探りながらの距離感は
心地よく音を奏でていた日誌を記入するペン先の音が止み、俺は回想から醒める。
「すっごく、馬鹿な人もいるんだなって思った」
「環境委員でもないのにプランターの心配してたどっかさんも馬鹿だと思うけど」
「私がバカなら、源元くんは大バカさんだよ。だから、私の憧れ」
楽しげな侑夢の笑顔は、夕陽に照らされていた。
「わざわざ泥だらけになる必要なんてなかったのに」
「だからあれはつい反射で」
「知ってる。よく、知ってるよ」
その声音には、どこか寂しさが感じられた。遠くを見つめるような眼差しには、何が映っているのだろう。
「源元くんが、考えなしに自分を犠牲にしちゃうのも、そのせいで私みたいなバカを引きよちゃうのも、わかってる」
「俺は別にお前のこと嫌いじゃないぞ?」
「えっ、うん。その心配はしてないよ?」
自分のことを馬鹿とか卑下しだすから、てっきりそう言う話の流れだと思ったのに・・。
俺が恥ずかしくて頭をかくと、侑夢はそっと俺を見た。
「だからね、今度は私が源元くんにタオルをあげたいの。源元くんが、泥だらけで、何かに濡れちゃった時には私が・・・そばにいて拭うことはできなくても、タオルを預けられるくらいには、なりたい」
「せめて傘をさしてくれないかな。タオルだと濡れちゃうぞ、お互いに」
「それでいいと、思わない?」
藤咲はやはり儚げに笑った。
「一緒に濡れて、意味もないのに雨に濡れながら髪を拭うの。それでまた、どろんこになるの」
「流石にまた泥だらけにはならないって」
「もう、いじわる言わないで。・・・だからね、源元くん。改めて教えてほしいな。最近、大丈夫?」
鐘の音のように、厳かで、どこまでも遠くまで響いてしまうように感じられた。
俺は逡巡しながらも、残響が止む頃には、つい言葉が口を突いていた。
「もう、疲れた。それだけだよ」
「私にできることは、ないのかな」
確認の意はないのだとわかる。だってその笑みは、どこか寂しげだったから。
「強いて言うなら、いつものメンバーといる時とかは、これまでと変わらないように接してほしい」
「……それは、どうして?」
「変に勘ぐられたりしたくないんだ」
「ごめんね」
「侑夢は、大丈夫」
「どうして?」
「侑夢は、優しいから」
「源元くんに言われると、恐れ多いなぁ」
「俺なんて優しくない。俺の意思で誰かを助けることなんて、ないんだから。ただ、そうするべきなんだろうっていう漠然とした規範意識で動いてるだけなんだよ」
情けは人の為ならず。人に尽くす優しさは、からなず自分に返ってくる。
厳しく、辛い期待や役割しか俺に回ってこないのは、逆説的に、そう言うことだ。
すると侑夢は自虐的に笑う。
「優しさは、臆病さだよ。どっちかを選ぶとか、そう言う持つべき厳しさを持ってないから、臆病に全部を許容してるだけ」
それはどこか、しっくりとくるような気がした。俺自身が、考えていたことでもあるからだ。俺はきっと、決断を先送りにしているんだ。臆病に、今あるものがなくなってしまうことを恐れているから。
極論、俺が全員を殴ったり、奇行の限りを尽くせば、おそらく俺が望む孤独は手に入る。それでも俺が不満を抱きながらも今を享受しているのは、ひとえに俺が臆病で、勇気がないから。
きっと、俺と侑夢は似ている。
けれどすぐにそれは失礼なことに思えて、俺は侑夢と同じ微笑みを浮かべた。
「確認だけど。二人きりの時だけは、これまでとは違ってもいいのかな」
「まあ、そうなるのかな」
「そっか」
けれども侑夢には何も変わりはないように思えた。
それから俺は黒板を消して、窓を閉めると、日誌を持つ侑夢と俺は教室に鍵を閉める。
「日誌、俺が返しとくよ」
「大丈夫」
「わざわざ行くのも面倒じゃないか?」
侑夢は妙にぎこちなく、日誌を抱き抱えると、俺からふと視線を外す。
「だめ、私は頼らないから」
「そっか」
「だから、一緒に行こ?ひ、ひかる。くん」
「え?」
抱いた違和感の正体を掴むよう、俺は侑夢を見る。
けれども俺と一度目が合うと、侑夢は顔をそらす。俺からは頬と耳が紅いことしか、わからない。
俺達の間に交わす言葉ない。
付かず離れず、人一人分ほど横に開けて歩く俺達の間には、少しだけ重なった足音が楽しげに響くだけだった。




