第百二十話 四分
「距離、三百五十メートル――三百八十ヤード」真崎勇気は言った。「方位は、あの岩の左」
「三百八十!」オーストラリアの砲手が復唱する。
五月二十五日の朝、六段目の井戸の少し下に、日本製の臼砲が二門据えてあった。撃つ場所は、休戦の日に歩いて測った窪みである。
――ドンッ!
棒の付いた弾が、ゆっくり回りながら高く上がっていった。そして、棒だけが戻ってきた。
「うわッ!」井坂徹中尉が伏せた。棒は、五メートルほど後ろの地面に斜めに突き刺さっている。「な、なんなんですか、この棒は!」
「反動で、棒が後ろへ飛ぶのです」ケナード中尉が言った。「説明書に書いてあります」
「井坂ッ! 自分の国の兵器の仕様くらい、把握しておけッ!」
この臼砲の存在を、真崎自身が数日前まで知らなかったことは、誰も口にしなかった。
――ズドーンッ!
窪みの縁で、土が噴き上がった。修正を二つ入れて、二発目で中に入る。
撃っては直し、直しては撃つうちに、昼が近くなった。沖では英国の戦艦トライアンフが、いつものようにガバ・テペの丘を撃っている。
*
「敵さん、網を張ってやがる」
艦長が、潜望鏡から顔を離さずに言った。
「網、でありますか」
「魚雷よけの網だ。舷側から竿を突き出して、鋼の網を垂らしている」艦長は言った。「……構わん。網ごと撃つ。一本でいい」
ドイツ海軍の潜水艦、U-21。本国の港を出て、一ヶ月かけて地中海を回り、ようやくこの半島の沖に着いた。
天井の低い鉄の筒の中に、三十人あまりが詰まっている。機械の油と、汗と、カビの生えかけたパンの匂いがした。
「英国の戦艦だ。ガバ・テペの沖で、陸を撃っている」艦長は言った。「同盟国のオスマン兵を、一ヶ月、毎日撃ってきた艦だ」
「あいつさえいなけりゃ」水雷の兵曹が言った。「オスマンの連中も、昼間に頭を上げられますね」
「だから、ここで沈める」
「距離は」
「三百メートル。――潜望鏡、下ろせ」
潜望鏡は長く出しておけない。波の上に細い筒が立てば、白い筋を引く。向こうの見張りは、それを探しているのである。
「四つ数えたら、もう一度上げる。……一番、用意」
「一番、用意よし!」
「撃て」
ゴトン、と艇が揺れて、身が少し軽くなった。一本ぶんの重さが、前へ抜けていったのである。
水雷の兵曹が、声に出して数えはじめた。
「……八、九、十、十一――」
ズン、と遠い太鼓のような音が、鉄の殻を伝ってきた。
「当たったァ!」艦長は、もう一度だけ潜望鏡を上げた。「ははっ。敵さん傾いてるぞ。網は、役に立たなかったな」
ズン、と沖のほうで、腹に響く鈍い音がした。
斜面の兵が、一斉に顔を上げた。ガバ・テペの沖で、一ヶ月ほとんど毎日陸を撃ってくれていたトライアンフが、大きく傾いている。傾きは止まらず、煙突が水平に近づいて、やがて赤い腹を見せる。その腹の上を、人が何人も歩いて、端から海へ入っていった。
斜面の撃ち合いが細くなって止まり、両軍の兵が、手を止めて海を見ていた。
「あれが沈めば……明日から、代わりは来ませんよ」
ケナードが、誰に言うともなく呟いた。
*
「深く潜りますか」U-21の艇内で、水雷の兵曹が聞いた。
「急速潜行! あの艦の下へ行けェ」
「下へ、でありますか」
「駆逐艦は、沈む艦の周りを探す。沈む艦の真下は探さん」
艇が傾いて、深みへ滑り込んでいく。しばらくして、頭のずっと上のほうで、鉄が軋む長い音がした。何か巨きなものが、ゆっくりと横倒しになっていく音だった。
「底に着いたら、機械を止める」艦長は言った。「総員に告ぐ。音を出すな。咳もするな。……向こうが諦めるまで、待つ」
*
「恩田大佐。トライアンフを沈めた潜水艦は、水の中です。どうやって叩くのです」
日本の駆逐艦の艦橋で、潮崎拓馬が聞いた。八隻が全速で駆けつけたとき、トライアンフの沈んだ海には、虹色の重油と木切れしか残っていなかった。
「叩く道具なら、ある」恩田大佐は、後ろについてきた自分の掃海艇を顎で指した。
掃海艇の後ろの甲板に、太い索がとぐろを巻いている。ところどころに、黒い缶が括りつけてあった。
「……あれは、何ですか」
「犬の散歩爆弾だ」
「なんですか……それは?」
「イギリスから貰うた、潜水艦用の武器よ」恩田は言った。「犬の散歩と同じだ。掃海艇が綱を引いて歩く。綱には爆弾が九つ、犬みたいにぶら下がって、海の底を嗅ぎ回る。潜水艦にぶつかったら、綱を緩めて、九つを潜水艦の背中の周りに撒く。あとは艇から電気で一つに火を入れれば、残りも道連れで全部割れる、という寸法だ」
「では、あれで」
「だが、向こうがどこに座っておるか分からんことには、曳きようがない。この海の底を、端から全部曳くか」恩田は言った。「いまは、浮いてきたところを撃つくらいしか無い」
「浮いてこなければ」
「何もできん」
夕方、トライアンフとは別の場所から、油が一筋浮きはじめた。泡が、思い出したようにポコポコと上がってくる。
「底に座りおった」恩田が言った。「こっちが諦めるのを待っておる」
それから、泡の上がる海面を睨んだまま、低く続けた。
「……この潜水艦は、いつか、わしらが必ず沈めてやる」
八隻が、その上を回り続ける。夜半、見張りが「潜望鏡ッ!」と叫んで機銃を撃ち、照らし出されたのは、腹を上にしたイルカだった。誰も笑わなかった。
「見えておって届かんのは」恩田は言った。「今日が初めてだな」
翌日の午後、泡が止まり、油の筋も薄くなって消えた。どこへ行ったのか、誰にも分からない。トライアンフを沈めてから、二十八時間が経っていた。
その夜、金剛の艦橋で、松岡秀二艦長が口を開いた。
「潜水艦を水の上から叩ける、と言うた男がおるぞ。軍令部の飯尾という大佐だ。出航の前の晩に、朝まで飲んだ」
「飯尾大佐なら、存じております」潮崎は言った。「軍令部で一度、算定を命じられました。数字だけでいい、意見は要らん、と」
「あの男らしいわ」松岡は、鼻で笑った。
「……それで、どうやって叩くのです」
「潜っとる船は、撃っても当たらん。なら、当てるのをやめて近くへ落とせ、とな。七百キロ近い弾が水の中で割れれば、潜水艦の殻は保たん」
「ですが、艦砲を海面へ平らに撃てば、跳ねて飛んでいってしまいます」潮崎は言った。「仰角が足りません。戦艦の砲は、近くの海へ山なりには撃てんのです」
「わしもそう言うた。そうしたら飯尾が、艦そのものを倒せばいい、と言いよった。艦が十度傾けば、砲は三十度まで立つ」松岡は言った。「……二万七千トンをどうやって倒すのかは、言わんかったがな」
二十八時間の哨戒で疲れ切った艦橋では、誰もその先を続けなかった。
「……酔っておられたのでしょう」
「あぁ、酔っとった。二人ともだ」
*
五月二十七日の朝、ウィットビー中佐が、帽子を握りしめたまま金剛のタラップを駆け上がってきた。
「マジェスティックが、やられました。ヘラスの沖です。防雷網の僅かな隙間を、魚雷が一本通りました」
「なんだと?」松岡が、椅子から腰を浮かせた。「トライアンフの次は、マジェスティックか……おのれ、Uボートめ」
「何分もちましたか」潮崎が聞いた。
「四分です」
「二日で、二隻か」恩田が、低く言った。
「救助に向かうぞ!!」松岡が怒鳴った。「錨を上げろ! なんのために地球の裏側まで来たんだ!」
「艦長」恩田が、その前に立った。「去年の九月、ホーグとクレッシーが何で沈んだか、お忘れですか。一隻目がやられたあと、二隻は生存者を拾いに行って止まったところを、同じ潜水艦にやられたのです。助けに来る艦を、向こうは待っております」
松岡は海図台を二度殴り、それから低い声で言った。
「……駆逐艦を出せ。全部だ。金剛は、ここで待つ」
駆逐艦が次々と網の口を抜けて出ていき、二万七千トンの艦だけが、網の内側でじっとしていた。松岡は艦橋の端を三歩歩いては止まり、海を見て、また三歩戻る。一時間、それをやめなかった。
午後になって、数字が正しく届いた。
「四十九名です」ウィットビーが言った。「浅い場所でしたので、ほとんどの者は網を伝って隣の艇へ移れたそうです。……網を伝い損ねた者は、艦が横になるときに網ごと巻き込まれた。網の目に指を掛けたまま、沈んでいったのがいると」
潮崎は、何も言えなかった。
その日のうちに、英軍から全艦に命令が来た。二隻もやられた以上、陸から見える場所には、もう主力艦を置けない。
三十六センチ砲を八門積んだ艦が、見えない一隻から逃げることになった。
その日から、金剛の見張りは四人から八人に増えた。波頭が一つ白く立つたびに、誰かが息を呑む。どれも潜望鏡に見えた。
同じ日の夕方、真崎は六段目まで上がって海を見た。艦影が、一つも無い。
代わりに、ガバ・テペの裏の、兵たちがビーチー・ビルと呼んでいる砲台から、浜が撃たれていた。これまでは艦が睨みを利かせていたから、撃てば居場所を叩かれた。今日は昼間から、遠慮なく浜を撃ってくる。
「今日から、艦砲の支援はありません」
ケナードの顔が、朝とはまるで違っていた。髭が伸びて、目の下が黒い。
「ハリー、顔色が」
「ドクター・ウカイに言われて、腹を下す者を数えてきましたがね」ケナードは、少しだけ笑った。「今日から、私もあの数に入りました」
「我々の戦い方に、影響はありますか」
「向こうが、昼のうちに動けるようになります」ケナードは言った。「稜線の裏へは、艦の砲でしか届きません。うちの野砲は、まっすぐ飛びますので、あの裏側へは落ちないのです」
「……いま陸から撃てるものは」
「あの日本製の臼砲、二門だけです」
三千の遺体を埋めるのに、九時間かかった。
戦艦が消えるのは、四分だった。
「真崎」
郷田龍一郎中佐が、斜面を上がってきた。
「閣下に、前へ出させてくれと申し上げてきた。艦がおらんようになった以上、陸で撃てる者が撃たねばならん」
「反対です」
「なに」
「うちの師団が前へ出れば、後ろが空きます」真崎は言った。「水と弾と病人を回す者がいなくなる。この斜面の一万七千の喉が、三日で干上がります」
「東京は、それで黙っておるか」郷田は言った。「議会が黙っておらんぞ。井戸を掘って便所を作って、死体を埋めに来たのか、とな」
「議会には、欧州の戦争で日本人の血を流すのか、と言う一派もおります」真崎は言った。「前へ出て兵が大勢死ねば、黙っておらんのはそちらのほうです。……それに、黙らせるのは、私の仕事ではありません」
郷田は、しばらく真崎の顔を見ていた。
「……閣下も、貴様と同じことを言われた」
それだけ言って、郷田は斜面を下りていった。
真崎は帳面を開き、撃てる弾の数を、日数で割った。その答えは、書かずにおいた。
代わりに、ムドロスの師団司令部へ宛てて電文を一本書いた。
――上海積ミノ五十箱、至急アンザックノ浜ヘ回サレタシ。
中身はまだ知らないけれど、どうせ戦場で使うものなら、戦場に置いておくほうがいい。
*
その夜、金剛に信号が来た。
――比叡、六月上旬ムドロス着ノ見込。高速回航ノタメ、途中ノ寄港ヲ一ツ削ル。
「誰が乗っておる。艦長は」松岡が聞いた。
「……艦長、飯尾大佐であります」
松岡は、しばらく黙っていた。それから、声を出さずに笑った。三日ぶりに見る、松岡の笑い顔である。
「わしの操船は、頭のネジが外れとるとよく言われるが……あの男の撃ち方は、ネジが最初から付いとらんと言われとる」




