15.護りますから
侵食の危機の笛が鳴っていた。遠く静かに。
老師は、食後の冷酒のグラスを片手に、膝に置いた冊子を繰っていた。テーブルの上は綺麗に片づけられ、巷で流行りの東の国の駒ゲームを自分の前に置いていた。
時折、グラスの端に口を付けて、すっと仰ぐ。冊子を睨みつつ、手を伸ばしては駒を一つ、コトリと動かす。
「今日は、駒の動きが早ようございますな」
ウウローカが、奥の水場から戻り、テーブルを眺めながら声を掛ける。老師は、低く唸って、
「簡単じゃ」
と言うのだが、始めて一週間になるのに、未だに1ゲームでさえ終われない。冊子の書き手が手ごわくて、老師は何度も煮え湯を飲まされていた。
ウウローカがくくくっと笑う。老師が口の端を下げて不服そうにする。しかし、老師は文句を言うわけでもなく、再びしんと静まり返る。ウウローカは、茶器を一つテーブルに置き、椅子を引いた。
その時だった。遠く甲高い笛の音が一つ、そして切れ切れに短いの音が続いて、再度高い音が鳴った。老師は、グラスを手にしたまま顔を上げ、ウウローカは椅子に手を掛けたまま動きを止めた。
「侵食の笛か。春先にとは珍しい」
老師はそう言い、膝の冊子を掴みながら椅子を降りる。グラスをテーブルに置き、窓際に寄り空を見上げる。窓を開け放ち、軒下から覗くように空を見上げた。
「静かなものじゃ」
老師の呟きを聞きながら、ウウローカは玄関へ歩いた。タンっと両側に戸を開き、耳を澄ます。遠く、夜の気配を通して、人のざわめきが聞こえた。
「訓練ではなさそうです」
ウウローカはそう言って、外に踏み出す。とその時、ウウローカが左を見た。玄関庇の脇の水甕の影で何かが動いた。
ウウローカが動きを止めたその時、物陰から黒い影が飛び出した。玄関を背に両手を広げたウウローカを突き飛ばし、中へ飛び込む。
「何者だ!」
と老師が叫んだ。叫びながら、日ごろの足腰を労わった動きとは全く似ても似つかない素早さで、ソファーを回り、中へ入って、逡巡した男へ駆けよって、腕を掴む。足を掛けて男を転ばす。ウウローカが、玄関脇で慌てて立ち上がると、飛び付くように男を抑える。
全ては、老師とウウローカの手の上での出来事だった。生垣の脇で、早送りの映像として、賊の様子を見せていた。
二人の視点で作られた映像は立体的で視野が広い。視覚が無い。呼吸を合わせるのはもちろん、イメージを同時に重ねて作り上げるのは高度すぎて普通はできない。
その凄さに、バッセルは圧倒されていたのだが。アッフェル・フォルトは、動き続ける映像を見下ろしながら、ぼそりと聞いた。
「老師、どこか造っていませんか? 老師が俊敏すぎるのでは」
老師は、ふぉっふぉっふぉ、と笑って答えた。ウウローカがもぞっと動いたのだが、こちらは映像を造るだけで無言を通した。
映像は続いていた。
男を抑え、二人が馬乗りになった直後、布を顔に巻き黒の作業着を着て身元を隠したままの男だったのだが、二人を突き飛ばして立ち上がった。
男は、抑え込まれながら部屋を見回していたのだが、素早く立つと、まっすぐ暖炉へ駆けよって、棚の上の銀の小箱を片手で掴んで、外へ走り出したのだった。
ウウローカが老師より二拍、早く立ち上がる。玄関を出て、男を追う。男は足をひっかけられた時に足首をひねったのか、片足を引きずるように駆けて行く。
ウウローカは跳ねるように追いかけて、生垣の脇で男に飛びかかるようにして追いすがった。男は身をひるがえすようにして避け、伸びたウウローカの腕を払って生垣に突き飛ばす。と、ウウローカが、派手な音をたてて生垣の中に顔を突っ込んだ。
男は一瞬、目を見開いて固まった。ウウローカの額に枝が刺さったのが見えたのだろう。
「待てぇ!」
と言う、老師の声を聞くと、男は再び、駆けだした。老師は、男を追い掛け、生垣のウウローカの所まで来て、映像が霧消する。
最後の絵は、ウウローカの顔だった。目の上から頬にかけて血が流れ、真っ赤に染まる。ウウローカの目は空を見上げて止まっていた。一瞬、息が無いように見えた。
「暗くて顔がいまいちよくわからんの」
と老師は静かな声で言った。
犯人は、背が高く肩が細い。筋張った感じだが、あまり労働を得意とするタイプの男には見えなかった。
映像では、二人の男を吹き飛ばす怪力男のように見えたのだが、細く小柄な老人を押しやって、小箱を盗んでいったのだろう。バッセルは、ちらりとアッフェル・フォルトを見上げた。
賊の筋張った腕は長めで、箱に伸ばした手は大きく、指が長い。見たことがある手だった。ペンを持つと良く似合う。労働をした事が無いような白い手だ。
しかし、アッフェル・フォルトは、何も言わなかった。そして、シェルフォードも無言だった。だから、バッセルも何も言わなかったのだが、その男は、昼間の男と背恰好がよく似ていた。
「強い意志に、幻視を破るほどの力です」
とウウローカが言うと、
「ここに出入りして当たり前の男かもしれぬが。見たことが無い」
と老師は言って、片手を握った。最後のウウローカの映像を握りつぶしたかのように見えた。
ウウローカが、その手を見下ろしながら、
「音のしない布の靴に、暗がりに紛れ込みやすい暗い色の作業着でした。靴も作業着も、簡単に手に入れる事ができましょう。館の中でも、そして、外でも」
ウウローカはそう言って、ため息をついた。
「心の中を探っていれば」
とウウローカが続けると、老師が、
「イメージの害でなければ、ならぬよ」
と戒めた。心を探る制約は賊が押し入った時にも掛る。宣誓は絶対だった。ウウローカは、
「せめてしっかり掴んでいれば」
と悔やむように言い直す。
アッフェル・フォルトは、そんなウウローカに手を伸ばし、額の布をそっと押さえた。まるで詫びるような、申し訳なさそうな躊躇を含んだ手の動きだった。
しかし、すぐに手を離すと、
「侵食の危機の笛は本物かもしれません」
と言って立ち上がった。と、同時に五人全てが空を見た。澄んだ夜空は、月が美しく雲もない。視覚的にも、気配的にも澄み渡り、どこかで、王都を覆うほどの侵食の危機が起きているとは思えないほど、穏やかだった。
そして、アッフェル・フォルトの瞳が陰る。何かを思いついたらしい。それを見て、何か気づいたのかもしれないのだが、老師は、ウウローカの脇に膝まずいたまま、
「そうじゃの。危機が先じゃ」
と呟くと、腰をさすって立ち上がった。
ウウローカもその脇で肘を付き、肩を起こす。誰も止めず、寝ているようにとも言わない。バッセルは、それでもそっと手を伸ばす。と、ウウローカは、苦笑しながら、
「この危機のさなか、あの銀の小箱が使われているかもしれぬと思うと…。私が探しに参りたいほどです」
と呟いた。
柔らかい声音だったが、本気のようで、老師に静かに目を向ける。しかし、アッフェル・フォルトが、
「あの宝石だ。質屋を当たればすぐ出てくるんじゃないかと思う。手にしていたら目立ちすぎるし、金に目が眩まなきゃ、あんな物を取りに潜り込んだりはしないだろうし」
と言って笑った。そして、
「だいたい、銀の小箱を売ってくれれば、すぐに、警邏へ連絡が行く。もしかしたら、捕まえに行くより、そっちの方が早いかもしれない。古物商だって、共犯にされては怖いし、持っているだけで何を探られるか分からない上、転売したとばれたら、どうなるか。王家の兵はもちろん、監察者の館が動いたら、嘘は付き通せないと分かるだろう」
そう言ってから、ウウローカをそっと押した。
ウウローカは、大地に置いたクッションの上へ倒れるように崩れ落ちる。
「大丈夫。危機のさなか、出歩く馬鹿はいない。誰何されれば何を勘ぐられるかわからないし。逆に、出歩いてくれたら、どこかで鎮静者達が見付けてくれる。怪しい奴は捕まえやすい」
老師が黙って見つめる前で、アッフェル・フォルトは笑ってみせると、
「捕まえます」
と言って頷いた。
バッセルには、一度、捕まえ損ねたんだから、と続く声が聞こえてきそうな気がした。唐突に、自分のせいだ、と感じた。あの、神の光を自分が落したからだ、と思ったのだが。そこで、始めて。やっと。あの神の光にとても似ている、と気が付いた。
濃度が無い。今、この、侵食の危機と言われる最中に、どこにも夜空に濃度が見えない。全てにあるのと、とても似ている。
「アッフェル・フォルト様」
とバッセルは呟いた。のんびりしている場合じゃない、と気が付いたのだ。あの神の光ほどの威力があれば、今この瞬間。王都の人間を狂わす事も、眠らす事も、瞬時に戦わせる事も、できるのではないだろうか、と思ったのだ。
「ああ、行こう」
とアッフェル・フォルトは言うと、老師から離れ、クッションに崩れたままのウウローカへ会釈を送った。
「参ります」
と軽くひょいと頭を下げた。そして、半歩離れて身を翻し、振り返らずに、竹林へ向かって歩き出した。バッセルは、老師達にぺこりと頭を大きく下げて、駆け出して、アッフェル・フォルトの後を追った。シェルフォードも会釈をすると、
「護りますから」
と呟いて、身をひるがえした。




