第百十八話 一パイント
「中隊長殿。明日は、弾を撃たずに丘を登れと」
背の低い、髭もまだ薄い少尉が、声を殺して言った。中隊の名簿を挟んだ手帳を、両手で握っている。
「撃てば、連合国の連中が目を覚ます」セリム大尉は言った。「夜明け前に、撃たずに斜面を登って、銃剣で塹壕へ飛び込め。そういう命令だ」
「向こうには、機関銃があります」
「ある」
五月十八日の夜。丘の裏の谷の底に、オスマンの兵が四万、ぎっしりと詰め込まれていた。
「中隊は、今夜の点呼で百四十一人です」少尉は手帳をめくった。「四月二十五日の朝には、二百十二人おりました」
「師団長殿は、何と仰っているのですか」
「……反対なさったそうだ。三週間かけて穴を掘って、機関銃を据えて待っている相手へ、正面から走っても、死ぬだけで何も買えん、とな」
「では、なぜ」
「この攻撃は、もっと上から来た命令だからだ」
「寝ておけ」セリムは言った。「三時には起こす」
*
真崎勇気は、巻尺を伸ばしている。
五月十八日の朝、測りに来ただけだから護衛はつけず、駆逐艦でガリポリ半島へ渡った。連れは、工兵中尉の井坂徹と、軍医の鵜飼稔、それに郷田龍一郎中佐である。作戦の持ち場を見ておく、と言って、郷田は自分から付いてきた。井坂は真崎と同じ広島の生まれで、訛りを隠さない男だった。
浜で待っていたのは、日に焼けて鼻の頭の皮が剥けた英国の中尉である。
「ハリー・ケナード中尉。当分、貴官らの案内役です」
「マサキ、でいい」
「では、こちらもハリーで。よろしく、マサキ」
「ここを守っているのは、アンザック。オーストラリアとニュージーランドの軍団です」ケナードは斜面を指した。「上がって、ひと月。あれから、一歩も前へ出ておりません」
浜から二百メートルも行かないうちに、地面がぐんと立ち上がる。その斜面に、塹壕が段々に刻んであった。
アンザック陣地図(上図の赤枠部分拡大)
「水は」
「三分の二以上は、船で運んでおります。残りは、あの谷の浅い井戸です」
「一人一日の割当は」
「戦闘がある日で、一パイント半。一パイントの日もあります」
「一パイントというのは」真崎は少し考えた。「パブでギネスビールを頼むと出てくる、あのグラスと同じですか」
「そうそう、それです!」ケナードが手を打った。「話が早いじゃないか、マサキ!」
「……それで、飲んで、髭を剃って、体を拭くのですか」
ケナードは、笑うのをやめた。
「剃らない者が増えました。その分、飲みたいですからね」
ぶうん、とハエが顔の前をかすめる。鵜飼が便所の穴を一つ覗き込み、無言で一歩下がってから、真崎を呼んだ。
「少佐殿。ここは、ひと月でやられます。弾で死ぬ数より、腹を下して死ぬ数のほうが多くなります」
「それから鵜飼」真崎は谷を見上げた。「便所が、井戸の上にある」
「……ありますね。雨が降れば、上から下へ流れます」
「なぜ、あそこに」
「狙撃されない場所が、あそこしかないのです」ケナードが言った。「谷の外へ一歩出れば撃たれます」
真崎は、巻尺を伸ばした。風下で、水場から離れていて、前線から近すぎず、井戸より下。四つを同時に満たす地面を探して、斜面を歩き、測り、帳面へ落としていく。
途中で一度だけ、真崎は巻尺を止めた。斜面の三分の一、左寄りのところに、稜線の裏から谷筋が一本下りてきて、地面が浅く窪んでいる。こちらの塹壕からは、底が見えない。真崎は帳面の端に、その窪みまでの距離を書き足した。
「ああ、ちょうどいい」ケナードが、斜面を下りてくる背の高い軍曹に手を上げた。「マサキ、こちらはラフティ軍曹。この斜面のことなら、私より詳しい。本名で呼ぶ者はおりません。背が高いので、ラフティです」
「おい。何を測ってんだ」ラフティが言った。
「便所の位置です」
軍曹は、まじまじと真崎の顔を見て、それから親指で斜面を指した。
「……穴なら、そこらじゅうに空いてるだろうが」
オスマンの砲弾が開けた穴のことである。
「それにな、あの丘は取れねえ」ラフティは、稜線を顎で指した。「取れねえから、俺たちは掘るんだ。塹壕も、便所も、墓もな」
ラフティは手を一つ振って、斜面の上の持ち場へ戻っていった。
「オーストラリアという国を、そのまま人の形に詰めたような男でね」ケナードは、その背中を見送りながら言った。「気は荒いが、おおらかで、いざというときは頼りになる。仲良くしてやってくれ、マサキ」
*
夕方五時、丘の向こうから砲弾が降ってきた。
「伏せろ!」
――ドォン! ドォン!
真崎は井坂の襟首をつかんで、塹壕の底へ転がり込んだ。土が、ばらばらと背中に降る。
「ま、毎日こうなんですかいね!」
「今月は三度目だ!」ケナードが叫び返す。「こういう撃ち方の後は、たいてい何か来る!」
砲撃の合間に、伝令が屈んだまま走ってきた。
「谷が埋まっているそうだ! 敵で、だ!」ケナードが叫んだ。「丘の向こう側の谷だ、飛行機が上から見た!」
「数は!」
「四万!」
「こちらは!」
「一万七千!」
砲撃は、夜中の十二時まで続いた。内火艇はもう出せない。
午前三時半。
――パン。
――パン。パンパン。
――タタタタタタタタタッ!
機関銃が吠えた。塹壕の右で一挺、一拍遅れて左でもう一挺。
「な、何も見えんですよ!」井坂が叫んだ。
「向こうも見えていない!」
ぱっ、と照明弾で空が白く割れた。その光の下、斜面を人が登ってくる。十や二十ではない。丘のほうから、同じ言葉を繰り返す叫び声が降ってくる。
「なんと言っているのです!」
「アラー、だ!」ケナードが言った。「向こうの神の名だ!」
「Ammunition!」
弾を寄越せ、とラフティが叫ぶ。真崎と井坂で弾薬箱を担ぎ上げた。一箱で三十キロを超える。段を駆け上がって、ラフティの背後にどさりと下ろす。
粘土の段は、夜露でぬめっていた。上から数えて六段目で、真崎の靴が滑った。
「少佐殿!」
「六段目だ、気をつけろ!」
郷田中佐が、壁に立てかけてあった小銃に手を伸ばした。その手首を、ラフティががしりと掴む。
「おい、触るな! 弾の数は決まってんだ。撃つのは俺らに任せて、あんたは箱を運んでくれ」
郷田は小銃から手を離し、黙って弾薬箱を担いだ。
照明弾が上がるたび、真崎は斜面を見ていた。三秒で光が消える。その三秒で見たものを、頭の中に並べる。
人が湧いてくるのは、いつも同じところだった。斜面の三分の一、左寄り。昼に帳面の端へ距離を書き足した、あの窪みである。機関銃の弾道は、その窪みの上を通り過ぎていく。
「ハリー! 斜面の左、三分の一のところに窪みがあります。機関銃の弾が届かない。向こうはあそこに次の波を溜めて、息を整えてから出てきている」
「見えんぞ!」
「見なくていい。昼に測りました」真崎は言った。「浜から九百メートル。この塹壕から前へ二百二十メートル――二百四十ヤードです」
「便所を測っていたんじゃないのか!」
「ついでに斜面も測りました。便所の場所を決めるには、風と高さが要りますので」
ケナードは二秒だけ真崎の顔を見て、それから伝令の肩を叩いた。
「山砲だ! インドの砲が下にいる! 方位と距離を送れ!」
――ドスン。
「近い!」真崎が叫ぶ。「三十、伸ばせ! 左、二十!」
――ドスン。
二発目は、窪みの縁で弾けた。
「そのまま、撃ち続けろ!」
――ドスン。ドスン。ドスン。
窪みの中で、土と火が続けて噴き上がった。そこから上がっていたアラーの声が、ぷつりと途切れる。その夜、そこから人が出てくることは、二度となかった。
だが、もう斜面を上がりきってしまった連中がいる。照明弾の下で、黒い球を振りかぶる影が見えた。
振り向いたラフティの肩から、血が出ていた。ラフティは、その小銃を郷田のほうへ突き出した。
「――撃てるか」
「撃てる」
郷田が受け取り、真崎がその横に伏せた。
小銃には、筒の長い望遠の照準器が括りつけてあった。この組でいちばん目のいい者に回される一挺だという。郷田は銃床に頬を付けて照準器を覗き、すぐに顔を離した。
「……暗くて、何も見えん」
「中佐殿、照明弾を――」
「要らん」
郷田は照準器から目を外し、銃身の上の照門と照星――手前の切り欠きと、銃口の先の小さな突起を重ねて狙う、昔ながらの照準――だけで、闇のほうを向いた。息を半分吐いて、止める。
見えているのではない。さっきの照明弾が消える前に目に残った影の位置と、斜面の傾きと、人が這い上がってくる速さが、頭の中で一つの点に重なっていく。銃口が、ひとりでにその点へ寄っていった。
「右、四十。岩の左」真崎が言った。
――パン。
闇の向こうで、振りかぶった腕が止まった。黒い球が持ち主の足もとへ落ちて、そこで弾ける。
「同じ岩の、二つ上」
――パン。
「左、六十。走っている」
「見えた」
――パン。
照明弾が上がった。白い光の中で、岩の陰に影が三つ、折り重なって倒れていた。
「おいおい……」隣で弾を込めていたオーストラリアの兵が、手を止めた。「夜だぞ。二百ヤードはあるぞ。照星だけで、それか」
「あの日本人の中佐、何者だ」
ラフティが、包帯を押さえたまま低く笑った。
「俺の銃を、俺より上手く使いやがる」
「中佐殿は、銃剣一筋だと思っておりました」真崎は言った。
「銃剣は」郷田は次の弾を込めた。「当たらんときに使うものだ」
一時間ほどして、機関銃の上から湯気が立ちはじめた。
「沸いてきましたのう」井坂が言った。「水冷式ですけぇ、筒の水が切れたら銃身が焼けて、撃てんようになります」
中隊じゅうの水筒が集められるなか、真崎は自分と井坂と郷田の水筒を外して、ラフティのところへ走った。
ラフティが一本の栓を抜いて、くん、と匂いを嗅いだ。
「……茶か」
「沸かしてあります。生水は飲まない決まりです」
「機関銃に茶を飲ませるなんざ、初めてだぜ」
三本ぶん注ぎきっても、筒の口まで届かない。数分で、また湯気が上がった。
「次は……」井坂が、恐る恐る聞いた。
「便所の缶だ。持ってこい」ラフティが言った。
真崎と井坂で、便所の缶を担ぐ。たぷん、と中身が揺れた。
「……少佐殿ぉ。さすがに気持ちの良いもんじゃありませんなぁ」
「それが戦場ってもんだ」
「こぼしたら、どうします」
「拭く水が無い」
井坂はそれきり口を閉じて、一歩一歩、慎重に足を運んだ。昼のあいだ真崎が位置を測っていた便所から出たものが、いま、銃身を冷やしている。
空が白んできても、敵は丘の稜線の向こうから上がってきた。右と左の機関銃が斜めに交わる場所で、上がってきた者が、前の三度と同じようにばたばたと倒れていく。
「なぜ、同じ場所で止まるのです」
「二本の弾道が、あそこで交わるように置いてある」ケナードが言った。「向こうもたぶん知っている。だが、後ろから行けと言われている」
明治三十七年八月、旅順。十一年前、真崎の父も、同じように上がって死んだ。
真崎は、箱を担ぎ直した。
正午の少し前、撃つ音がぱたりと止んだ。
「終わりましたか」
「立ち上がる者が、いなくなっただけだ」
*
この日、午前三時半から正午までにこの陣地が撃った弾は、九十四万八千発を超えていた。斜面に残ったのは三千だという。こちらの戦死は、百六十だった。
郷田が、斜面を見たまま真崎の隣に立った。
「貴様が言い続けてきたことだ。突撃は火力の前では通らん、と。今日のこれが、その答えだろう」
「はい」
郷田は、それきり何も言わずに斜面を見ていた。
二〇三高地で、郷田は戦友を二人失っている。小松と堀内という名を、真崎は一度だけ聞いたことがあった。二人とも、いま向こうがやったのと同じ上がり方をして死んだのである。
(あの日の斜面を、思い出しておられるのだろうか)
「中佐殿。私は……その、突撃そのものが悪いと申し上げたことはありません」真崎は言った。「あの斜面を、あの時刻に、あの登り方で行かせるな、と申し上げているだけです。昨夜の中佐殿の射撃も、同じ理屈でした」
郷田は、答えるまでにずいぶん長くかかった。
「さあな」
昼過ぎ、真崎は塹壕の底に腰を下ろして、冴子が宛名を書いてくれた封筒を一枚使った。
――こちらは、もう夏のようです。水は一人一日、ギネスビール一杯ぶんで、髭を剃らない者が増えました。
――そちらは、もう青葉のころでしょうか。
封をすると、四十六枚が残った。
午後、帰りの内火艇が来たが、真崎は乗らなかった。
「少佐殿、船が出ますけぇ!」
「先に帰れ、井坂。ムドロスから、錐と管と手押しのポンプを持ってきてくれ」
「……井戸ですか」
「あぁ。昨晩の戦闘で、六段目に都合の良い場所があると思った。そこを掘ってみる」
「少佐殿ォ、どうかご無事で!」
「安心しろ。お前がポンプを担いで戻ってくるまでは、死なんでおく」
夜のあいだ弾薬箱を担いで、同じ段を四十七回上り下りした。決まって足を取られるのが、上から数えて六段目で、朝になってもそこだけが乾いていない。
真崎がシャベルでそこを削ると、三十センチほどで粘土の色がすっと黒くなり、掌で押すと、じわりと水が滲んだ。
「おい、今度は何を掘ってんだ」肩に包帯を巻いたラフティが、覗き込んだ。
「水です。ここは便所より上で、谷の井戸より二十メートル高い」
ラフティは、しばらく穴を覗き込んでいた。
「……悪くねえ場所だ。一緒に掘るか?」
「やりましょう」




