第18話 浮け
「権藤さん、上だ!」
悲鳴と鉄のきしむ音で自分の声さえろくに聞こえない。
舞台の上の権藤は、幕の前に散らばった殻をまだ見下ろしている。顔を上げる気配もない。
枠はゆっくりと傾いていく。横木から張り出した腕の先で照明がぶらりと揺れた。どれもバケツほどもある鉄の筒だ。
倒れれば横木は舞台の前のふちを打ち、腕の先の照明は客席の一番前の列まで届く。権藤の立っているところはその真下だ。一番前の列にも逃げ遅れた客が何人か、倒れた椅子の陰にうずくまっていた。
俺は舞台の右の端の前の床にいた。枠の倒れていく先からは外れている。
枠を見上げた。舞台の両端の脚からてっぺんの横木までまるごと目に収める。
「浮け」
傾きがほんの一瞬だけ鈍った。
それきりだった。鉄の枠は何事もなかったようにまた前へ傾いていく。
体の芯がひと息に冷えた。鉄骨の脚が二本に、横木と、何本もの腕と照明。大きくて硬いものばかりで、俺一人の言葉ではとても持ち上がらない。
「私が軽くする。あんたは浮かせなさい」
リタが俺の横に並んだ。目はもう枠を見上げている。
「あとから言ったら、お前のが消える。同時だぞ」
「分かってるわよ!」
「せえの、で合わせろ」
重いものを二人で持ち上げる時の現場の掛け声だ。岩を積んだ台車の前で何千回と口にしてきた。
「せえの――」
「浮け!」
「軽く!」
二人の声がぴたりとそろった。リタの右手が下から大きく枠をすくい上げる。上を向いた手のひらが肩の高さで止まった。
ぎしぎしと鳴っていた鉄が静かになる。
傾きが、止まった。
それから枠が浮いた。
脚の根もとで岩に残っていたボルトの先がずるりと抜ける。二本の脚が鉄の板ごと床を離れた。門の形をした鉄の枠が傾いたまま、まるごと人の腕の長さほど宙に上がっていく。
横でリタが歯を食いしばっていた。肩の高さで止めた手のひらが小刻みに揺れている。
崩落の日、俺の「浮け」とリタの「伏せ」は引っ張り合いにしかならなかった。同時に同じ向きへ命じればこれだけの鉄が浮く。
だが体の芯の冷えはもう胸まで広がっていた。長くはもたない。
権藤がようやく顔を上げた。
頭の上に浮かんだ鉄の枠を見上げて、それからこっちを見る。測定器の画面を見る時のあの目ではなかった。
「何ぼさっとしてんのよ! 早くどきなさい!」
枠を見上げたままリタが怒鳴る。
権藤の足がもつれながら舞台の袖へ向かう。一番前の列ではニールが盾をかざして、うずくまっていた客たちを押し出していた。料理配信者も年配の客を肩に担いでそのあとに続く。
枠の下から人の姿が消えた。
見届けたとたん膝から下の感覚がふっとなくなった。
膝が岩の床を打つ。
枠が、落ちた。
鉄の枠は、浮いていた分の勢いまでつけて前へ倒れ込んでいく。横木が舞台の前のふちを打ち、腕の先の照明が一番前の客席へ次々に打ちつけられた。ガラスの割れる音。折りたたみの椅子がまとめてひしゃげる。
舞い上がった土ぼこりの向こうで、前のふちからずり落ちた横木の端が俺の数歩横に転がっていた。
舞台の袖の階段の下に権藤が座り込んでいる。手すりにすがったまま顔は紙のように白い。だが、けがはなさそうだった。
「無資格!」
肩をつかまれて乱暴に揺すられた。そのはずみでリタの左の前腕の画面が目の前に来る。
>浮いた⁉
>枠浮かせたぞ今
>権藤逃げた
>十回落とした相手を助けるのかよ
>同接130万
「……生きてる」
声がかすれた。体の芯が指の先まで冷えきっている。
ばきりと舞台が鳴った。
幕の下からまだガリガリと音がしている。子たちは舞台の脚の根もとの岩までかじっていたらしい。前のふちを横木に打たれた舞台が、まん中からゆっくりと沈んでいく。板が裂け、黒い幕が引きちぎられて床に落ちた。
板の下の音がふっとやんだ。
舞台の下が見えた。
斜めに落ちかかった板に押されて木箱のふたが裂けている。ふたの合わせ目には、ちぎれた本部の封。横腹には音響の機材、の字。班長の言っていた箱だ。その横腹の板にも内側から破られた大きな穴が開いていた。
裂けたふたのすき間から、青白い光が八つほど身を寄せ合うようにのぞいている。
二十八のうち、かえったのが二十匹ほど。残りはまだあそこにある。
殻の一つにぴしりとひびが走った。中で影がもがいている。ぴいと、か細い声が漏れた。
見えないものには命じられない。卵がこの下にあると分かっていても、舞台の上の俺には何もできなかった。
今は、見えている。
膝をついたまま八つの光を端から順に目でたどった。かえれば、あれも岩をかじる。人の足もとの岩を。
「……砕けろ」
八つの殻にいっせいにひびが入った。一拍おいて中の影ごとぱらぱらと崩れ落ちる。青白い光が一つ、また一つと消えていった。
かわりに体の芯に最後に残っていた熱が、ごっそりとさらわれていく。一つ一つは小さくても八つだ。床についた両手が、がくがくと震えた。
前のめりになった背中を後ろからリタの手が支えた。
「まだ倒れるんじゃないわよ」
「……倒れてない」
大きな画面のほうで白い光が走った。
「これで、最後ですわ!」
エリザの声だった。岩をかじっていた最後の一匹がひっくり返って足を縮める。
悲鳴が少しずつやんでいく。入り口のほうのざわめきだけが遠くに残った。
沈んだ舞台の裏手から作業着の男が駆けてきた。首にかけたタオルに、日に焼けた顔。
「黒瀬! 無事か!」
班長だった。式典が始まってからも班の者と舞台の裏に詰めていたらしい。
俺がうなずくより先に班長は、割れた板のすき間に体をねじ込んでいた。舞台の下の隅のほうへ。
鉄のこすれる音がして班長が後ずさりで出てくる。両手で引きずっているのは一抱えほどもある鉄の道具箱だった。ふたは少し開いたままになっている。
「式典が済むまで、こいつは出せねえと思ってたがな」
班長は沈んだ舞台をあごでしゃくった。
「舞台のほうが、先に終わっちまった」
ふたのすき間に丸い機械の背がのぞいている。人が動いた時だけ録る、エリザの予備のドローンだ。
当日は、朝から温める――あの夜、調査班の男はそう言っていた。
けさこの舞台の下で卵を温めたのが誰なのか。その答えが、この箱の中にある。
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