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海霧の中の奇兵隊 ―対米戦争を回避せよ。死んだはずの高杉晋作と乃木大将の隠し遺書―  作者: 吉田梅之助
第二部 Ⅰガリポリ編

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第百十九話 混じり合う谷

「鵜飼軍医。遺体一体につき、石灰はどれだけ要る」

「青島(チンタオ)では、両手で三杯でした」鵜飼は、掌を山にして掬う形を作ってみせた。「埋めた上から撒いておけば、ハエが減ります。匂いも落ちます」

 真崎勇気は、帳面に鉛筆を走らせた。持ってきた石灰は、樽で十六。掛けて、割る。

「四百体ぶんだ」

 鵜飼が、斜面のほうへ目をやった。

 五月十九日の未明、中央同盟国のオスマン軍は四万でこの斜面を登ってきて、登りきれずに倒れた。三千が、こちらの塹壕と向こうの塹壕のあいだの、どちらの側でもない帯にそのまま残っている。


 今朝、六段目の掘り抜きから透明な水が噴いて、オーストラリアの兵が列を作っていた。その列のところまで、斜面から匂いが下りてくる。


挿絵(By みてみん)


「取りに行けないのですか」

「出れば撃たれます。向こうも同じです」ケナード中尉は、丘の稜線に立った旗を指した。白地に、赤い三日月。「あれは赤新月、向こうの赤十字です。死体を片付けたい、という意味ですが、うちは取り合いませんでした。信じて出た者が一度でも撃たれれば、次はもう誰も出ません」

「では、こちらから申し入れれば」

「申し入れました。この谷の前の五十メートルぶんだけ回収させてくれ、と」ケナードは帽子を脱いで額を拭った。「断られました。片付けるなら全部だ、と」


「困っておるのは、向こうだ」

 郷田龍一郎中佐が、いつのまにか後ろに立っていた。

「三千のほとんどは、向こうの兵だ。向こうは、帰ってこない兵の数をちゃんと数えとる。谷全部で、両軍一緒に片付けようと言い直せば、乗ってくるはずだ」


「ケナード中尉」鵜飼が言った。「腹を下す者を、十八日から数えてもらっていましたね」

「十八日が百二十。昨日が二百六十です」

「あと五日で、また倍になります」鵜飼は斜面を指した。「あれを片付けん限り、うちの兵は減り続けます。死体はハエを呼ぶ。ハエは、死体にたかったその足で、兵の飯や水筒の口にとまる。それを口に入れた者が腹痛を起こし、下痢で体の水が抜けて、三日で立てなくなる。……弾ではなく、腹を下して、です」


 真崎は、それきり斜面から目を離さなかった。

「少佐殿。何を見とられるんです」井坂徹中尉が聞いた。

「あの窪みだ」真崎は、斜面の三分の一、左寄りを顎で示した。「機関銃の弾は、あの窪みの上を素通りする。だから十九日の晩、向こうはあそこに兵を溜めて、息を整えてから飛び出してきた。そこへ山砲を落とした」

「あれで、次の波が出てこんようになりましたけぇのう」

「だが、あれは照明弾の光で数えただけで、歩いて測ったわけではない。次も当たるとは限らん」

「歩くわけにもいきませんしのう」

「あそこを歩いて測れれば、それで済むのだがな」


   *


 井戸掘りの場所を探して回るうち、岩陰の小さな浜に、覆いを掛けた荷が四つ並んでいるのを見つけた。覆いの下から、砲身の口が出ている。日本の刻印があった。

「日本の臼砲(きゅうほう)ですよ」ケナードが言った。「七・五センチが四門と、弾が二千発。注文したのはうちで、二十日に着きました」

 臼砲は、太く短い筒から弾を山なりに高く打ち上げて、真上から落とす砲である。まっすぐ飛ぶ野砲の弾が届かない塹壕の底や窪みの中へ落とせるかわりに、遠くへは飛ばない。

「……聞いておりません」

「英軍が発注したものですからね。撃つ場所が決まっておらず、まだ使えていないのです。届くのは三百六十メートル――四百ヤードまでですが、その中に何があるのか、誰も把握できておらんので」

 自分の国の砲が、自分の知らないうちに、自分より先にここへ来ている。そして、撃つ場所が無い。


 二日後の夜、ケナードが走ってきた。

「決まりました! 両軍の遺体回収のための休戦です! 明日、七時三十分から十六時三十分までの九時間です!」

 言葉の通じない両軍の軍医が、谷の真ん中で紙に数字を書いて渡しあい、それでようやく決まったのだという。

 ケナードが読み上げた取り決めは、短かった。両軍の監視員が白旗を持って無人地帯の真ん中に並び、その列を境界線とする。死者は境界線まで運んで、それぞれが自国の者を引き取る。


「撃たない、という保証は……やはりないですよね」

「ありません。あるのは紙が一枚だけです」ケナードは言った。「ですが、大丈夫です。向こうの死体が、こちらの側に三千ある。一発でも撃てば、あの三千は永久にあそこへ置かれることになる。破って得をすることが、どちらにも無いのですよ」


   *


「中隊長殿が、監視員に立たれるのですか」

 曹長が、白い布を差し出しながら言った。

「立つ」セリム大尉は言った。「十九日に丘を登った百四十一人のうち、戻ってきたのは六十三人だ。残りの顔を、見ておく」


 五月二十四日の朝。同盟国オスマン軍の塹壕では、死体を片付けるための九時間の休戦を前に、兵が腕に白い布を巻いていた。

「それから、曹長。師団長殿からの命令だ」セリムは声を落とした。「埋めるついでに、向こうの陣地をよく見ておけ。とくに、水を汲む場所だ」

「水、でありますか」

「あの斜面の上で、一万七千が何を飲んでいるのか。こっちは、まだ一度も見たことがない」

「休戦のあいだに、そんな……」

「向こうも同じことをする」セリムは言った。「死体を運びながら、こっちの塹壕を数えるだろう。休戦というのは、そういうものだ。……師団長殿も今日は一日、稜線の上から見ておられるそうだ」

 曹長は少し黙ってから、自分の腕に布を巻いた。

「少尉殿は」

「まだ、見つかっておらん」セリムは、布の端を歯で引いて結んだ。「……今朝の点呼は、俺が数えた」


   *


 ――ピィーッ!


 七時三十分、谷に笛が鳴り響き、撃つ音が止まった。残ったのは、風の音とハエの音だけである。

「……静かですのう」井坂が言った。

「こんな静けさは、一ヶ月ぶりだ」ケナードが言った。


 白い旗を持った者が塹壕を出て、無人地帯の真ん中へ歩いていく。こちらから五十人、向こうからも同じ数。向かい合って立った二人ずつが、境になる。

 真崎は、その間隔を歩測しはじめた。

「おい、マサキ! 何やってんだ?」肩に包帯を巻いたラフティ軍曹が聞いた。

「間隔を測っております。九十メートル――百ヤードごとに一人です」

「……とんだ測量マニアだな、あんたは」


 日本の作業隊が二個中隊、石灰の樽とシャベルと担架を担いで斜面を上がってきた。

「後ろの道具ひとそろいか。いつ頼んだんです?」ケナードが聞いた。

「十九日です」

「……休戦が決まったのは昨日だぞ」

「決まらなければ、井戸掘りにでも道の整備にでも使えます」


 日本の兵が二人、担架の両端を持って、最初の一体にかがみ込んだ。

「せぇのッ!」

「おおっとォッ」「うわぁ!」

 担架が落ちた。二人が背中合わせに持って、それぞれ反対へ進もうとしたのだから当然である。

「貴様らァ!」上官らしき男が怒鳴った。「ふざけとるのか!」

 向こう側からオスマン兵の笑い声が上がり、こちら側ではアンザックの連中が腹を抱えている。顔を押さえた真崎の肩に、ケナードが手を置いた。

「撃ち合いの合間に、笑いをくれたのです。あとで褒めてやってください」


 二人はようやく向きを直して、今度はきちんと肩と膝の下へ手を差し入れ、持ち上げた。

 その途端、遺体が形を失った。五日のあいだ、昼は陽に焼かれ、夜は冷やされてきた体である。持ち上げた肩と膝のあいだで、腹のあたりが沈み込むように崩れ落ちた。

 笑い声が止んだ。


「持ち上げるな!」

 ラフティが、毛布を一枚、遺体の脇に広げた。

「五日も経ったやつは、二か所で持つと割れちまう。下から、まるごといっぺんに支えるんだよ」

 遺体の側面からシャベルを二枚差し込んで、そのまま横へ転がし、毛布の上へ移す。四隅をくるんで、四人で担架に載せる。大柄な男にしては美しい手際で、遺体はどこも崩れなかった。

 日本の兵が同じようにやりはじめると、運ぶ速さが目に見えて上がった。


「少佐殿。さっきから、口が動いとりますが」井坂が言った。

「歩数を数えておる。今日しか歩けんからな」


 斜面の三分の一、左寄り。十九日の晩に窪みがあると言った場所である。行ってみると、窪みは確かにあったけれど、真崎が告げた位置より三十メートルほど手前だった。

 毛布の端を持ち直して、また数えながら運ぶ。窪みの深さ、谷筋の折れ方、稜線の裏へ抜ける道の幅。書けば向こうから見えるので、帳面には書かずに、頭に入れておくだけにした。


「真崎。貴様、測っておるな」郷田が、斜め後ろを歩きながら言った。

「測っております」

「向こうも測っておるぞ」郷田は顎で境界線の向こうを示した。「同じ動きをしとる奴が、三人おる」

 真崎は、境界線の向こうの、さらに上を見た。

 稜線の上で、何かが一度だけ光る。双眼鏡のレンズが、朝の日を拾ったのだろう。

「……四人目は、稜線の上ですな」真崎は言った。

 光は、それきり見えなかった。


   *


 午後、境界線の上で、煙草が一人に二箱ずつ配られた。

「一箱は、向かいに立っているオスマン兵に渡せ、ということです」ケナードが言った。

「……自分は、吸わんのですが」井坂が言った。

「渡すためのものです。吸わなくても構いませんよ」


 郷田が、線のところまで歩いていった。

 向かいに立っていたのは、四十くらいのオスマンの将校だった。襟が汚れていて、右の袖に血がついているが、自分の血ではないらしい。さっきから、境界線まで運ばれてくる遺体の顔を、一つずつ確かめていた男である。

 郷田が箱を差し出し、将校が受け取って、自分の箱を郷田に渡した。二人とも、何も言わない。


 将校は、それから真崎のほうを見た。日本の軍服を、上から下まで見ている。

「Japon?」

 真崎は頷いた。

 将校は少し考えるような顔をしてから、言った。

「Admiral Togo――東郷元帥」

 真崎は、何と答えていいか分からなかった。

 将校がフランス語で何か続け、ケナードが訳した。

「十年前、うちの近所の男の子はみなトーゴーと名付けられていた――と言っています」

「さすが世界の東郷元帥だなぁ」郷田が、初めて口を開いた。「……陸の将の名は、知れ渡っておらんか」

 真崎は、それは訳さなかった。


 将校は煙草の箱を懐へしまうと、今度は真崎に向かって、ゆっくりとしたフランス語で言った。ケナードが、少し間を置いてから訳した。

「左の窪み――斜面の三分の一のあたりに倒れていた者たちは、もう運んだか、と」

「運びました」真崎は言った。毛布の端を、自分で持ったのである。

「若い少尉が一人、いなかったか。背が低くて、髭の薄い男だ。手帳を握っていたはずだ、と」

「……分かりません。顔は、もう」

 ケナードがそれを訳すと、将校は短く頷いた。それから、また何か言った。

「あの窪みには、機関銃の弾は届かない、と言っています」ケナードの声が、少し低くなった。「あそこに倒れていた者は、みな砲弾で死んでいた。……あの窪みがあると知っている者が、そちらにいたのだな、と」


 真崎は、何も言わなかった。

 十九日の夜、照明弾の光の中で窪みの距離を数え、インドの山砲へ送ったのは、自分である。


 将校は答えを待たなかった。

「名前を聞いても」真崎は言った。ケナードが訳す。

 将校は少しだけ口の端を上げて、短く答えた。

「名乗るほどの地位ではないが……セリムだ、と」

「真崎です」

 セリムは、その名を一度口の中で転がすようにしてから、頷いた。


 真崎は、そこで振り返った。

 境界線からは、自分たちの側が見える。段が七つ。土嚢の継ぎ目。機関銃を据えた窪みが二つ。そして六段目の脇に、水を汲む列。一ヶ月のあいだ、こちら側の誰も見たことのない角度である。

 セリムも、同じ方向を向いていた。真崎の側を、上から下まで見ている。

 目が合った。セリムは小さく頷いて、それから、また遺体の顔を確かめる仕事へ戻っていった。


「井坂中尉」鵜飼が言った。向かいの兵から干したナツメヤシを一連もらってきた井坂が、それを口に入れたところだった。「手を洗ってください」

「水が、もったいないんじゃ……」

「今日、手を洗わなかった者が、来週死にます」

「……洗います」


 休戦の終わる少し前、真崎は塹壕の縁に腰を下ろして、封筒を一枚使った。

 ――今日は一日、静かでした。向こうの兵と、煙草を換えた者がおります。

 ――そちらは、そろそろ衣替えのころでしょうか。

 封をすると、四十四枚が残った。


   *


 ――ピィーッ!


 十六時三十分に笛が鳴り、白い旗が畳まれて、両側の兵がそれぞれの側へ歩いて戻った。誰も振り返らない。

 三千を埋めるのに九時間かかり、その九時間を決めるのに、五日かかった。


 十六時四十五分、一発が撃ち放たれた。休戦の終わりを告げる合図である。

 それから、両側の斜面が一斉に鳴り出した。


 最初の弾着は、塹壕の後ろだった。今朝まで、一度も落ちてこなかった場所である。

「クソッ、オスマンの連中、どこを狙ってやがる!」ラフティが怒鳴った。

 二発目がその二十メートル上に落ち、三発目で、真崎には分かった。

「給水を止めろ!」真崎は怒鳴った。「列を崩せ、散らせ!」

 六段目の井戸である。向こうも九時間かけて、あの給水の列を見ていたのだった。


「ハリー!」

「はいッ!」

「明日、臼砲を撃つ者を呼んでください。日本製のやつです」

「撃つ場所が決まりましたか」

「決まりました」


 真崎は帳面を開いて、この日に使った石灰の量を書き、残りを引いた。次があれば、とても足りない。

 それから次の行に「六段目」と書いて、線を引いた。


 こちらの井戸は、動かせない。


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