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海霧の中の奇兵隊 ―対米戦争を回避せよ。死んだはずの高杉晋作と乃木大将の隠し遺書―  作者: 吉田梅之助
第一部 Ⅴ欧州派兵工作編

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第百七話 角砂糖三つ

 鏡の前で、冴子(さえこ)は三度着替えた。


 女中が最初に広げたのは、母が仕立てさせた訪問着だった。淡い藤に、裾へ流れる松の文様。父が三日前から「これを着ろ」と言い続けていたものである。

 冴子はそれを肩に当ててみた。鏡の中に、知らない女がいた。


「お嬢様」

「片づけて」

「……旦那様が」

「片づけて」


 冴子が選んだのは、去年の暮れに銀座の洋品店から届いた一着だった。丈は踝(くるぶし)の上まで。腰の位置を高く取り、裾をゆるく絞った型で、パリの雑誌に載っていたのと同じ仕立てである。帽子はつばの広いものを合わせた。

 膝が見えると騒がれた、あの時のものではない。だが父の目には、同じに映るだろうと思った。

 女中は何も言わなかった。言っても無駄だと知っている顔だった。


 階下へ降りると、玄関に神林毅一郎(かんばやしきいちろう)が立っていた。軍服の襟を直していた手が、途中で止まった。


「……またか」

「お父様、おはようございます」

「わしは何と言った」

「藤の訪問着、と」冴子は帽子のつばに指をかけた。「よく覚えておりますわ」


 毅一郎は、しばらく娘を見ていた。それから何も言わずに靴を履いた。


   *


 偕行社(かいこうしゃ)の洋間だった。


 仲人は父の同期にあたる将官の夫妻で、香月(かつき)という。夫の方はもう予備役に入っていて、顔の造作の半分が白い髭に埋まっていた。夫人の方が、この夫婦の口だった。

 窓は南向きで、冬の光が絨毯の上に長く伸びている。卓には白い布がかかり、菓子鉢が一つ置かれていた。


 真崎勇気は、先に来ていた。


 軍服だった。仕立ての良いものではない。袖口が擦れているのが、冴子の座った位置から見えた。立ち上がって一礼した所作は正確で、余分がなかった。

 冴子が腰を下ろすと、香月夫人の視線が一度、冴子の膝の上を通って戻った。


「まあ、お若いこと」夫人は言った。「その、お召し物は」

「パリの型ですの」冴子は微笑んだ。「昨年の秋のもので、もう古うございますけれど」


 毅一郎が咳払いをした。


 釣書が交わされた。香月が真崎の経歴を読み上げる。

 陸軍士官学校。陸軍大学校。陸軍省軍務局。参謀本部付、上海駐在。そして現在、軍務局へ帰任。


「参謀本部付」冴子は繰り返した。「では、師団の方ではないのね。撃つ側でも、命じる側でもなく」

「観戦武官と言いまして――戦況を見て、分析する側です」真崎は言った。「青島(チンタオ)では、一部の戦闘にも加わりましたが」


 香月夫人の眉が、わずかに動いた。話が長くなる前に、と思ったのが顔に出ていた。


「あの、真崎さん」夫人は言った。「箱根には、よくいらっしゃるの。この時季の湯は、それは結構だそうで」

「いえ」真崎は言った。「この前、仕事で初めて行きまして」

「まあ、お仕事で。それでは、ゆっくりもなさらなかったでしょう」

「湯には、入りました」真崎は言った。「良い湯でした。また是非、行きたいものです」


 冴子は、帽子のつばにかけた指を、そこで止めた。


 初めて行った。仕事で。この時季に。

 あの晩、暖房機に背中を押しつけられて動けずにいた自分の前に立って、氷嚢を、と憲兵に言った男である。あの後この人は、湯に入ったのか。

 冴子は、それを表に出さなかった。真崎も、それ以上は言わなかった。


「まあ、では音楽などは」夫人は続けた。「冴子さんは琴を――」

「少々」冴子は言った。


 それきりだったので、夫人は菓子鉢の方へ話を移した。天気の話が出た。今年の冬は乾いている、という話になった。乾いていると火が出て困る、という話になった。

 冴子は「そうですわね」と三度言った。


 三度目のあとで、口が動いた。


「――先だって、青島の祝勝会に出ておりましたのよ。宮之下の」

「まあ、あの」

「あそこにいらした方は皆さん、どこの砲がどうしたという話ばかりで。わたくし、半分も分かりませんでしたわ」

「そういうものです」真崎が言った。


「でも、わたくしが知りたかったのはそこではありませんの」冴子は言った。「なぜイギリスの艦が、あの場にいたのか、ということですわ」


 真崎は、冴子を見た。


「同盟の義務でしょうか。わたくし、違うと思いますの」冴子は続けた。「あれは見張りですわ。日本が山東(シャントン)を一人で取ってしまわないように、隣に立っていたのでしょう。ですから青島が落ちるなり、膠州湾(こうしゅうわん)の始末の話をあれこれ言ってまいりますのよ。作戦の範囲がどうの、と。同盟国のなさることではありませんわ」


「冴子」

 毅一郎の声だった。冴子は聞こえなかったようにした。


「――同盟は、道具です」真崎は言った。「向こうも、そう思っています」

「そう!」冴子の声が、少し高くなった。「そうですわよね。皆さん同盟同盟と仰いますけれど、あれは友情ではないでしょう。山縣閣下がロシアとの協約をあれほど大事になさるのも、結局そういうことですわ。あの方は、友情でロシアと組んでおいでではありません」


 冴子は、そこで一度息を継いだ。継いだが、止まらなかった。


「大隈総理は分かっておいでかしら。わたくし、あの方は弁が立ちすぎると思いますの。弁の立つ方は、たいてい勘定ができませんわ」


 香月の白い髭が、少し動いた。

 笑っていた。声は出していなかったが、肩が一度上下した。それから、白い髭の奥で、うん、うん、と二度頷いた。

 たしかになあ、と言いたいのを、仲人という立場が辛うじて押さえている。そういう頷き方だった。


 毅一郎は卓の一点を見ていた。

 真崎の視線が、卓の向こうへ一度動いた。冴子はそれを見た。見たが、何も思わなかった。


「イギリスは、これから日本に何を出させるおつもりかしら」冴子は言った。「同盟というのは、貸しを作った側が使うものでしょう。あちらは青島で、貸しを一つ作ったつもりでおりますわ」


 真崎の視線が、また卓の向こうへ動いた。

 夫人が身じろぎをした。菓子鉢が、わずかに鳴った。


 部屋の温度が、また一つ下がった。


   *


 コーヒーが運ばれてきた。


 この席は、本来なら茶である。

「奥様からお預かりした豆ですのよ」香月夫人が、取り繕うようにそう言った。「よい豆が手に入ったので、せっかくだから、と」


 母だ、と冴子は思った。

 あの人は、決めたことの理由を言わない。今日ここに茶ではなくコーヒーが出る理由も、たぶん誰にも言っていない。


 冴子はその時になって、部屋が静かになっていることに気づいた。

 香月夫人は菓子鉢を見ている。父は窓の外を見ている。喋っていたのは、自分だけだった。


 (――いけない……またやってしまった……)


 冴子はスプーンを取って、置いた。


「上海には、長くいらしたの」

「一年ほど」

「どんな街ですの」

「湿気ています」真崎は言った。「夏は特に」


 それだけのはずだった。


 一年である。

 口に出してみると、短い。だが真崎にとって、その一年は、他のどの一年よりも厚かった。


 泥の教室の、黴と機械油の匂い。東行(とうぎょう)先生と呼ばれていた老人の、笑わない笑い方。

 三夜、無音の周波数を回し続けた黒石の背中。井川の下手な冗談。足音を立てずに歩く李河(リーホォ)が、こちらの歩き方を鼻で笑った日。

 秋月と外灘(バンド)で並んで、船の数を数えた夜もあった。


 そして、白檀(びゃくだん)の匂いがした。


 真崎の目が、卓の上のどこでもない一点で止まった。ほんの一拍だった。

 冴子は、それを見た。


「真崎さん」

「はい」

「いま、どなたか他の女性のことを考えていませんでしたか」


 部屋の中で、音が消えた。


 香月夫人の匙が、受け皿に触れて小さく鳴った。毅一郎が、初めて娘の方を見た。


「いえ、そんなことは」真崎は言った。「――あまりにも色んなことがあった一年でしたので、つい振り返っておりました」


「あらそう」


 冴子は、それだけ言って匙を置いた。追及はしなかった。追及する必要のない顔をしていた。


 真崎は、湯呑みでも持っていれば口をつけていたところだった。あいにく、目の前にあるのはコーヒーで、まだ熱かった。


 (――まずい)


 嘘は、ついていない。一つも。事実だけを並べて、理由の方を伏せた。

 自分がこの喋り方をする時、伏せた側の方が大きい。それを一目で見抜く人間が、この国に何人いるか。

 目の前に、一人いた。


 (この女――勘の鋭さは、ピカイチだな)


 高杉晋作という男は、人を集める時に一度も間違えたことがない。

 その先生が、幼い娘を一人、手元に置いて仕込んだと聞いていた。


 (……見込んだだけのことは、ある)


 そして真崎は、卓の中央にある砂糖壺に手を伸ばした。


 銀の挟みで、角砂糖を一つ摘(つま)み上げる。カップに落ちた。音がした。

 二つ目が落ちた。

 三つ目が落ちた。


 冴子は、それを見ていた。


 (――コーヒーに角砂糖をたっぷり入れる殿方は嫌、と言っていたわね)

 咲夜の声だった。赤坂の座敷で、茶を二つ頼んで待っていたあの女の声だった。


 (その方があなたを一生守る存在かもしれませんのよ)

 (こだわりや条件で足切りするとは、そういうことですのよ)


 冴子はカップに口をつけた。心地よい苦さだった。

 真崎がスプーンを回している。三つ分の砂糖が溶けていく音が、なぜかはっきりと聞こえた。


 (――無理だわ)


 咲夜の顔が浮かんだ。それでも、無理だった。


   *


 車が坂を下っていた。


 毅一郎は窓の方を向いたまま、しばらく何も言わなかった。冴子も何も言わなかった。

 三宅坂を過ぎたあたりで、毅一郎が口を開いた。


「どうだったか。真崎は」

「好きですわ」


 冴子は、窓の外を見たまま言った。


「あそこまで会話してくださった方、初めてですもの」


 毅一郎は、返事をしなかった。


 父が返事をしないのは、珍しいことだった。

 息が煙草臭くて。天保銭を鼻にかけておいでですわ。そういうことを言うと、父は決まって何か言い返した。困ったものだ、とか、贅沢を言うな、とか。


 窓の外を、人力車が一台、追い越していった。毅一郎はその車輪を目で追った。追い越して、見えなくなってからも、しばらく同じところを見ていた。

 膝の上で、指が一度だけ動いた。


「そうか」


 冴子も窓の外を見ていた。

 三つ落ちた音が、まだ耳に残っていた。


   *


 電報が届いたのは、四日後の朝である。


 赤坂の神林邸、二階の冴子の部屋。女中が盆に載せて持ってきた紙片には、片仮名が並んでいた。差出局は敦賀になっている。船で渡って、そこから打ち直したのだろう。


 ベルギーレース テフ ヒトツ トリハヅシ アヲキヌノ ネ ゴ


 女中は「服地のご注文でしょうか」と言った。冴子は「そうよ」と答えた。嘘ではない。そう読めるように作ってある。

 打鍵は誰かにやらせたはずだ、と冴子は思った。あの女が自分で叩くところは想像できない。電信局の係員は片仮名を一つずつ拾って送っただけである。途中の局でも、着いた局でも、誰かが目を通したはずだった。誰も何も思わなかった。


 思わないように書け、と教えたのは冴子だった。


 頼んであったのは、一件だけである。青島の件で、ロシアの誰か。


 ――ベルギーレース。これは名前の代わりである。二人が初めて向かい合った日、咲夜の衿元にあった帯留めのことだ。横浜の旧居留地で見つけた、機械ではない縫い方の。あの日の卓を挟んだ二人にしか、意味を持たない品である。

 ――テフ ヒトツ トリハヅシ。蝶が一つ、外れる。人が一人、外される。

 ――アヲキヌノ。青の布。青島。

 ――ネ ゴ。値は五。あの女は、値を指で示す。電報では、指が使えない。


 冴子は紙片を二度読んで、燐寸を探した。


 (青島の件で、ロシア人が一人、呼び戻される)


 冴子は、その男の顔を知っていた。


 宮之下の富士屋ホテルのロビーだった。暖炉の前で、コートを着たまま煙草を吸っていた外国人。将官の一人が頭を下げながら「これはこれは、ヴォルコフ殿」と言った。流暢な日本語で祝いの言葉を返していた。冴子は聞こえないふりをしてすれ違った。

 男は視線を上げなかった。あの時は、それだけだった。


   *


 柏木丈二(かしわぎじょうじ)は、電報を一度読んで卓に置いた。


「五、というのは」

「値よ。あの人はいつも指で言うの」冴子は椅子に浅く腰かけた。「もう払ったわ」

「四日でどうやって」

「敦賀に払えばいいのよ。あの人、こちらにも手があるの」

「――そうか」


 柏木は眼鏡を押し上げた。それから、上着の内側から布の包みを出した。開くと乾板が出てきた。麹町の写真館で現像した、あの一枚である。背の高い男と、外国人。背景の遠くに、ドイツの海軍旗。


「宮之下のロシア人に似ている、とお前は言った」柏木は言った。「俺は確証とまではいえん、と答えた」

「ええ」

「向こうが自分で答えを出してくれた」柏木は乾板を灯りに透かした。「青島の件で切られる館員が一人。この写真に写っている男でなければ、話が合わない」


 冴子は乾板を覗き込んだ。


「ずっと持っていたのね」

「使う先を間違えると、ただの紙になる。田中閣下に突きつけようかと、一度は考えた」柏木は包み直した。「やめてよかった。あれは、脅されて動く男じゃなかった」

「じゃあ、何をするの」

「向こうはもう、ヴォルコフを切ると決めている」柏木は言った。「切ると決まった以上、残っているのは切り方だけだ。今月中に帰すか、春まで置いておくか。黙って帰すか、荷物を検めてから帰すか」

「そこを、こちらへ寄せるのね」

「そうだ」


「こちらは、何を出すの」

「二つある」柏木は乾板の包みを指で叩いた。「一つは、これを新聞に渡さないことだ」

「もう一つは」

「小銃だよ」柏木は言った。「ロシアは、いま銃が足りていない。日本の古い三十年式でもいいから買いたがっている。役所同士の話はまとまっていないが、商人が横から動いている。神戸で、ロシア向けの小銃を積んだ船が一隻、出港を待っている」


「その船が、どうかするの」

「出港には書類が要る。積荷の検査、保険、船の検疫」柏木は言った。「一つ引っかかれば、その船は一ヶ月動かない。逆に、何も引っかからなければ、来週には出る」

「引っかけることも、外すこともできる。……あなたが?」

「俺じゃない。荷主と長い付き合いのある人たちが、だ」


「その話を、しに行くのね」

「しない」柏木は言った。「話せば取引になる。取引にした瞬間、向こうは値切るか、断るかのどちらかだ」

「では、どうするの」

「船が一隻出る、と言うだけだ。あとは、向こうが勝手に数える」


   *


 麻布の、看板のない洋館だった。


 通されたのは暖炉のない客間である。寒かったが、ロシア大使館の参事官は、それについて一言も詫びなかった。この客にはこの部屋で十分だ、という意味である。

 髪の薄い、肩の厚い男だった。日本語は使わなかった。柏木が英語で話し、男は英語で返した。


 冴子は柏木の斜め後ろに座った。喋る役ではない。


 柏木は乾板の写しを卓に置いた。滑らせたのではない。ただ、置いた。

 参事官はそれを長く見なかった。三秒ほど視線を落として、また上げた。


「これは何です」

「青島で撮られた写真です」

「青島には、大勢がいた」

「ええ」柏木は言った。「その中に、貴館の方がいた。ヴォルコフ書記官です」


 参事官は指を組んだ。組んだまま、動かなかった。


「あなた方は、これをどうなさるおつもりか」

「どうもしません」

「ほう」

「新聞は、こういうものを好みます。持ち込めば、明日の朝刊に載るでしょう」柏木は言った。「ですが、我々は好みません。貴国とは、いま同じ側で戦っております。喜ぶのは独墺だけでしょう」


 参事官は、初めて冴子の方を見た。視線は、すぐに戻った。

 だがその一秒の間に、部屋の中の何かが動いたのを冴子は感じた。この娘は誰だ、という目ではなかった。この娘がここにいるのはなぜだ、という目でもなかった。

 ――この娘をここへ寄越したのは誰だ、という目だった。


「話を伺いましょう」参事官は言った。


「貴国の陸軍が、小銃を必要としておられる」柏木は言った。「東部の戦線で、銃が足りていない。そう伺っております」

「公表されていることです」


 参事官の指は、組まれたまま動かなかった。動かさないようにしていた。


 ――足りていない、というのは、この日本人の言い回しである。

 足りていないのではない。無いのだ。動員した兵の三人に一人にしか銃が渡っていない。残りの二人には、前の者が倒れたらそれを拾え、と教えている。教えている側も、それが冗談でないことを知っている。


 ロシアにしてみれば、日本の小銃が買えるなら万々歳である。

 三十年式でも三十五年式でも、弾が出るなら何でもいい。喉から手が出るほど欲しい。本国からは、値を叩けと言ってくる。叩ける立場ではないのだ、と何度書き送っても、モスクワの机はそれを読まない。


 その船が、遅れるか、遅れないか。

 この男は、そう言おうとしている。


「その小銃を積んだ船が、神戸で一隻、出港を待っております」柏木は続けた。「役所を通ったものではありません。ある商人の船です。我々は、その商人と長い付き合いがございます」


 参事官の指が、一度だけ組み替えられた。


「船は、遅れることがあります。積荷の検査、保険、検疫。書類の不備が一つあれば、それで一ヶ月は動きません」柏木は言った。「逆に、来週のうちに出ていくこともある」

「――数は」

「申し上げません」柏木は言った。「申し上げると、これは取引になります。私は取引に来たのではありません。……ただ、一隻に積めるだけは積んでございます」


 冴子は、膝の上で指を二つ折った。

 写真は新聞に出さない。船は遅らせない。柏木はその二つを、差し上げるとも言わずに卓へ置いた。代わりに何が欲しいのかも、まだ一言も言っていない。

 それでも、この部屋の三人は、同じ一人の男のことを考えている。

 ヴォルコフ。何者で、この国で何をしていたのか。それが表へ出かかったから、本国へ戻されるのか。

 ――早く、帰せ。柏木が言っていないのは、その一言だけだった。


 沈黙があった。冴子はその長さを数えた。


 参事官は、その沈黙のあいだに勘定を終えていた。

 書記官が一人、いなくなる。それで写真は表に出ず、船も止まらない。安い。安すぎて、逆に落ち着かないほどだった。

 どうせ切る男である。切る手間を、向こうが半分持ってくれるという話だった。


 ならば、こちらからも一つ置いておくべきだろう。取引ではない、という顔を続けるためには、こちらも取引でないものを渡すしかない。


 参事官が、息を吐いた。


「ヴォルコフ書記官は」男は言った。「日本の冬が、合わなかったようです」

「そう伺っております」

「療養が必要でしょう。本国の方が、よろしい」

「ご快癒をお祈りします」


 参事官は、そこで初めて椅子の背にもたれた。


「一つ、申し上げておきましょう。取引ではありません。独り言です」

「伺います」

「あの男が呼び戻されるのは、青島の一件だけが理由ではない」参事官は言った。「二年です。二年のあいだ、大使館の帳簿に無い金が動いておりました。受け取っていたのは、日本の陸軍の方です」


 柏木の眼鏡が、灯りを一度返した。

「お名前は」

「存じません」参事官は言った。「本当に存じません。私が知っているのは、支払いが去年の暮れで止まっていないということだけです」


 止まっていない。

 冴子は、その一語を頭の中で二度なぞった。


「その方は」柏木は言った。「まだ、この国においでですか」

「私は、独り言を申し上げただけです」


 参事官は立ち上がった。話は終わり、という立ち方だった。


 柏木も立った。乾板の写しは、卓の上に置いたままだった。

 参事官はそれを見て、何も言わなかった。持って帰れとも、置いていけとも言わなかった。


 冴子も立った。部屋を出る時、写しはまだ卓の上にあった。


   *


 外へ出ると、日が落ちかけていた。


「あれでいいの」冴子は言った。「あの写真、置いてきちゃったけど」

「乾板は俺が持っている。あれは焼き増しだ」

「ずるい」

「向こうも分かっている。分かった上で受け取らなかった」


 柏木は外套の襟を立てた。


「大使館の人間が一人、辞めるだけだ。新聞にも載らん。誰も撃たれない」

「つまらないのね」

「つまらん方がいい」


 冴子は少し歩いてから言った。

「あの独り言」

「聞いたな」

「支払いが、止まっていない」冴子は言った。「あの人、なぜあれを言ったのかしら」

「値を払ったつもりなんだろう」柏木は言った。「取引ではない、という形を保つには、向こうも取引でないものを渡すしかない。……律儀な男だ」


 柏木は少し歩いてから、付け足した。

「今日のあれは、写真の礼じゃない。船の礼でもない。……こっちが名前を聞かなかった礼だ」


 冴子は少し歩いてから聞いた。

「ねえ。あの人、なぜ私を見たのかしら」

「――さあな」


 柏木は前を向いたまま歩いた。冴子はその横顔を見た。

 柏木の眼鏡が、街灯の光を一度だけ返した。


今回、見合いの場となった偕行社について、少しだけ解説を。


陸軍将校の親睦団体で、明治十年の設立です。東京に会館を構え、集会所、宿泊所、機関誌の発行、さらには縁談の世話まで引き受ける、将校のための総合的な場でした。軍という閉じた社会の中で縁組がまとまるのは自然な流れで、仲人を立てて偕行社の一室で顔を合わせるというのは、当時ごく標準的な段取りです。


最後までお読みいただきありがとうございます。

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