第29話「均衡」
世界は、静かだった。
都市では、人が動いている。
仕事もある。
会話もある。
だが。
どれも、少しだけ穏やかだった。
急ぐ者が減る。
声を荒げる者がいない。
問題が、起きない。
役所の一室。
紙が机の上に積まれている。
役人が、それを一枚ずつ見ている。
「……減っているな」
小さく言う。
隣の者が覗き込む。
「何がですか?」
「苦情だ」
短く答える。
紙をめくる。
以前は、もっと多かった。
小さな不満。
大きな問題。
それが、減っている。
「いいことでは?」
隣の者が言う。
役人は、少しだけ考える。
「……そうだな」
否定はできない。
実際、問題は起きていない。
別の紙を見る。
作業報告。
進捗は遅い。
だが、止まってはいない。
無理をしていない。
結果として、崩れない。
役人は紙を置く。
「問題が起きない…」
ぽつりと呟く。
その言葉は、評価として正しい。
だが。
それ以上、何も出てこない。
通りでは、人が歩いている。
荷物を運ぶ者。
店を開く者。
どれも、落ち着いている。
焦りがない。
無理もない。
「まあいいか」
誰かが言う。
小さな声。
それに、別の誰かが頷く。
「まあいいな」
会話はそれで終わる。
先に進もうとしない。
変えようともしない。
今のままで、困らない。
だから、そのまま。
遠くの城でも、似たような空気が流れていた。
報告は届く。
どれも安定。
どれも問題なし。
王はそれを見る。
軽く目を通す。
「……平和だな」
小さく言う。
側近が頷く。
「はい」
それ以上はない。
戦いは起きない。
争いも少ない。
誰も無理をしない。
だから、壊れない。
だから、変わらない。
村も、同じだった。
ユルは、いつもの場所にいる。
井戸の前。
同じ位置。
座っている。
風が通る。
音は少ない。
人はいる。
だが、近づきすぎない。
すべてが、保たれている。
誰も疑わない。
なぜこうなっているのか。
これでいいのか。
考える者は、いない。
考える必要がない。
問題がないから。
違和感は、あるかもしれない。
だが。
言葉にならない。
言葉にする理由もない。
世界は、静かに回っている。
何も起きないまま。
それが、続いていた。




