『INTJの浪人』 :未完のステータス
続きです。ハマってしまった
居酒屋の喧騒は、佐藤花子にとって常に「処理しきれないバックグラウンドノイズ」の連続だった。
グラスがぶつかる乾杯の音、昇進や結婚といった凡庸なライフイベントの報告、そして「あの頃は楽しかった」という過去形ですべてを美化する同級生たちの脳内お花畑。千葉大の教育学部を卒業し、正論という名のOSで武装した彼女にとって、この同窓会という名の同調圧力の温床は、本来なら秒速で解析して最適解を弾き出し、出席する価値すらない低レイヤーの空間であるはずだった。
だが、彼女はここにいる。
そして、その沈黙を破ったのは、ビールジョッキを置いた同期の男の一言だった。
「でさ、佐藤。お前、母校の進学塾兼いかがわしい自習室に入り浸ってんだろ? ……いい加減、あの男はどうなったんだよ。山田だよ、山田太郎」
その名前が出た瞬間、周囲の空気がわずかに淀んだ。
話題の中心にあるのは、高校のクラスに巣食う永遠の留年者――山田太郎だ。万年、黒のスーツにハットを被り、革の斜め掛けバッグを提げ、図書館の古びた専門書と海技試験の参考書を漁り続けている男。
「あいつ、まだ学校にしがみついてるのか?」
「流石に中退だろ! 何年留年してんだよ、年齢レッドゾーンだろ常識的に考えて」
「不気味な奴だよな。何考えてるか微塵も分かんないし、下手に近づくと変な理屈で論破されるしさ」
同期たちの口々に発せられる「常識」という名のノイズ。
誰もが彼を「レールから脱落した異物」「社会システムのエラー」として処理し、笑い話にしようとする。
花子は、目の前にあるグラスの泡が消えていくのを冷ややかに見つめながら、静かに、しかし澱みなく言い放った。
「――中退じゃないわ」
「は? じゃあ何だよ」
「彼はまだ在籍しているわ」
男が呆れたように鼻で笑う。
「冗談だろ。もう何年経ってるんだよ。卒業すらできないなら、それはもうただの不法滞在のモブだろ」
その言葉を、花子は遮らなかった。
遮る必要すら感じなかった。なぜなら、彼らが吐き捨てる「モブ」という認識こそが、目の前にある絶対的な構造を見誤っている最大のバグなのだから。
花子は視線を上げ、完璧に統御された冷徹な瞳で同期たちを見据えた。
「――彼は私の生徒よ」
ざわめく周囲。花子は表情一つ変えず、淡々と、しかし微かに狂気を孕んだ声で続ける。
「私だって、最初は信じられなかったわ。こんな合理的で、冷徹で、世界の裏側のコードまで見通しているような男が、まだ『高校生』の枠組みの中に縛られているなんてね」
彼女の脳裏に、あの男の姿が鮮烈に蘇る。
「大学を出れば3級海技師の筆記なんて免除される。だがな、そんなものは図書館の蔵書を漁れば独学でも同じことだ。問題は筆記じゃない……乗船履歴という絶対的な物理の壁だ」
かつて、図書館の薄暗い書架の影で、冷笑を浮かべながら自身の挫折とシステムの壁を語った山田の横顔。
彼は自らの過去の敗北さえも、この巨大な学校システムをハックし、自分だけの設計図を完成させるための「初期値」として組み込んでいた。
そして、自分はそんな彼に影響を与え、彼の中に人間的な揺らぎを目覚めさせている――と、花子は信じ込んでいる。
いや、そう思い込まされている。
――だが、本当にそうなのだろうか?
花子は心の中で小さく自嘲する。
彼が私に見せる揺らぎや、時折覗かせる熱量すらも、最初から彼の描いた壮大な設計図を完遂させるための……私という『最強の駒』を駆動させるための計算されたアルゴリズムに過ぎないのではないか、と。
「……ま、まぁ、佐藤がそこまで言うなら……変な奴なのは確かだな」
同期たちが気圧されたように話題を逸らし、再び酒を飲み始める。
花子はグラスに口をつけ、冷たい液体を喉に流し込んだ。
――笑えばいい。彼らがどれだけ嘲笑おうとも、あの男の引いた無限大の設計図のなかで、今この瞬間も世界は確実に歪められているのだから。
「まだ高校生なのよ……私を狂わせる、唯一のね」
安い恋愛ものにする気はないが何故かこうなった




