第百十六話 流れてきた七人
オスマン海軍の駆逐艦ムアヴェネティ・ミリイェが、闇の底から英国の戦艦を虎視眈々と狙っていた。
「目標、英国の戦艦。三本とも撃つ」
水雷長が、発射管の脇で低く言った。
「撃ったら振り返るな。そのまま海峡の奥へ逃げる」
「はっ」
一番発射管についた兵曹は、握りに手をかけたまま、前の闇を見ていた。
ドイツで造られた、煙突の二本ある細い艦である。五月十二日の日暮れに海峡の機雷原を抜け、零時半に錨を上げて、ヨーロッパ側の崖ぎりぎりまで寄せながら南へ下ってきた。英国の艦が錨を並べているモルト湾へ、一隻きりで忍び込むためである。
「探照灯は、十一時半に消える」
同盟国ドイツから乗り込んできた大尉は、それを三度言った。三日前に小舟でこの湾の近くまで忍んでいき、英国の艦がいつ灯りを落とすかを見てきたのだという。その言葉のとおり、湾は真っ暗だった。
「右を見るな」水雷長が囁いた。「左の崖だけ見ていろ。崖の影に溶けているかぎり、向こうからは岸にしか見えん」
一時少し前、前方の闇に、艦が三つ浮かんだ。手前に小さい駆逐艦が二つ、奥に大きいのが一つ。どれも錨を入れて、灯りを落としている。
大きい艦の艦橋から、灯が瞬いた。
「……何と言っております」
「はっは。イギリスの連中、我々を味方の艦だと思って、合言葉を聞いてきおった」水雷長は言った。「返事は魚雷でくれてやれ! 一番から三番、発射用意――撃ッ!」
兵曹は、握りを引いた。
ボン、と圧縮空気の抜ける音がして、一本目が闇へ滑り出ていく。二本目、三本目。
「面舵! 機関、いっぱい!」艦長が叫んだ。
*
「左舷に艦影!」
英国の戦艦ゴライアスの艦橋で、見張りが叫んだ。
「味方の駆逐艦だろう。合言葉を送れ」
信号灯が瞬いた。返事は来ない。代わりに、黒い水の上を、白い筋が三本、まっすぐこちらへ伸びてくる。
「魚雷ッ――!」
――ドォォン!!
「艦橋の下に被弾!」
――ドォォン!!
「二本目、煙突の下! ボイラー室に水が入ります!」
三本目が艦尾で水柱を立てたとき、足の下の甲板が、はっきりと傾いた。
「だめだ、傾くぞ! 総員退艦!!」
ハンモックから飛び出した水兵たちが、傾いていく甲板を滑って、そのまま夜の海へ落ちていく。七百人余りを乗せた艦が横になりきるまでに、二分とかからなかった。
海峡の潮は、黒海の側からエーゲ海の側へ、海峡の口へ向かって走っている。
水に落ちた男たちは、その潮に乗って流れていった。
*
五月十三日の未明、真崎は叩き起こされた。
「少佐殿! 起きてください!」
甲板へ出ると、ムドロス湾の灯りが片端から消えていくところだった。遠くで駆逐艦の汽笛が、続けて三度鳴る。
「ヘラスの先の湾で、イギリスの戦艦が沈みました」当直の下士官が言った。「乗っていたのが七百。……五百以上が、上がってこないそうであります」
「どうやって」
「水雷艇が一隻だけ、入ってきたそうであります」
湾の全艦が動き出した。防雷網を下ろし、灯りを消して、駆逐艦が湾口へ出ていく。
――バババババッ!
湾口の駆逐艦が、機銃を撃っている。何に撃っているのかは、甲板の誰にも見えなかった。三十六隻の甲板に兵が上がってきて、全員が湾口の方を向いたまま、誰も口をきかない。
陸軍を満載した三十六隻は、まだ荷を降ろし切っていない。九日待って、ようやく桟橋が空いたのが三日前である。兵の半分と、馬のほとんどが、まだ船の底にいた。停泊している輸送船は、ただの的である。同じことがこの湾で起きれば、一個師団が一晩で消える。
「今夜中に荷を降ろす」
「少佐殿。降ろす場所がありません」
「作れ」
「灯りが使えません」
「手で探れ」
「少佐殿ッ! いつもの合理的なご命令をッ!」
「いまは、これが最も合理的なんだ!」
夜通しかかった。艀の位置が見えず、馬は暗いところで吊られるのをいっそう嫌がった。三日前まで笑い話だった作業が、そのまま笑えない作業になっている。海へ落ちた者が二人出て、二人とも上がった。
明け方近く、真崎は船倉へ降りた。番号順の列はだいぶ痩せて、半分ほどが陸へ上がっている。一番奥の五十箱は、まだそこにあった。
いま魚雷が一本入れば、この箱は中身の分からないまま海の底へ行く。四十日運んできて、分からないまま失うことになる。開けておけばよかった、という考えが、初めて頭を通った。
「この五十だけ、先に上げろ」
「番号の順ではなくなりますが」当直の下士官が言った。「目録には、どう書きますか」
「戦闘中の混乱で先に下ろした、とでも書いておけ」
結局、その夜は何も来なかった。朝になっても、湾口には何も浮いていない。撃ったほうも、何に撃ったのかを知らなかった。
*
朝、恩田の掃海艇が帰ってきた。甲板に、人が寝かせてあった。
拾ったのだ、と言う。海峡の入口で夜の掃海の支度をしていたら、潮の上から人が流れてきた。わざわざ助けに行ったわけではない、とも言った。戦艦が沈んだのは潮の上のほうで、掃海艇は下のほうにいたのである。
「夜の一時ごろ、霧の向こうが一度だけ明るくなりまして」艇の水兵が言った。「橙色の光が、雲の底を舐めるように広がって、消えました。音は、そのあとから来ました」
七人拾った。ムドロスまで百十キロばかりあり、八ノットで八時間かかる。着いたとき、生きていたのは三人だった。
英軍の病院船は半島へ出払っていて、残っている一隻は満杯だという。日本の師団の衛生隊は、番号順に積んだ荷の下のほうにあった。担架と毛布と薬の箱を掘り出すのに一時間かかり、最初の患者が来てから、病院を開設したことになる。
三人のうち、一人は目を開けていた。毛布をかけられて甲板に寝かされ、時々咳をしている。
男が何か言った。早口で、真崎には一語も取れない。二度目に、一語だけ取れた。
「Water.」
水を持ってこさせた。この島に水は無いが、四十日かけて日本から運んできた水が、おとといのうちに陸へ上がっている。その中の一杯だった。
男は両手で受け取って飲み、飲んでから真崎の顔を見た。
「Thank you.」
「Take a rest.――ゆっくり休んでくれ」
死んだ四人を埋める場所を、真崎が手配した。島の東の、乾いた斜面である。穴を掘っているところへ英軍の少佐が一人来て、制帽を取った。
「貴官らの手厚い扱いに、感謝する」
「四人です」真崎は言った。「三人は、生きております」
「拾わなければ、七人とも流れていた」
真崎は、それに答えなかった。拾ったのは日本の艇だが、運んできたのは潮である。
「昨日までに、この島で三百ほど埋めた」少佐は言った。「病院船から降りてきて、そのまま死んだ者です。……日本の方は、この島に墓地をお持ちか」
「まだ、ありません」
「少ないに越したことは、ありません」
着いて十二日で、日本の師団が最初に作った施設は、他国の兵の墓地だった。その日、三本目の井戸も水を出さなかった。
*
夕方、真崎は内火艇で金剛へ渡った。昨夜の荷揚げで海軍の艀を借りた礼状と、明日からの荷揚げの割り当て表を、司令部から艦隊へ届ける役である。
湾の奥である。近づくにつれて、金剛が大きくなった。
内火艇から見上げると、舷側が壁のように立っている。その上に砲塔が三つ、四つと重なり、さらに上へ三本脚のマストが伸びていた。首を曲げきらないと、いちばん上まで目が届かない。
全長二百メートルを超える鉄が、水に浮いている。浮いているというより、水のほうが遠慮して支えている、という見え方だった。真崎は、しばらく口を半分開けたまま、それを見上げていた。
水線の際に、色の違う鉄板が一枚あった。鋲の頭が、継ぎ目に沿って新しく並んでいる。そこだけが、綺麗ではなかった。
潮崎拓馬は、後甲板で待っていた。
「上海以来です」潮崎は言った。「半年、ですか」
「そのくらいだ」
日に焼けて、少し痩せている。目つきだけが、黄浦江にいた頃と同じだった。
「それにしても」真崎は言った。「戦艦というのは、本当に格好のいいものだな」
潮崎が、少しだけ笑った。
「ええ。ただ、金剛は格別です。この艦影は、この先五十年は古びない……私は、そう思っております」潮崎は言った。「……水兵どもの憧れです」
「そうだろうな。下から見上げると、首が痛くなる」
「もっとも、戦艦ではありません。巡洋戦艦です」潮崎は言った。「装甲を削って、そのぶん速くしてあります。速い船は、格好がいい。格好がいいものは、たいてい、どこかを削っております」
「真崎さん、結婚されたそうですね。おめでとうございます」潮崎は言った。「愛玲さんが、寂しがっておりましたよ。真崎さんのことですから、てっきり上海へすぐ戻って、そのまま国際結婚でもなさるものかと思っておりました」
「潮崎」
「お相手は」
「――陸軍中将の娘だ」
「政略結婚じゃないですか」
「潮崎」真崎は声を大きくしなかった。「少しは物言いを考えろ」
潮崎が黙り、それから少しだけ姿勢を直した。
「……失礼しました」
三月の広島駅で冴子に腕を軽く叩かれたときのことを、真崎はなぜかそこで思い出した。
「あの鉄板は」
「三月十八日に、一発もらいました。当て板で塞いであります。一年は保つそうです」
「ほかに傷は」
「浅瀬で、底をこすりました。私も艦橋におりましたが、二万七千トンの腹が砂利の上を滑る音というのは、二度と聞きたくありません」潮崎は言った。「潜って見た者の話では、塗料が二メートルばかり剥げておっただけだそうです」
「戦艦で、浅瀬へ入ったのか」
「入れる、と艦長が申しましたので。……こすったあとで、こするつもりは無かった、とも申しておりましたが」
「妹の比叡が来ます」潮崎は続けた。「金剛がこの傷ですから、軍令部が飛ばして寄越すそうです。二十七ノット出る艦です。その速さで、これだけの距離を走らせた者は、まだ世界に一人もおりません」
「二十七ノットで走らせたら、石炭はどうなる」
潮崎は、真崎の顔を見た。
「……よく、それをすぐ思いつきますね」
「職業病だ」
「持ちません」潮崎は言った。「ですから港へ寄る回数を削って、足りない分は、海の上で重油を継ぎながら走るそうです。油を積んだ船を横に付けて、管を渡して」
「走りながら、か」
「べた凪――波一つ無い日でなければ、索が切れます。うちの海軍は、こういう無理難題を人の手でねじ伏せるのが得意です」潮崎は言った。「得意なだけで、確かではありませんが」
それから真崎は、積荷目録の末尾の一行の話をした。軍需品、五十箱。品名なし。積地は上海。
「開けられましたか」
「開けていない。開ければ、記録せねばならん」
潮崎は、それで分かったらしい顔をして、何も言わなかった。
「ドイツの潜水艦が、地中海へ回されているそうです」
帰りぎわに、潮崎が言った。
「確かか」
「噂です。ですが、司令部が信じております。来たら、戦艦はこの湾から半島の前へ出られなくなります」
内火艇の上から、真崎は金剛の右舷を振り返った。色の違う鉄板が、夕日で少し赤く見える。一年は保つ、と潮崎は言った。あれは砲弾で開いた穴の話であって、魚雷の話ではない。
まだ、半島へ渡ってもいない。渡る前から、後ろが壊れかけていた。




