13.静かなものだ
群青色の夜空に、さえざえとした月が浮かんでいた。森を渡る風が、土の香りを運び、鼻孔をくすぐる。
奥にいた館の者達は、みな持ち場に走って出たのか、しんと静まり返っていた。アッフェル・フォルトも空を見上げていた。シェルフォードも同じように空を見上げた。イメージで映像が浮かびだすと、空間が歪み濃度となって現れる。
歪みさえも感じさせないアッフェル・フォルトの映像は稀で、侵食の危機のような広範囲で映像を造っている場合は、まるでたわんだガラス越しに見るように空間が歪んで見える。昼に見た、ところどころ虫が飛ぶように見える妖精の映像は、妖精自身が歪みになってちらちらする為、濃度のようには見えないのだが。どちらにしろ、濃度は、監察者のような能力者でなければ見えない。しかし、その歪みが空にない。
アッフェル・フォルトは、片手を伸ばした。正確には、バッセルの頭に手を置きなおした。そして、髪をぐしゃっと混ぜる。そして、一言、
「おまえは偉い! 天才だ」
「ああ。良く気が付いた」
とシェルフォードが空を見たまま続けた。バッセルは、頭をぐしゃぐしゃにされながら、
「薄いんですね? 見えないくらいに」
と言うと、アッフェル・フォルトは、
「薄いんじゃない。濃度が無いんだ」
と答えた。そして、
「本物の侵食の危機かどうか。怪しい」
と言い、さらに、
「だいたい、検証者達が帰ったのなら、ざわめきが先だ。無音の中、笛だけが鳴り響いたりはしない。音がする。梢の音の中で人声がするさ。耳を澄まして門の音を聞いていた私に、音が聞こえないはずが無い。そして、侵食の危機のさなかに、イメージの力で伝達をして、さらなる混乱を招こうとする検証者はいない。もちろん、私ならやるが私はここにいて、外にはいない!」
「と言うより、これだけ濃度が無いのだったら、イメージの伝達ができる。イメージの伝達ができるような侵食の危機とはなんだ?」
とシェルフォードが問いかけながら考えた。アッフェル・フォルトは、
「どっちだって良い。後でわかるさ。それより結果がこれだ」
と言って前を見た。静まり返った館を見た。人気が無い。回廊が奥まで見渡せる。月明かりの中、奥まで見える回廊には人っ子一人居なかった。
「こんなに不用心になる事はない」
とアッフェル・フォルトが言うと、バッセルもこわごわと回廊を覗きこんだ。見習いが居ない回廊を見る事になるなんて、と思った。いつもどこかで、駆けまわっている自分の仲間がどこにもいない。
「狙いはなんだ?」
とシェルフォードがつぶやいた。アッフェル・フォルトが静かに答える。
「今、ここにあって、混乱させてまで欲しい物。誰もがここにあると知っていて、もっとも価値がある物」
「おまえか、老師」
とシェルフォードが即答した。バッセルが目を見張ると、珍しくシェルフォードが詳しく話してくれた。
「王国を滅ぼすのに、アッフェル・フォルトの力が邪魔だ。また、逆に、アッフェル・フォルトの力があれば、王国でさえ滅ぼすことができる、と思う者は大勢いる。そして、老師が全てを護る最後の砦だということは、ほとんど全ての者にとっての真実だ。言いかえれば、老師がいなければ、アッフェル・フォルトの力は異能すぎて使えない。不安すぎて、我が国防は半減だ」
「国防が半減?」
と言うバッセルの問いに、シェルフォードは無表情に、
「ストッパーの無い爆弾のようなアッフェル・フォルトに頼りたいと思う者はほとんどいない、と言うことだ。頼る時には一か八か。のるかそるかで、二つに一つだ。半減だ」
と答えるのだった。
アッフェル・フォルトは彼の言葉を聞きながら、回廊に出ていた。そして、回廊の脇の低木をまたぐと、森へと踏み出す。まだ回廊にいる二人に向かって軽く手を振る。早く来いの意味らしい。バッセルは、その姿を見ながら、茫然とした気持ちが消えなくて、
「ほとんどいない…」
と呟いた。それに、シェルフォードは笑いのような形に口を歪めて、
「頼りたいと思っている人間はいる。だから私がここにいる。そして、老師がそう思わせるほどお人よしな人間にアッフェル・フォルトをお育てになったんだ」
と言った。言いながら、アッフェル・フォルトを追いかけて、茂みへ向かう。バッセルも慌てて二人を追いかけた。一瞬、明るいランプの下でさらされたテーブルの惨状が眼に入った。あの楽しい時間が、まるで嘘のような惨状だった。そう思ったのも一瞬で、すぐに彼らの後を追いかけた。
森の中は、下生えが厚く、バッセルはつる草に手を焼くのだが、前を行く二人がほとんど押し倒すか、なぎ払うか、踏み倒すかして行ってくれたお陰で、なんとか追いかけることができた。よく朝、それが美しく刈り込まれた、森の遊歩道脇の垣根だと分かった時には、青ざめてどうにかして直さなければと思うだろうが、月も差し込まないような暗がりで、遠い先に見える、森の出口の月明かりだけが頼りにするような場所だったせいで、バッセルは、気づきもしなかった。
無言で進む二人を、バッセルは緊張した面持ちで追った。こんな二人は見たことが無い、と思いながら、枝を折る音だけを聞き、踏みしだく音を追った。どこまで行くのだろう、と森の先に見えた月明かりの出口は、もしかしたら、この森特有の幻想かもしれない、と不安に思い始めた時だった。バッセルは、二人を追って、藪の中から、外に出ていた。
イバラの低木をシェルフォードが剣の柄でよけながらくぐり、不思議と枝を綺麗に避けて行くアッフェル・フォルトを追って出る。バッセルも、とげに注意しながら這い出るようにして、外へ出ると、そこは、四方を森に囲まれた猫の額ほどの小さな畑の脇だった。
山の奥地にある、隠れて作った農地のようにも見えた。もちろん、監察者の館の中だ。山奥のはずはない。バッセルがそう思った時だった。
「丁寧なこった」
とアッフェル・フォルトが呟いて、額の髪をくしゃりと掻きあげた。すると、唐突に景色が変わった。小さな畑は、ぐんっと広がって、覆うような木々の枝がぱっと消えた。まるで、周囲の森が歩いて後退したかのように見えた。森だった場所から、小さな建物が現れた。平屋で、窓に美しい色ガラスがはめ込まれた、出窓の庇が長い、見慣れた老師の家だった。正しい通路を通らない者を阻む、幻想の覆いがはずれ、老師の屋敷が現れた。
自分だったら、あの小さな畑の中で立ち往生していただろう、とバッセルは思った。あのまま、また、森に入って、老師の館どころか、回廊にも行きつけず、ずっと森の中をさまよい続けていたかもしれない。幻想だ、と気づく事が出来なければ、幻想を破る事さえ難しい。バッセルは、ぶるっと震えてそっと自分の腕を抱きしめた。
「静かなものだ」
とシェルフォードが言った。辺りは静まりかえっていた。
畑の向こうに竹林が見えた。畑の向こうに老師の屋敷が見えた。しかし、誰も居なかった。
「老師も、長の会に行ったのか」
とアッフェル・フォルトは言いながら、畑を踏んで老師の館へ向かった。侵食の危機では、長の会が中央塔に設置され、助言と折衝、交渉の準備に入る。実動部隊とは別に、王国の維持と人間の未来と、監察者の館の存続を図りながら指示する部署となっていた。
「回廊を行った方が早かったんじゃないですか」
とバッセルはもっともな事を呟いた。中央塔は門の奥、護りの深い所にある。つまりは、アッフェル・フォルトの居室に近い。森を抜け、幻想の中を通ったお陰で、時間も思った以上に掛っていたかもしれない。ちゃんと、回廊を行っていたら、館を出て来た老師に出くわせたかもしれない。わざわざ道を替える必要なんかなかったんだ、とも思った。アッフェル・フォルトは何も言わない。ただ、シェルフォードは、
「あれが最短距離だ」
と短く言って、アッフェル・フォルトを追って、畑に踏み出した。
畑の真ん中を畝を踏んで行く。低く茂る香草を避けてはいるが、柔らかい土にブーツの足跡が付いた。月は明るく鮮明にあたりを照らしている。ブーツの踵の窪みの暗がりまで見える。バッセルは、唐突に、腰をかがめて雑草をせっせと毟る老師の姿を思いだした。また、腰をあげてこちらを見た瞬間、うっかり畑に足を踏み入れた自分を、怒りの極限のような声を出して怒りだした老師を思いだした。
お陰で、すっと半歩下がった。怖かったのだ。どこかで、老師が見ていたら、と思うと肝が冷えた。この二人がいるのに声がしないのだから、いるはずもないのに。斜めに畑を踏んで悠々と館に向かう二人を見ながら、バッセルは森沿いに、畑を迂回し、石ころに足を取られながら、遠回りをしながら二人を追った。
本当に静かな夜だった。侵食の危機の笛を忘れそうな程、静まり返った夜だった。そして、バッセルは館に近づくにつれ、奇妙な事に気がついた。色ガラスを使った窓が見える。つまりは、中が明るい。光が透けて見えたのだ。
なのに、扉が開いていた。飛び石の小道の上に光が長く伸びていて、竹林に続く道を明るく照らしている。なのに、物音一つ聞こえてこない。
「裏から回れ!」と、と言うように、アッフェル・フォルトが、畑の真ん中で、バッセルに無言で命じた。手を上げ、館を差し、さっと手を上げるだけの簡単な指示だが、バッセルはすぐに気づいて、館の裏へと駆け出した。と同時に、アッフェル・フォルトは畑を抜け、竹林の小道へ駆けだし、シェルフォードは館の開け放たれた入口へと走りだした。
無言の中、館の裏を探る。物音一つしなかった。人気もなく、人がいたような気配さえない。バッセルは、薪小屋の前を通り、長庇の香草干しの棚の前を通って、森へ続く空き地を伺うように見ながら、森の中へ耳を傾けた。足音を隠すようにして、裏から表へ駆けた。
家の暗がりから表へ。広い半円の石畳の入口に来ると、家の中から音も無くでききたシェルフォードに出くわした。一瞬、どきりとするのだが、バッセルは首を左右に振って、何も無かったと伝えた。ちらりと見ると、明るく引き戸が開け放たれているだけで、椅子もテーブルも普通に見えた。入口の衝立から覗き見たが、今しがた、誰かが立ったように椅子が引いてあるのが見えただけで、人が忍び込んだり、家探ししたような感じには見えない。
シェルフォードはバッセルに目だけで頷き、外へ目を向けた。館の奥も人っ子一人いなかった、と告げていた。シェルフォードの視線の先には、飛び石の小道があって、茶の垣根があり、竹林まで伸びている。竹林からこちらに向かう人影は、アッフェル・フォルトで、同じように肩透かしだったのか首を左右に振って見せた。
異常を感じたのは気のせいだったのだろうか、と思い、バッセルが、老師は侵食の笛を聞いて慌てて家を空けただけだったのかもしれない、と思っていると、低いうめき声が聞こえた。バッセルがはっと顔を上げ、どこだと見渡していると、アッフェル・フォルトが駆け出しているのが見えた。シェルフォードも同時に駆けだしていて、バッセルはつられて駆けだした。
垣根の影に黒い影が見えた。アッフェル・フォルトがしゃがみこんで手を伸ばすのが見えた。シェルフォードに追いつき、バッセルがつんのめるようにして立ち止まると、鈍いごつっとした音が聞こえた。と思うと、アッフェル・フォルトの、
「痛ったいなぁ。なんで、殴るんです、老師! 助け起こした人間を何で!」
と言うむくれた声が、ふわっと当たりに広がった。バッセルが驚いていると、
「わ、わしの、畑を…」
と言う押し殺したようなしわがれ声が漏れ、ついで、
「シェルフォード、おまえも頭を突き出さんか!」
と老師の怒声が響き渡った。




