克美刑事、登場
お待たせしました。マイクに飛び込んだひき逃げ事件の模様は、思いがけない方向へと動き出しまして……。
気味の悪い静寂を破り、パトカーと救急車のサイレンが窓越しに伝ってくるのを聞くと、日下先輩は灰皿の中で吸いかけのハイライトをひねり、サッシを滑らせた。入れ替わりに部屋の中へ、新鮮な夜の空気が流れ込んでくる。
「お出でなすったな」
「――やっぱり、クギチョウさんかな?」
「だったら気が楽だけど、デンスケ出すのは止しとこうや。死んでるかどうかすらわかんねえんだもの」
冷やかしみたいでバツ悪ぃぜ、と肩をすぼめる日下先輩に、それもそうか、と近江先輩が続く。置きっぱなしになったヘッドホンからはかれこれ十数分、非常用のBGMが漏れ聞こえている。新規に入った視聴者が状況を察して「なにがあったの」「今北産業」などとコメントしては、常連のリスナーが事情を説明する格好になっているのが、ちょっとおかしみを孕んでいる。
「あの……放送のほう、どうします? かなり待たせちゃってますけど」
こわごわ間へ入ると、日下先輩はゲジゲジのような眉毛をひくつかせて、悩ましいねえ、と呟く。
「もしかすると馴染みの刑事さんがこっちへ何か聞きに来る可能性があるんだなあ」
「え、ええっ?」
馴染みの刑事、という単語にあっけにとられていると、そこへ申し合わせたように呼び鈴が鳴った。出ましょうか、という声かけに、日下先輩が立ち上がってドアを開ける。
「やあ、誰かと思えばカツミのダンナ。――クギチョウさんのおつかいですか?」
「よせやい、子供じゃないんだから……」
開いたドアの向こうから現れたのは、いかにも警察官、というオーラをまとった、紺のスーツ姿の若い男性だった。
「おや、一人多い。ああ、新学期だもんな。新しい仲間ってわけか」
「そういうわけです。あ、放送切れてるから気にせんでください。とりあえずまあ、駆け付け一杯……」
すすめられるままに座布団へ腰を下ろすと、相手はこちらに頭を下げ、日下先輩から受け取った麦茶で軽くのどを湿らせた。
「はじめまして、下鴨署の克美といいます。この二人には『ダンナ』なんて呼ばれてるけど……まだ三十にもなってません。ひとつよろしく」
「あ、どうも……一回生の戸村です」
小ぶりなリーゼントスタイルにまとめた髪で、いかにも体育会系、という細マッチョの克美刑事に挨拶を返す。そんなこちらをよそに、すぐそばでは再び定位置に収まった日下・近江の両先輩が何やら打ち合わせをしていた。
「ダンナ、いったん告知だけして、すぐ放送を切ります。そしたらすぐにクギチョウさんとこ行きますから、よろしく頼みます」
「わかった。じゃあ、しばらく静かにしてるとしよう」
克美刑事ともども、イヤホンをはめて様子を見ていると、BGMのボリュームが下がった。配信の画面も、普段のものへとスライドして切り替わる。
「えー、長らくお待たせをいたしました。最初からいらっしゃる方も少ないことと思いますがつい十数分前、放送中のマイクが偶然、バイクによるひき逃げ事故の生の音を拾い上げました。残念ながらあっという間の出来事のため、まだ犯人の行方もわかっておらず、おそらく近隣の病院へ担ぎ込まれたであろう被害者の方の安否もわかっておりません。さて、我がラジオKINKIの古くからのリスナーの方々はよくご存じと思いますが、以前我々はひょんなことから刑事事件の解決に一役買い、以来何かとお巡りさんには目をつけられ――いや、一目置かれておる存在なわけであります。ついてはこれから、すぐ近くまで来ておられるでありましょうその懇意の警察関係の方々に、さきほど拾い上げたバイクの音のデータなどを提出、証言する必要が出てまいりました。本当ならこっからが最高潮に盛り上がるはずでしたが命には代えられません。ひとつ皆様、その旨ご承知の上で、今夜はこれにてお別れといたしたく存じます……さいなら、さいなら、さいなら」
一気呵成に淀みなく、台本もなしで語り上げる日下先輩に見入っていると、本来ならエンディングテーマと一緒に表示されるはずだった「次週へ続く」というエンドカードが出て、配信が切れた。向かいに座っていた近江先輩は、トラブル続きで緊張の糸が切れたのか、ぼんやりとした顔で肩をすぼめている。
「さすが放送研、ソラで読むのはお手の物か」
乾いた拍手を送る克美刑事へ、まあねえ、と日下先輩は笑って答える。
「そいじゃあ、言葉通りに証言しましょ。あと、音声の方も……。そっちの準備をしてますから、今のうちにクギチョウさんのとこへ戻っててください。――あ、そうだ」
ノートパソコンへ手を伸ばしかけていた日下先輩が、慌ててその場から離れた。そして、壁にからげた肩掛け鞄の中をあさると、水引の模様を刷り込んだぽち袋を私の手へとのせた。
「ごめんなあ、えらいことに巻き込んじゃって。これでなんか、甘いもんでも飲んで帰りな」
「え、そんな……」
季節外れのお年玉をもらったような気分で面食らっていると、出る支度をしていた克美刑事がもらっときなよ、とそっと声をかけてきた。
「なんせいつかと違って、今度は人命も関わってくるからなあ。事情聴取も、それなりに長引きそうだし……ラーメンでも食って、あったまって寝たほうがいいぜ。まだまだ寒いしさ」
「は、はあ……」
克美刑事の言い分をあしらうだけの理由も出ず、結局私は先輩二人に引っ付いてアースマンションを出た。そして、USBを後生大事に胸ポケットへ入れた日下先輩が、近江先輩ともどもパトカーに乗り込んで下鴨署へ戻るのを、血痕も生々しい十字路の隅でぼんやり、眺めていたのだった。
このお話はフィクションですが、下鴨署は実在する所轄警察署です




