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海霧の中の奇兵隊 ―対米戦争を回避せよ。死んだはずの高杉晋作と乃木大将の隠し遺書―  作者: 吉田梅之助
第一部 Ⅴ欧州派兵工作編

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第百八話 そうだからそう

 話が戻ってきたのは、見合いから三週間ほど後である。


 真崎は、香月家からの使いを受け取った時、人違いかと思った。あの見合いは終わっていた。終わったことは、あの部屋にいた全員が知っていた。

 だが口上は、神林中将が改めて会いたいと言っている、というものだった。


 赤坂の神林邸に着くと、毅一郎は玄関ではなく、廊下の途中で待っていた。


「よく来た」

「は」

「奥に、娘がおる」


 真崎は、その言い方に引っかかった。


「ご一緒に、では」

「わしは行かん」毅一郎は言った。「一時間だ。二人で話せ」


 良家の令嬢が、親も仲人もいない部屋で男と二人になる。作法から、はっきりと外れている。


「……よろしいのですか」

「よくはない」毅一郎は言った。「家内には、今日は出てもらった。あれがおったら、この話にはならん」


 毅一郎はそこで少し黙った。


「あの二人は、顔を合わせれば言い合いになる。娘が十二の頃からだ。どちらが正しいという話ではない。似ておらんのだ、あの二人は」


 毅一郎は廊下を歩き出した。振り返らずに言った。


「一時間だ」


   *


 冴子は、和装だった。


 真崎は一度そこへ目をやって、何も言わなかった。

 卓を挟んで座った。女中がコーヒーを二つ置いて、出て行った。


 しばらく、どちらも喋らなかった。


「先日は」冴子が言った。「お見苦しいところを」

「いえ」

「父が、頭を抱えておりました」

「でしょうね」


 真崎がそう言ったので、冴子は顔を上げた。真崎は真面目な顔をしていた。冗談を言った顔ではなかった。


「あの、真崎さん」

「はい」

「どうして、あの日、二度も香月夫人をご覧になったの」


 冴子は、そこで自分の言葉に引っかかった。あの時は、気づかなかったはずだった。三週間かけて、後から思い出したのだ。


「あの部屋には、五人おりました」真崎は言った。「そのうち三人が、困っておられた」

「わたくしは、困らせておりましたのね」

「はい」

「はっきり仰いますのね」

「それが取り柄なので」


 冴子は笑った。声を出して笑って、慌てて口元を袖で押さえた。

「でも、あなたは困っておられなかった」

「私は面白かったので」真崎は正直に吐露した。

「――面白い?」

「イギリスの艦の話です」真崎は言った。「見張りだ、と仰った。あれは、多くの方が仰らないことです」

「新聞には書いてありませんもの」

「書いてある通りに思う人が、この国には多すぎます」


 冴子は、その一言をしばらく反芻(はんすう)した。


「真崎さん。あなた、上役にタテ突いてお叱りを受けたと伺いましたけれど」

「受けました」

「後悔していらっしゃる?」

「していません」真崎は言った。「同じことがあれば、また同じことをします」

「ではまた叱られますわ」

「叱られます」


 冴子は、また笑った。それから言った。

「わたくし、従うのが下手ですの。子供の頃から、なぜと申しますでしょう。なぜそうしなければいけないのか、と」

「お母上は」

「そう決まっているから、と」冴子は言った。「それだけですの。毎度、それだけ。……では、なぜそう決まっておりますの、と重ねて伺いますでしょう。そうすると、今度は叱られますのよ」


 冴子は匙の先を見ていた。


「そうだからそう、と言われて、納得できる人がおりますかしら」

「おりません」真崎は言った。

「そう思われます?」

「私は、それで上海へやられました」


 冴子は口を噤(つぐ)んだ。


 二人ともしばらく喋らなかった。喋らないことが、気詰まりではなかった。冴子は、そのことに驚いた。


 ――この人は、わたくしと同じ壊れ方をしている。


 どれだけ経ったのか、冴子には分からなかった。コーヒーは、半分ほど減っていた。


「昔、剣道場に通っておられたと聞きました」

 真崎が言った。


 冴子の指が、匙の上で止まった。

「どこでそれを」

「知人からです」


 冴子は、しばらく真崎を見ていた。品定めをする目ではなかった。どこまで行けるかを測る目だった。


「琴を習わされておりましたの」冴子は言った。「母が決めたことですわ。なぜ、と伺っても、そう決まっているから、と」

「先ほどの」

「ええ。同じですの」冴子は言った。「それが、あまりにつまらなくて。……同じ敷地に、剣道場が併設されておりましたのよ。板の間から音が聞こえてまいりますの。琴の音の合間に、竹刀の音が」


 冴子の声の調子が、少し変わった。作った高さが、一段落ちていた。


「一度、覗きに行きましたの。それきりですわ。剣技の方が、遥かに楽しくて」

「琴は」

「基礎を終えてからは……あまり触っておりません」冴子は言った。「あそこの師範の方が――」


 真崎は、そこで一度だけ、部屋の外へ目をやった。

 襖。廊下。庭に面した障子。人の気配は、どこにも無い。


 冴子は、その動きを見ていた。


「大丈夫よ」


 ――ですわ、が消えていた。

「ここなら、誰にも聞こえない」


 真崎は、卓の上へ視線を戻した。それから、低い声で言った。


「おもしろきこともなき世を、おもしろく」


 冴子の手から、匙が落ちた。受け皿の上で、高い音がした。

 冴子はそれを拾わなかった。


「――……あなた」冴子は言った。「知ってるの」


「高杉先生は、ご存命です」真崎は言った。「上海で、ご一緒しておりました」


 冴子は、息を吸って、吐いた。長い息だった。

 それから、初めて背もたれに体を預けた。良家の令嬢が、決してしない座り方だった。


「――柏木さんから、色々聞いてはいたけれど」冴子は言った。「やっぱり、そうだったのね」


 冴子は天井の方を見た。

「先生は生きているはずだと、ずっと思ってた。誰に聞いても、死んだ人の話しかしないの。……わたくし、そうだからそう、というのが本当に嫌いなの」


「コードネーム、ジョージ」


 冴子の目が、天井から降りてきた。


 その名は使うな、と柏木本人に言われている。イギリス側に漏れ始めているから、奇兵隊の仕事でも呼ぶな、と。

 真崎は、承知の上で使った。禁じられた名を出す以外に、自分がどこに立っているかを、この人へ示す方法がなかった。


「あなたも、影の奇兵隊の一員として、柏木と一緒に動いているのでしょう」


 冴子は、答えなかった。

 答えなかったが、卓の下で、袂(たもと)に入れていた手を出した。何も持っていない手だった。


「……お父様は、ご存じないわ」冴子は言った。「これだけは、言っておきます」

「私も、そう思っていました」


 二人は、しばらく黙っていた。

 今度の沈黙は、さっきのものとは違った。同じ側に立った者どうしの、値踏みの終わった沈黙だった。


 真崎がコーヒーポットに手を伸ばした。


 冴子は砂糖壺を見た。銀の壺だった。蓋が半分開いていて、角砂糖が四つ、五つ、覗いている。


 冴子はそれに手を掛けて、卓の上を、真崎の方へ滑らせた。

 布の上を滑る音がした。


 真崎は砂糖壺を見た。それから冴子を見た。

 真崎は、角砂糖を三つ取って入れた。


   *


 柏木が紙を持ってきたのは、それから十日ほど後である。


 軍務局の廊下だった。柏木は封筒も出さず、折り畳んだ紙を一枚、真崎の手に押しつけた。


「見るなら、ここで見ろ。持って帰るな」


 進級上申書の写しだった。陸軍大尉真崎勇気、右陸軍少佐ニ進級セシメラレ度(たし)、とある。

 功績の欄に、地中海方面派遣に関する事務の一行があった。その上に、もう一行あった。


 ――総攻撃ニ先立チ、艦砲及ヒ攻城砲ノ集中ニ依ル堡塁(ほるい)制圧ヲ具申シ、師団長ノ容(い)ルル所トナリタリ。


 真崎は、その一行を二度読んだ。


 あの日、参謀本部の中佐は何と言ったか。公式記録は、歩兵の突撃による占領と書き換えろ。参謀本部の決定事項だ。

 書き換えろと言われた行が、いま、別の紙の上で、元の形をしている。


「誰が」

「知らん」柏木は言った。「俺が調べた範囲では、誰も書いていない。書いた者がいないのに、書いてある」


 真崎は紙をもう一度見た。名前は、真崎勇気と書いてあった。


「青島では手柄を立てたらしいが、あれは神尾閣下の手柄でしょう」柏木は言った。「そう書いた紙を、俺も読まされた。途中から、読まんことにした」

「なぜです」

「それは事実だが、さすがに腹が立ったからだ」


 真崎は紙を柏木に返した。柏木はそれを内隠しに収めて、歩き出した。


   *


 その夜、真崎は下宿の机に向かっていた。


 卓の上に、神林家からの正式な書面がある。婚儀の話は進めることになった。仲人は香月家がそのまま務める。日取りは、出航の前になるだろう。

 政略である。中将の家が大尉に娘をやる話ではない。少佐になった、という一行が挟まって、初めて格好がついた縁組である。誰もがそう読むだろうし、真崎もそう読んでいた。


 だが、あの一時間のことを考えると、少し違うものが残る。


 ――この人となら、並んで立てるかもしれない。


 その時、窓の外で風が鳴った。真崎は顔を上げて、何も見なかった。

 上海の湿気。診療所の白い寝台。「次は負けない」と言った時の、あの目。


 真崎は書面を畳んで、懐に入れた。

 しばらく、机の木目を見ていた。


   *


 同じ夜、赤坂。


 冴子は寝台に入る前に、引き出しを開けた。

 電報は、もう無い。ロシア人が一人、療養に帰る。仕事は終わった、ということになっている。


 ――支払いは、去年の暮れで止まっていない。


 終わっていない仕事が、一つ増えただけだった。冴子は引き出しを閉めた。


 閉めてから、咲夜に手紙を書こうかと思った。何と書くのか。「あなたの言った通りにしたわ」だろうか。だが、それは正確ではない。あの日、自分は角砂糖三つであの人を切った。切っておいて、忘れなかった。


 それに、あの女には書けないことの方が多い。


 先生は生きている。

 この世に、同じことを知っていて、同じ顔で黙っていられる人間が、もう一人いる。

 冴子は、自分がそれを何と呼べばいいのか分からなかった。安堵とは違った。もっと落ち着かないものだった。


 冴子は便箋を出さなかった。


 窓の外で、犬が一度だけ吠えた。

 それきり、夜は静かだった。


最後までお読みいただきありがとうございます。

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