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手を伸ばしても、あの虹には届かない

 侑夢との出会いは、高校一年の梅雨の時期。雨風の激しい日のことだった。

 当時から侑夢は、地味で、自己主張控えめでそして、どこまでも優しかった。


 それは、昼休みだった。

 休み時間にサッカーをしようと真っ先に俺と蓮で昇降口へと向かうと、にわか雨が降り始めた。


 蓮はそれをみて体育館の鍵を職員室へと取りに行き、俺は大粒の雨が徐々に強まる風に乗って窓を叩きつけているのを感じながら、世界に斜線をひくような雨を眺めていた。


 雲はまるで学校を覆う厚いカーテンのよう。俺はふとこの場所から出られなくなるのではないかなんて思って「そんなカーテン嫌だなぁ」とか呟いた。

 瞬間、俺の脇を人影が走り去る。


「え、ちょ、ちょっと!?」


 俺の静止も聞かずに大きな雨粒が降り注ぐ校庭へと飛び出したその女生徒は何やら玄関を出たすぐそこに身を屈めている。

 一体どうして?何をしてるんだ?そんなこと考える暇なく、俺は反射でその生徒に続く。


「ちょっと、何してるんだ。雨が降ってる」

「プランター、倒れちゃう」


 前髪は雨を含んで束になり、顔の両サイドの流した髪は荒々しい風にたなびいている。

 目元に雨粒が寄り添っているせいか、その女生徒は泣き出す寸前の子供のように見えた。


「玄関に入れればいいのか?」

「えっ、う、うん。で、でも————」

「————いいから急ごう」


 俺と彼女は互いに言葉を交わすこともなく、一生懸命に左右それぞれに十数個置かれたプランターを運んでいく。

 そんな中でも雨風は容赦なく俺たちの体を叩きつけ、その勢いは増していった。



「それで最後?俺がやるから。君はもう中に入って」

「・・・ありがと」


 残りの一個のプランターを俺が持ち上げるのと、彼女が階段を上がるのは同時だった。

 そのプランターは玄関に続く階段の一番下の段に置かれてあり、彼女はすでに階段を登っていた。位置としては彼女が上、俺が下にいる構図。


 視線を上げる。


 ちょうど、その女生徒の足が滑った。まるで階段の上から透明な誰かに押されたみたいに。

 小さかった背中はどんどんと大きくなって、迫ってくる。その様子はスローモーションに見えた。

 俺はとっさに持っていたプランターを放り捨てて、落ちる体を受け止める体勢をとる。


 どすっ、と女子の全体重が重力による加速を伴って俺の体へとのしかかる。

 ぬかるんだ地面は、俺に踏ん張ることを許さず、俺は背中から地面へ倒れ込んだ。


「だ、大丈夫か!?」

 届くのは、聞き馴染みのある蓮の声。


 どうやら騒ぎを聞きつけた奴らが俺らのことを心配して出てきたようだ。


 目を開ける。

  無数の雨粒が顔を叩きつける。薄暗い雲はどこまでも広がっていた。空はこんなにも広いのかなんて、呑気に感動する。


 体を動かそうにも、まるで漬物の蓋のように、上に重しがあるせいで動けない。

 俺の上の華奢な体は、ささやかな湿っぽい熱を感じさせる。

 体がわずかながら、大きくそして小さくなるのを繰り返すのは、呼吸のせいだと不思議とわかる。そして、その熱がまどろんでしまうほどに心地よい。


 未だ俺の上の女生徒が動かないことが気がかりで、呼びかける。


「大丈夫か?」

「う、うん」


 ふっ、と息苦しさがなくなる。女生徒は保健の先生に抱き抱えられるようにして俺の体から引き剥がされたようだった。


「お前、泥だらけで下敷きになった人間が心配できる立場かよ。ほら、つかまれ」


 蓮は先生を真似して、俺をハグするように抱き上げる。どうせなら先生がよかった。

 体の後ろ側だけ泥の重みを感じる、不思議な感覚に襲われていると、起き上がった女生徒がこちらを眺めていた。


 毛先は雨粒を垂らし、大きな瞳は俺を捉えていた。

 俺は、息をするのも忘れて見つめ返す。


「なんで、助けてくれたの」

「意味なんてないよ。ただ目の前で転んだから、気づいたら体が動いてたんだよ」

「そうじゃなくて」


 小さな、薄い唇が震える。こんな声してたのか、なんて平静になって気づく。


「どうして、プランターを玄関に運ぶの、助けてくれたの」

「君が濡れてでもやろうとしていた必死さに感化されたのと、誰かがやらないといけないけどみんながやりたがらないことは俺の仕事っていう諦めのせいだよ」


「そっか」

 彼女は笑った。


 厚い雨雲、雨粒のカーテン。それらを透かして、温かな日差しが注いできたかのような笑顔に、俺はつい視線を外す。


「光、これタオルだってよ」

 先生に渡されたのだろう、蓮が傘をさしながら二人分のタオルと傘を持ってきた。俺はタオルだけを奪うようにとると、一つ、彼女へと差し出した。


「これ、君の」

「ありがとう」


 俺たちはぐちょぐちょにな頭を拭きながら、玄関を目指す。

 決して傘をさそうとは、思わなかった。


「あのさ」


 俺を気遣う様々な声色の中でも、彼女の小さいはずの声ははっきりと聞こえた。

 俺はその女生徒の方をみる。


 彼女は、陽だまりのような幼い笑みを浮かべながらささやいた。

「君じゃない。空蝉侑夢だよ、源元光くん」



 俺たちはその後、体操服に着替えて、まるで何事もなかったかのように営まれるそれぞれの日常へと戻っていった。


 部活に行く途中、放課後の外を見た。

 もう既にいたずらなにわか雨は、止んでいた。


 校庭の水たまりは太陽を反射して夕方の水面みたいにきらきらと輝いて、青空には虹が浮かんでいた。まるで精一杯に青春を生きる俺達を、笑うように。

 あの子に声をかけてみよう。そう思ったのは、その虹のせいだった。

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