(01-1)旧正月
岐阜県。山あいに広がる地方都市の外れ。
市の中心部から路線バスで三十分ほど揺られた先に、地元の人たちに長く親しまれてきた小さな神社「赤峰神社」があった。
観光地でもなく立派な社殿があるわけでもない。けれど、ここはこの土地に生まれた人間なら誰もが一度はお参りする産土神社だった。
その社務所でひとりの少女が朝から忙しなく動いている。
椎木明里。十五歳。
中学三年生。
境内の落ち葉を掃き、
手水舎を清め、
社務所の机を拭く。
慣れた手つきだった。ここで過ごす時間は家よりも長いかもしれない。
今日は二〇二五年一月二十九日。
世間では何事もない普通の水曜日だ。
学校もあるし、ニュースで特別な話題が流れるわけでもない。街はいつも通りの朝を迎えていた。
けれど、
明里にとっては違った。
今日は一年でいちばん大切な日。
そう言っても決して大げさではない。
――旧正月。
旧暦一月一日。
明里にとっての「元旦」だった。
なぜなら彼女は旧暦をとても大切にして生きている。意識しているというより、そうやって日々を過ごすことが自然だった。月の満ち欠けを見て季節の移ろいを感じる世間のカレンダーとは少しだけ違う時間の流れの中で。
「……あけましておめでとうございます」
まだ誰もいない拝殿に向かって明里は小さく頭を下げた。今年もどうか田も畑も無事に実りますように。明里は鈴緒を整えながら胸の中でそっと願った。
「よし。今日から睦月だ」
そう小さくつぶやくと自然と口元がゆるむ。
新暦ではただの一月下旬の水曜日。でも、明里にとっては元旦。一年の始まりだ。
境内にぽつりぽつりと人影がある。先日の一月一日はこの小さな神社もそれなりに賑わっていた。地元の人たちで境内が埋まり、甘酒の鍋が空になり、簡単な出店も並んだ。
それに比べれば今日はずいぶん静かだ。
「明里ちゃん、今日もえらいねぇ」
犬の散歩途中のおばあさんがにこにこしながら声をかけてくる。
「おはようございます。今日は旧正月なんですよ」
「ああ、そうだったねぇ。今年もよろしくお願いしますって言っとかなきゃ」
おばあさんはそう言ってゆっくり手を合わせた。
少し離れたところでは作業着姿の男性が一人境内を見回している。
「今日は人少ないね」
「今日は旧暦の元旦なんですけどね」
「そういうの大事にしてるんだなぁ。なんか、いいね」
そう言って照れくさそうに頭をかき、軽く一礼して帰っていった。
何も知らず、ただ散歩の途中で立ち寄った人。
ちゃんと知っていて、この日に来る人。
理由はそれぞれだけど、ここに来る足取りはみんな穏やかだ。
「明里ちゃん、今年もよろしくね」
「はい。今年もよろしくお願いします」
いつものやりとり。
いつもの境内。
でも今日は明里の中では特別な一日だった。
静かな睦月の始まり。
誰にも気づかれなくても、確かに一年はここから動き出している。




