第百十七話 保証人
箒が、歩道のガラスを掃いていた。
ひと掃きごとに、細かいものが縁石の際へ寄っていく。腰を曲げてそれをやっているのは店の主人らしい男で、窓にはもう板が打ってある。同じ板が通りに三軒続き、四軒目の窓にだけ、貼り紙が出ていた。
――この店の主人は、イギリス人です。
秋月慧は、その前で足を止めなかった。
「ここの主人はドイツの生まれでね」隣を歩くルパート・チェスタートンが言った。「こっちへ来て三十年、とうに帰化してる。先週、慌ててそれを貼った」
「では」
「割られたよ」
ルシタニアは、ニューヨークとリヴァプールを結ぶ英国の大型客船である。五月七日、アイルランドの南の沖でドイツの潜水艦に雷撃され、十八分で沈んだ。死んだのは千二百人近く、そのうち百二十八人がアメリカ人だった。
ロンドンの窓が割れ始めたのは、その五日後である。
「アメリカは、これで動きますか」
「大統領は動かんよ。三日後に演説して、誇りが高すぎて戦えない人間もいる、とさ」チェスタートンは言った。「だが、新聞は動いた。ヨーロッパの喧嘩には関わらん、と言い続けてきた国の新聞がだ」
三月十八日から、二ヶ月が経っている。海峡は艦では抜けず、四月二十五日に半島へ上がった陸兵は、上がったきり前へ出ていない。日本の一個師団がムドロスへ着いたのは、五月一日だと聞いている。
そして、三月にこの国の海軍大臣から取った約束の続きは、まだ一行も返ってきていなかった。
*
海軍情報部の部屋は、三月に来たときと同じ紙の匂いがした。
チェスタートンは、来る途中の屋台で買ったミートパイの紙包みを二つ、書類の山の上へ置いた。一つを秋月へ押してよこし、自分の分にはもう齧りついている。
「今朝だ」チェスタートンは椅子に浅く腰を下ろした。「フィッシャー提督が辞めた。第一海軍卿――艦隊のいちばん上の軍人さ」
「チャーチル大臣と二人で、海軍を動かしていた方ですね。辞められたのは、フィッシャー卿のほうですか」
「そうだ。八度目だよ。これまでの七度は、辞めると言って辞めなかった。今度は、荷物ごと出ていった」
「理由は」
「ダーダネルスさ。フィッシャーの爺さんは、初めから反対だった。反対のまま艦を出させられて、艦が沈んだ。もう相方のチャーチルには付き合いきれん、ってわけだ」
パイの皮が崩れて、肉汁が電報の写しの上へ垂れた。チェスタートンは袖でそれを拭い、拭ったところがかえって広がった。
「第一海軍卿が辞めて、これから、どうなります」
「いまの内閣は、自由党だけだ。保守党は開戦から九ヶ月、政府を叩かないと約束して黙ってた。その約束が、昨日と今朝で切れた」チェスタートンは言った。「首相が椅子に残るには、保守党を内閣へ入れるしかない。入る側は、条件を出す。そのうちの一つが、人の名前だ」
「名前」
「チャーチルを、海軍省から外せ」
秋月は、齧りかけたパイを紙の上へ戻した。
「……フィッシャー卿が辞めて、チャーチル大臣まで」
「ダーダネルス突破作戦は、チャーチルの案だ。案を出した人間が、案と一緒に落ちるのは分かりやすい」チェスタートンは言った。「それに十年ばかり前、あの人は保守党を出て自由党へ移って、移った先で大臣になった。あっちは、忘れちゃいない」
「何か困ったか、ケイ。食わんのなら、それもくれ」
「約束を、一つ頂いております」
「紙はあるのか?」
「口です」
「じゃあ、無かったことになるなぁ」チェスタートンは秋月のパイに手を伸ばした。「この国じゃ、口約束は人に付く。人が動けば、一緒に動く」
*
ヴァンス男爵は、ロンドンへ戻っていた。
通された書斎で見る四ヶ月ぶりの顔は、病院にいた頃より血の気があった。卓の上に開いた新聞紙の包みには、揚げた魚と揚げた芋が入っていて、酢の匂いがする。
ヴァンスは、それを銀のフォークで食べていた。
「……男爵。病み上がりで、それですか」
「こいつが無いと、生きていけないんだよ」ヴァンスは魚を切り分けて口へ運んだ。「角の店で包ませた。歩いて三分だ」
「左腕は」
「おかげさまで、少しは動くようになった」ヴァンスは左手を膝から持ち上げ、卓の縁に置いてみせた。指が、二本だけ曲がった。「医者が言うには、よく動かして神経を活発にしろ、とのことでね。その一環として、フォークでチップスを食べている」
「……一環ですか」
「一環だ」
「もっとも、まだ完成していない」ヴァンスは言った。「医者が、酒はもう少し控えろと言うんだ。ギネスビールが無い。こいつは、ギネスがあって完成するのだが……」
秋月は、抱えてきた包みを卓へ置いた。
「お見舞いを、お持ちしました」
一つ目の温室育ちの葡萄に、ヴァンスは丁寧に礼を言った。
「もう一つ、ございます」秋月は封筒を出した。「男爵の行きつけの、あのサルーンの親父さんからです。フィッシュアンドチップスと、ギネス一パイントの組で、無料券。五回分だそうです」
ヴァンスがフォークを置いた。
「ケイ!」
四ヶ月ぶりに見る顔の中で、いちばん血の気があった。
「よくこれを持ってきてくれた……。親父さんに伝えてくれ、動けるようになり次第すぐ行く、と」ヴァンスは震える指で券を数え、二度数えた。「キミも来るんだ。ルパートもだ。サルーン側じゃないぞ。パブ側の、あの奥の席だ」
「は、はい……是非とも」
「男爵は、あちら側の、パブの席でよろしいので」
「よくない席ほど、話が入る」ヴァンスは言った。「それに、一杯が安い」
「もっとも、券が使えるうちに行かないとな」ヴァンスは続けた。「ロイド・ジョージが、来週から軍需の大臣になるそうだ。酒はドイツの潜水艦を全部合わせたより害だ、と演説した男だぞ。パブの店じまいを早めるくらいは平気でやる。そのうち、酒そのものを禁じるなどという馬鹿の極みのような法律まで作りかねん」
秋月は、そこで用件を出した。
「男爵。三月に、チャーチル大臣から約束を頂きました」
「聞いているよ」
「日本の一個師団に、前線の一区画ではなく、後ろの一切を任せていただきたい、と申し上げました。補給、給水、衛生、埋葬、揚陸です」
「それで」
「チャーチル大臣は、その旨を陸軍省へ文書で出す、と言われました」秋月は言った。「二ヶ月、返事がありません。ムドロスの師団には、いまだに何の指示も届いていないと聞いております」
「チャーチルは、書いた」ヴァンスは言った。「あの男が書かなかったなんてことは、有り得ない。書くことだけは、この国の誰よりも早いんだ」
「では、その紙は、いまどこにあるのです」
「どこかの机の上で止まっているはずだ」
ヴァンスは、卓の葡萄を一粒つまんだ。
「ケイ。この国の役所は、外から紙が一枚入るたびに、それに番号を打つ。文書課が台帳へ書き写して、番号を振る」
「番号」
「誰が受け取ったか。どこへ回したか。いつ返ってきたか。その紙に起きたことは、全部その番号の下にくっついていく」ヴァンスは言った。「つまり、番号さえ分かれば、台帳を引いて、その紙がいま誰の机で止まっているかが分かる」
「……台帳は、大臣が替わっても残りますか」
「あぁ残る。大臣は来週替わるが、役人は替わらない」ヴァンスは言った。「だから、人ではなく、番号を追え。あの男に会えるうちに会って、番号を一つ聞き出してくるといい」
*
二十四日に、海軍省へ呼ばれた。
三月と同じ部屋で、壁の地図も灰皿もそのままなのに、机の上のものだけが減っている。
チャーチルは立っていた。この男が椅子に座っているところを、秋月はとうとう一度も見なかった。
片手に、グラスを持っている。琥珀色の、薄いウイスキーのソーダ割りで、まだ午前の十一時だった。
「飲むか、ケイ」
「いえ。職務中ですので、遠慮しておきます」
「私も職務中だが」チャーチルは、グラスを口へ運んだ。
「ケイ」チャーチルは言った。「私は今週のうちに、ここを出る」
「伺いました」
「ランカスター公領の大臣になる」チャーチルは言った。「公領がどこにあるか、貴官は知っておるか」
「存じません」
「私も、今週まで知らんかった」
チャーチルは、そこで短く笑った。秋月は笑えなかった。
(……酔っておられるのか、この人は)
チャーチルは机の引き出しを開けた。
「三月に申し上げた。陸軍省には私が書く。通るかどうかは保証せん、と」
「覚えております」
「書いた。三月の二十日だ」チャーチルは言った。「返事は来ておらん。二ヶ月、来ておらん」
秋月は、何も言わなかった。
写しの紙が一枚、机の上を滑ってきた。右上に、青い鉛筆で数字が振ってある。
「持っていけ。来週になれば、何の力も無い紙だ」チャーチルは言った。「だが、日付と、番号が入っておる」
「後任はどなたになるのですか?」
「アーサー・バルフォアだ。十年ばかり前に首相をやった男で、分別のある人だよ」
「では」
「分別のある人は、始まっていることを止めはせん」チャーチルは言った。
チャーチルは、地図のほうを向いた。海峡の細い線は、三月に指の腹でなぞったときのまま、そこにある。
「内閣には残る。海峡のことを見る委員会を作るそうだ。私は、そこには入れてもらえる」
「では、まだ」
「その委員会の名前が、ダーダネルス委員会だそうだ」チャーチルは、グラスを揺らした。「私を海峡から追い出した連中が、海峡の名前を看板に掲げる。……愉快な国だろう」
秋月は、何と答えるべきか分からなかった。
チャーチルは笑いも腹を立てもせず、ただ地図を見ていた。
「貴官の師団は、いま何をしておる」
「――決まっておりません」
「そうか」チャーチルは言った。「決まらんうちは、まだ誰にも取り上げられておらん」
それから机の上の紙を一枚引き寄せて、何か短く書きつけ、署名を入れた。
「紙の行方が気になるのだろう。これを持って、陸軍省の文書課へ行け。番号を見せれば、どこで止まっているか分かる」チャーチルは言った。「私の名前は、あと一日は効く」
部屋を出るとき、秋月は机の上のグラスに目をやった。琥珀色は、注いだときの高さから、ほとんど減っていなかった。
二十五日に、新しい内閣ができた。海軍大臣はバルフォアである。
秋月は、その足で英国陸軍省の地下の文書課へ降りた。チャーチルの署名の入った走り書きと、番号を書いた紙を出すと、係の下士官が台帳を引いて棚のあいだへ消え、綴りを一冊抱えて戻ってきた。
一枚目が三月二十日付のチャーチルの文書で、二枚目に三月二十四日の陸軍省の受付印がある。三枚目が、返事だった。
――右、異存ナシ。
判は、四月十七日に押してある。二ヶ月前に頼んだものが、一ヶ月以上前に、もう通っていたのである。
「これは、どこへ送られたのですか」
「送られておりません。送り先の欄が、空です」下士官は台帳をこちらへ回した。「異存が無い、という返事です。異存が無ければ、揉めません。揉めないものは、急ぎません」
(互いに、向こうが送るものと思って、誰も送らない……どこの国の役所にも、あるものだな)
秋月は手帳に、台帳の番号と四月十七日の日付を書き写した。英国の役所が紙を送らないのなら、こちらの電信で、番号だけをムドロスの師団へ送ってしまえばいい。
その日の午後、海軍情報部の部屋で、英国海軍省から回ってくる日報の綴りをめくると、地中海の頁に同じ一行が、五月の初めから並んでいた。
ムドロス——給水、衛生、埋葬、揚陸。日本ノ師団。
最新の頁にだけ、地中海の司令部から回ってきたらしい書き込みが一つ足してある。
――付記。日本師団ノ後方支援、極メテ有効。余力アラバ、戦闘ノ支援ヲモ望ム。
後ろを頼んだ相手に、前も頼みたくなったらしい。
承認は四月十七日に下りていて、現場は五月の初めから同じことを始めている。その二つは、まだ一度も出会っていない。ムドロスの誰も、承認が下りたことを知らないまま、承認された通りのことをやっている。この一行のどこにも、日本人の名前は書かれていなかった。
電文を起こした。
――海軍大臣更迭。後任バルフォア。
――我ガ師団ノ後方一切ノ担当、四月十七日付ヲ以テ英陸軍省承認済。文書番号、左ノ通リ。
それから、頼まれていない一項を足した。
――付記。右承認、ムドロスニ未達ト認ム。現地ヘ、番号ヲ伝ヘラレタシ。
――又、英側ニ、我ガ師団ノ戦闘支援ヲモ望ム気配アリ。
書かずにおくこともできたけれど、見たものを書かない報告は、報告ではない。
保証人は、もういない。
残るのは、番号が一つである。
海軍省を出た。
来た道を戻ると、十日前と同じ窓の前で、男がまだガラスを掃いている。打ってある板だけが、新しいものに替わっていた。




