒ぎ、ここを家探しして、この館の者の仕業であったらなんとする? また、この館の者の仕業であったら、おまえ以外に誰が分かる? わしでさえ翻弄されたのじゃ。幻視を破って入りこみ、小箱を盗み、追いすがるウウローカの手までほどいて逃げたのじゃ」
「意思がしっかりしている者なら、老師の幻視は効かない。不安と恐怖におびえている者に掛るのであって、目的のある物には掛らない」
「ならば、小箱を盗む目的があって、忍び入って来たのじゃな」
と老師が言うと、アッフェル・フォルトはすっと背を伸ばして、
「ですね。しかも、小箱がここにあると知っていました」
とつぶやくと、老師が肩をすくめる。アッフェル・フォルトが怪訝な顔をして、老師を見ると、その脇でクッションを背に座りこんだウウローカが笑いながら言った。
「青海色の礼服を来たアルヘルスト様が監察者の館にお出でになったのですから」
と言うと、
「確かに王家の遣いだ。しかし、あの箱を置いて行ったと思う人間がどれだけいる? しかも、私相手だ。なんで老師のところにあるとわかる?」
と真面目な顔で言うと、ウウローカはうっすらとした笑みをたたえたまま、
「それは、この館の中で、あの箱とアッフェル・フォルト様の事を知らない者はおらぬからでございます」
と言うのだった。
バッセルは、そう言えば、そのくらいちょくちょく王からの使者があった、と思いだした。だから、アッフェル・フォルト様は辟易していて、使者があると聞いただけで、監察者の館に戻らなくなるほどだった、と思い出す。アッフェル・フォルトも気づいたのだろう、不愉快そうに口の端を下げたのだが、何も言い返さなかった。ただ、
「探しましょう。しかし、王への連絡は必用です」
とだけ告げた。老師も頷いて、
「必要な時に、おまえが自分で連絡をとるがいい」
と言う。バッセルが、どうやって? と思っていると、アッフェル・フォルトが、
「侵食の危機の最中ですから、銀の監察者からだと言えば、真っ先に聴き耳の者を使えますが。侵食の危機のさなかに、銀の監察者からの連絡だと聞いて喜ぶ王はいませんよ。緊急通信ですからね。国家的な危機が来たと思うでしょう」
と言った。老師は、ふぉっふぉと笑った。
「王なら、どんな時でもおまえからなら、お喜びになりそうな気もするがの。侵食の危機が本物とは限るまい」
と言って言葉を止めた。
老師はそこで空を見上げた。群青色の夜空には、星が美しく瞬いていた。そこにいた五人は同時に空を見上げた。竹林の葉が風を受け涼やかな音を出す。くもりのない澄んだ音はさらさらと耳に心地いい。
「歪みがこれほど少ない侵食の危機は初めてじゃ」
と老師は静かに呟いた。
それから、アッフェル・フォルトは、手早くウウローカと老師に、賊が侵入した時の様子を聞いた。




