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「それでお前は、俺に領主を辞め、この町を去れというのだな?」
確認するように、一言一言を噛み締めながら問うた旦那様の声は、僅かな怒りと、それを塗り潰して余りある疲れに満ちていた。
……恐らく、旦那様も自分が今後どうするべきか、一人で何度も考えていたのだろう。
そしてそのどうするべきかの一つには、この町を去るという選択肢も、きっと含まれていた筈だ。
けれども旦那様は、それを選べなかったのだ。
「その通りです。旦那様」
私は旦那様の問い掛けに、是と返す。
だからこそ、選べなかった選択を突き付けるのは、竜の家令である私、セバスチャンの役割だった。
「……それは俺がいると、争いを呼ぶからか?」
しかし旦那様には、少し悪い受け取られ方をしたらしい。
心の疲れからか、些か疑心暗鬼に陥られている様子。
普段の旦那様なら、私が、セバスチャンが自分を排斥しようとしているなんて考え方はしないのに。
「いいえ、違います。旦那様がいようがいまいが、人は勝手に争う生き物です。いえ、人に限らず殆どの生き物は、そうなのでしょう」
でも、仕方あるまい。
あの戦いで、旦那様は本当に多くの人間を殺さねばならなかった。
旦那様の背に乗っているだけの私ですら、あまりに多くの死を見過ぎて、心に暗いものが入り込みそうになったくらいだ。
その影響を振り払えたのは、その場に私よりもずっと心が傷付いている旦那様が居たからに他ならない。
私などよりもずっと人間という存在を愛していて、なのにそれを踏み潰し、吐息で焼き、殺し尽くさなければならなかった、我が主が。
「但し旦那様がいると、その勝手な争いに巻き込まれる事は確実です。竜という存在は人が無視できぬ程に強大ですので」
そこまで、旦那様が人間を深く愛したのは、このロワイスと共に過ごした二百年の成果だろう。
これをロワイスの民と、代々のセバスチャンは誇るべきだ。
だがその愛情故に、旦那様が心に傷を負った事は、我等にとっても悲劇であった。
「私は、その勝手な争いで旦那様が心を痛める事を望みません」
これ以上、旦那様の心に傷を負わせない。
その為にできる事は一つしかない。
ロワイスやセバスチャンという、旦那様が大事に抱えた荷を取り除く。
竜と人間との関係を、断って終わりにする事だ。
「だが俺が居なければ、このロワイスはどうなる? 民の暮らしは上に立つ者に大きく左右される。俺の次にここを治める者が民を虐げるものならば、皆はどうなる?」
連ねた言葉に旦那様の表情は柔らかくなったが、それでも首を横に振った。
ロワイスの民を案じるが故に。
……確かに、民の暮らしは領主次第で大きく変わる。
王国で最も栄えた都市といわれるこのロワイスの領主が不在となれば、欲に駆られた者がその地位を狙う筈だ。
このロワイスでは、領主である旦那様がこれまで熱心に政治に関わるというスタンスではなかった為、代行であるセバスチャンと文官衆で統治を行う仕組みが出来上がっていた。
なので次に悪心を抱く領主がやって来たとしても、それに抵抗する余地は大いにある。
だがそれでも、あぁ、やはり民の暮らしは今よりきっと悪くなるだろう。
旦那様は領主として、理想的だったから。
あまり政治には関わらなかったが、それでも人を見る目を持っていて、適した者にそれを任せる事ができた。
贅沢を好む性質でもないから、民に過度な税を押し付けようともしない。
寧ろ、旦那様が金を使わなさ過ぎるから、溜め込んだ財が死に金とならぬように、何だかんだと理由を付けて使わせる必要があった程に。
そして何より、そうした領主がずっと変わらずに上にいるという安心感は、このロワイスでしか得られぬものだ。
どんなに優れた領主の下で暮らしていても、次代が不出来ならば自分達の生活は振り回される。
これまで、ロワイスではそうした不安とは全く無縁だったから。
故にロワイスはここまで発展できたし、ここに住む民は皆が幸せだった。
けれどもその幸せは、決して当たり前のものではない。
竜という存在が物好きにもロワイスに居続けてくれたからこそ、得られたものだ。
「長く俺の我儘に付き合って、皆で育てたロワイスを、そこに暮らす民を、俺の身勝手で放り出すなんて真似ができる筈がないだろう」
単にロワイスの事のみを考えるなら、旦那様の責任感と愛情に浸け込み、ここに留まって貰うのが、或いは一番なのかもしれない。
……しかし私はもちろん、多くのロワイスの民も今の旦那様の現状を知れば、それを望みはしない筈。
何故ならこの二百年で、旦那様が人間を深く愛したように、ロワイスの民も竜という存在に親しみと愛情を抱いたから。
もし仮に、最初に旦那様が誤解していたように、竜の存在が戦いを呼ぶのが問題だったなら、ロワイスの民はそれに付き合っただろう。
元は百人程度しかいない村だったのが、竜の存在によってその何百倍以上に増えたのだ。
流石に元の百人に戻るまで命を捧げるとは言わないが、戦いでの犠牲を過剰に厭いはしない。
でもその犠牲こそが竜を苦しめてしまうと、竜が人間への愛情故に苦しんでいると理解すれば、自分達の為にロワイスに縛り続けたいと思う民は、……もちろん一人もいないとは言わないが、殆どいない筈である。
「いいえ、旦那様。だからこそ、セバスチャンがいるのです」
だからこそ、今の代のセバスチャンである私が、この問題を解決しよう。
私が思うにセバスチャンとは、竜にはどうにもならない問題を代わりに解決する人間を示す言葉だから。
「旦那様が最初に選んだ、初代のセバスチャンはいつかこの時が来る事を予想していました」
私はそう言って、内ポケットから一冊の手帳を取り出す。
装丁は古めかしく、次代を感じさせる代物なのに、少しもくたびれたところがなくて、まるで新品のようにも思えるその手帳。
「これは、その時が来るまで旦那様には存在を秘密にしろと言われたセバスチャンの証、セバスチャンの手引き書です」
そう、これがドヴェルグが作ったというモノクル、決して傷付かぬ不壊のペンに続く、三つ目のセバスチャンの証だった。
ペンと同じく決して朽ちず壊れぬ竜の魔法が掛けられた、一冊の手帳。
但しペンとは違ってこの手帳の本当の価値は、掛けられた魔法ではなく、その中身にこそある。
「初代が作成し、代々のセバスチャンが自らの経験上、必要だと思った事を書き足していく、未完成の書」
ここには代々のセバスチャンの全て、とは言わずとも、彼らが重要だと考えた己の一部が詰まってた。
そして今、旦那様が置かれた状況を解決する為のページも、この中には存在している。
「そこにはこう記されたページがあります」
私は旦那様に開いたページを向け、何度も読んで、既に暗記してしまったその文を読み上げる。
『百年先か、二百年先か、それともひょっとしたら千年先か、いずれにしても、人と竜の関係も、何時かは必ず終わりが来る。
これは悲観ではなく、単なる事実だ。どんな物事であっても、終わりのないものはない。
しかし竜は、なんだかんだと情けの深い奴だから、自分からはロワイスを放り出せんだろう。
だから終わりの時は、その時のセバスチャンが決めよ。人と竜との関係が終わる時、そこがまだ王国の一部であったなら、その為の方法は用意しておく』
……そこから先は、跡取りの居ない貴族が後継者を指名する王国法の条文と、その詳しい手続きが記載されている。
何でも初代と二代目の頃に密かに王家に働きかけて、竜からロワイスを人の手に引き継ぐ法律を、王国法に捻じ込んだという。
ご丁寧にその為の手続きの書類に、当時の王の印が押されて保管もしてあった。
つまりこれを提出すれば、合法的にロワイスの領主の地位は、セバスチャンへと引き継がれるのだ。
私は、そこから更にページを二枚捲った。
ここからは、初代が旦那様へと残したメッセージが記されている。
恐らくセバスチャンの手引書の存在を旦那様に隠すようにと初代が指示を出したのは、その時が来るまで、このメッセージを知られたくなかったからだろう。
『竜よ。我が主よ。今も貴方の傍にセバスチャンを名乗る人間がいるのなら、きっと貴方はロワイスを善く治めてくださったのでしょう。
深く感謝を致します。しかしこれを貴方が目にしているなら、竜と人との関係に終わりが来ているという事です。
何があってそうなったかは、私にはわかりません。けれどもその判断をしたのは、私と同じセバスチャンです。
それが貴方の為の判断であると、私は疑いません。
ですから、お疲れ様でした。ありがとうございました。
貴方と共に歩いた今のロワイスの姿を見られぬ事は、少しばかり残念です。
しかし貴方と共に歩いたロワイスは、きっと私の誇りです』
とはいえ、初代からのメッセージは別に大した内容じゃない。
この時までロワイスの領主を務めた旦那様に対する、労いと礼の言葉。
確か初代のセバスチャンは、開拓したばかりのロワイスの村長だったというから、その役目を旦那様に背負わせていた事に、何かしらの想いがあったのだろう。
「……あやつは変わらんな。いや、変わらんというのも違うのか。もう、あやつはおらんのだ。ははは、なんと言っていいのか、俺にもさっぱりわからん」
私が読み上げたメッセージを聞いて、そう言った旦那様の顔は、泣いているような、笑っているような、それなりに長く仕えている私にも判断の付かない表情だった。
私は、そのまま控えて、旦那様の言葉を待つ。
暫くの間、もとい、かなり長く、旦那様は目を閉じて考え込んでいた。
或いは、これまでの事を思い返していたのかもしれない。
けれどもやがて目を開くと、
「わかった。後の事はお前に任せる。……頼めるか? 我がセバスチャン」
席を立ち、そう言った。
あぁ、これで終わりか。
自分から提案した事とはいえ、そう考えるとやはり胸が苦しくなる。
だが私は胸に手を当て、頭を下げた。
ただ、後一つ、一つだけは、伝えたい。
「旦那様。これで私とは、お別れかもしれません。ですが何時か、人間が竜という大きな存在にも振り回されぬ強き種になれた時、再びお戻りくださり、我らと共に歩んでいただける事を、心よりお待ちします」
これは初代の意志とは無関係に、私が思う事で、私の願いだ。
初代が二百年先の未来を見通して、終わりの準備を用意していたなら……、私は、そう、いつか来る日の為に、再会の準備を整えよう。
旦那様の存在が、ロワイスで忘れてしまわれないよう。
その日が来る事を、ロワイスの皆が心待ちにできるよう。
私は旦那様の二百年を、物語にして、絵本にして、おとぎ話として、この町に残す。
城を出て、飛び去っていく大きな影が、再びこの地に舞い降りる日の為に。
竜とこの町のお話を、竜と家令のお話を。




