第7話 十メートル
女王が岩の床をけった。
岩の巨体がまっすぐ突っ込んでくる。
「跳ぶわよ!」
リタが地面をけって右へ跳んだ。ふわりと宙を舞い、壁ぎわの岩棚に飛び乗る。
俺は左へ転がって大きな岩の陰に飛び込んだ。笑う膝をむりやり動かして。
すぐ横を女王が駆け抜けていく。地面が揺れて天井から砂がこぼれ落ちてきた。
左の手首で何かがちかちかと光っている。
腕輪が点滅していた。
離れかけると、点滅します――審判のあと係官がそう言っていた。岩棚のリタまではどう見ても十メートル以上ある。離れすぎた。
女王は奥の壁ぎわから離れ、岩場の入り口の側まで駆け抜けてから、足を踏ん張って向きを変える。
岩の板に覆われた頭が俺のいる岩のほうを向いて、止まった。
燃やされたのを覚えているらしい。
「止ま――」
言いかけて口をつぐむ。今の俺の言葉はただの声だ。
力の使えない俺は元作業員にすぎない。運んだことのある岩食いはどれも死んでいた。
女王が頭を下げる。
俺は岩の陰から飛び出した。直後、俺が隠れていた岩に女王の頭がめり込んで、まっぷたつに割れる。
俺は走った。リタのいる岩棚のほうへ。後ろから岩を踏み砕く音が追ってくる。飛んできた岩のかけらが耳のそばをかすめていった。
「こっち見なさいよ、デカブツ!」
リタが岩棚から飛び降りた。軽々と宙を渡って俺の頭の上を越えていく。
追ってくる音がぴたりとやむ。思わず足を止めて振り返った。
リタが降り立ったのは女王の横腹のすぐそばだった。
リタのやつ怖くないのか。岩の脚が一本でも動けば踏みつぶされる近さだ。
「伏せ!」
リタの手のひらがぐっと押し下げられた。
今度は効いた。
女王の四本の足が、がくんと折れる。腹が岩の床を打ってどすんと岩場が揺れた。
近いほど強い。リタは自分から女王の懐に飛び込んだのだ。
腕輪の点滅が止まる。十メートル以内に戻ったらしい。
俺はリタの斜め後ろに駆け寄った。女王は腹を床につけたまま足で床をかいている。重さで床から足が上がらないらしい。前歯が岩の床をばりばりとかじる。
リタの右腕は小刻みに震えていた。首すじに汗が光っている。
リタの左の前腕のスマホがちょうど目の前にある。
>リタちゃん近すぎ
>危ないって
>あれ押さえてんの⁉
「こいつ……押し返してくる……!」
女王の背中がぐぐっと持ち上がりはじめる。リタの重さを力ずくで押しのけようとしている。
――重さが消えたのは、崩落の日の「浮け」と猫の時の「当たれ」。どっちもリタとは別のことを命じた時だった。
同じ向きの「止まれ」なら、ぶつからないかもしれない。
迷っている暇はなかった。
「止まれ」
女王の動きが一瞬だけ止まった。
次の瞬間リタの腕の震えがふっと消える。
重さが、消えたのだ。
俺の「止まれ」も、もう効いていない。これほど大きな相手には、俺の言葉だけではひと息ももたないらしい。
女王が跳ね起きた。
「きゃっ⁉」
岩の鎧の頭がリタめがけて振り下ろされる。リタはとっさに後ろへ跳びのいた。俺も転がるように下がる。前歯がリタのいた場所の岩をえぐった。
リタが俺の前に降り立つ。
「ちょっと! なんで消えるのよ⁉」
「俺のせいだ。あとから俺が言うと、何を言っても、お前の重さが消える」
「はあ⁉ 何よ、それ!」
俺にもわけは分からない。
――だが猫の時。
割れ目から飛び出してきたこむぎに俺とリタは同時に言った。あの時こむぎは置物のように止まった。
あとからでなく、同時なら。
女王が頭を低くする。前足を折り曲げてこちらへ突っ込む構えだ。
「リタ! 同時に言え! 猫の時みたいに!」
リタがはっと目を見開いた。
「――分かった!」
女王の後ろ足が床をけった。
「止まれ!」
「止まって!」
二つの声が重なった。リタの右手は女王を押さえつけるように下を向いている。
女王が、止まった。
前足を折り曲げ、頭を低くした構えのまま。岩の巨体がぴくりとも動かない。
膝が、がくりと沈んだ。二度の「止まれ」で残りはもういくらもない。
猫の時もすぐに解けた。急がなければ。
その構えのせいで首のつけ根の背中側が、俺の頭より少し高いところにある。手を伸ばしても届かない高さだ。そこも分厚い岩の板に覆われていた。
鎧の板なら見えている。だがあの厚い岩を砕けば俺の魔力はそこで尽きる。その下の魔石までは、もたない。
「首のつけ根だ! あの鎧の下に、魔石がある! けど、見えなきゃ――」
「見えればいいのね?」
リタが跳んだ。
ふわりと宙に浮いて、下がった女王の頭にとんと降りる。そこから首へと駆け上がり、つけ根の岩の板に右の手のひらを押し当てた。
「伏せ……!」
リタの声がかすれる。
手のひら一つぶんに、ありったけの重さを集めているのだろう。押し当てた腕が肩まで震えている。
ぴしりと。
岩の鎧に、ひびが走った。
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