(01-2)むつぶ
夕方の冷たい空気の中、明里は神社の石段を下りそのまま家路についた。店の暖簾はまだ出ていてガラス越しにやわらかな明かりが見える。
「ただいまー」
「あら、おかえり。寒かったでしょう」
店先には母がいて陳列棚を軽く整えていた。奥からはことことと鍋をかき混ぜる音がする。父が明日の仕込みをしているのだろう。
明里の家は町の通りに面した小さな和菓子屋だった。ガラス戸の向こうには季節の上生菓子と大福、饅頭が行儀よく並ぶ。派手さはないがどれも素朴で、手に取るとほっとする味だ。中でも父の炊くあんこは評判で「ここのあんこは甘すぎんでええ」と、わざわざ遠くから買いに来る年配の客もいる。そのせいか店に並ぶ菓子の多くはあんこが主役だった。
「今日はね、旧正月だったけど思ったより人少なかったよ」
「そう? まあ平日だしねえ。でも行ってくれる人がいるだけでありがたいよ」
「うん。旧正月って知ってて来てくれた人もいたし、たまたま散歩の人もいてさ」
母はふふっと笑って「明里はちゃんとお正月を二回やってる感じだね」と言った。
明里も笑ってうなずく。
ひと通り話してから、明里は店を抜け奥の祖母の部屋の襖をそっと開けた。
「おばあちゃん、いる?」
「はいはい、どうぞ」
布団に腰かけていた祖母の顔がぱっと明るくなる。
「おばあちゃん、あらためて……あけましておめでとう」
「はい、おめでとうさん。今年もよろしくね」
その言い方が新暦の元旦とは少し違って、明里はそれだけで嬉しくなった。
「今日から睦月だね」
「そうそう。睦月は“むつぶ”の月だよ」
「むつぶ?」
「家族や人との縁を結ぶ月。切れたものを結び直す月でもあるんだ」
祖母はゆっくり、そして噛みしめるように言葉を選ぶ。
「だからね、一月はね、静かでもいいんだよ。派手じゃなくていい。ちゃんと“結ばれてる”って思えたらそれでいい」
明里はその言葉を胸の中で転がす。
今日の境内の静けさ。
顔見知りの参拝客の声。
母の笑顔。
父の鍋の音。
「……なんか、わかる気がする」
「そうかい。それならいいね」
祖母はにこりと笑った。
旧暦を意識し始めたのはいつ頃からだっただろう。はっきりとしたきっかけは思い出せない。
椎木家は和菓子屋だが、その暮らしはごく普通だ。カレンダーは新暦、学校も行事もテレビの特番も、全部いまの時間で進んでいる。明里自身も特別に逆らって生きているつもりはなかった。
それでも、どうしても体のほうが先に反応してしまう。
満月の夜は理由もなく目が冴えた。布団に入っても眠れず、障子越しの月明かりが気になって何度も寝返りを打った。胸の奥がざわつくわけでも不安になるわけでもない。ただ、静かに“起きてしまう”。
反対に、新月の夜は不思議なくらい落ち着いた。外が暗く、月の気配が消えると体の力がすっと抜けて深く眠れた。なにかに守られているような感覚すらあった。
――変な子だな。
そう思われるだろうな、という自覚はあったから誰かに話したことはない。ただ、神社で月を見上げているときは「ああ、今日はこういう日なんだ」と納得できた。
暦よりも先に月を感じていた。
気づけば明里はそんなふうに時間を受け取る子になっていた。




