第31話「聖典」
都市の一室だった。
机の上に、一冊の本が置かれている。
装丁は簡素。
飾りは少ない。
表紙に、短く書かれている。
『無為録』
それだけ。
部屋には数人の学者がいる。
椅子に座り、本を囲んでいる。
「これが原本か」
ひとりが言う。
「そうらしい」
別の者が答える。
声は小さい。
だが、どこか慎重だった。
学者が本を開く。
中には、短い言葉が並んでいる。
――眠い
――うるさい
――遠い
説明は少ない。
余白が多い。
ページをめくる。
――無理をしない
――必要以上に出さない
それだけ。
静かな紙面。
学者はしばらく黙る。
「……これは深い…」
ぽつりと呟く。
別の学者が、少し首を傾げる。
「いや、そうとも限らない」
小さく言う。
最初の学者が顔を上げる。
「どういう意味だ?」
「解釈次第で、どうとでも取れる」
指で一行をなぞる。
「“眠い”を、休息の肯定と見るか」
「怠惰の容認と見るか」
少しだけ間を置く。
「あるいは、何も意味がないと見るか」
沈黙が落ちる。
誰も否定しない。
別の学者が口を開く。
「だからこそ、価値がある」
静かな声。
「固定されていないから、広がる」
頷く者がいる。
反応しない者もいる。
だが、議論は続かない。
結論が出ないまま、成立している。
机の上には、別の本も積まれている。
同じ『無為録』。
だが、中身が少し違う。
注釈がある。
解説がある。
元の言葉より、説明の方が多い。
さらに別の本。
完全に解釈だけで構成されている。
原文は、最後に少しだけ。
「どれが正しいんだ?」
誰かが聞く。
少しの間。
「全部だ」
誰かが答える。
それで終わる。
都市の外でも、本は広がっていた。
店先に並ぶ。
人が手に取る。
読む者もいる。
読まない者もいる。
「いいらしいな」
とだけ言って、買う者もいる。
別の場所では、声がする。
「“無理をしない”って書いてあるから、今日は休む」
隣で別の声。
「“無理をしない”から、少しだけやる」
どちらも否定されない。
どちらも、正しいことになる。
広がるほどに、形が曖昧になる。
それでも。
“正しいもの”として扱われ続ける。
やがて。
それは“聖典”と呼ばれるようになる。
誰が決めたわけでもない。
自然にそうなる。
重みだけが増えていく。
中身は、変わらない。
最初の学者が、本を閉じる。
「……やはり深い」
もう一度言う。
別の学者が、小さく笑う。
「読んだのか?」
少しだけ間。
「いや」
短く答える。
机の上の本は、静かに閉じられたままだった。




