第10話「記録」
午後だった。
日差しはやわらいで、影が少し長くなる。
井戸の周りは、いつもと同じように人がいる。
同じように動き、同じように止まる。
ただ、少しだけ静かだった。
ユルは、そこにいた。
同じ場所。
同じ姿勢。
目を閉じている。
少し離れた場所で、村長が立っていた。
手に、小さな冊子のようなものを持っている。
開く。
何も書かれていないページが、何枚か続く。
少しだけ考える。
何かを思い出すように、視線を上げる。
井戸の方。
ユルの方。
また視線を落とす。
指先が、ゆっくりと動く。
書く。
短い言葉。
それだけ。
――眠い
次の行に、間を空ける。
少しだけ迷ってから、また書く。
――うるさい
さらに少し間を置く。
思い出す。
井戸のそばでの出来事。
荷車。
あの一言。
書く。
――遠い
そこで手が止まる。
それ以上は、続かない。
ページを見つめる。
三つの言葉。
どれも短い。
繋がっているようには見えない。
意味を探す。
まだ、見つからない。
「……何してるの?」
ティアナが後ろから声をかけた。
少しだけ覗き込む。
村長は、冊子を閉じるでもなく、そのまま見せる。
隠すほどのものでもない。
「言葉だ」
「見れば分かるけど」
ティアナは眉をひそめる。
並んでいるのは、単語だけ。
文章にもなっていない。
「これが、どうしたの?」
「……まだ分からん」
村長は正直に言う。
考えている最中だった。
再びページを開く。
三つの言葉。
間の空いた配置。
視線が、井戸の方へ向く。
ユルは、動かない。
何も言わない。
「ただの独り言でしょ」
ティアナが肩をすくめる。
そう見える。
実際、その通りかもしれない。
「かもしれん」
村長は否定しない。
肯定もしない。
冊子を閉じる。
指で軽く押さえる。
もう一度だけ、開く。
同じページ。
同じ三つの言葉。
何も増えていない。
何も減っていない。
けれど。
書かれている。
それだけで、少し違って見える。
村長は、ゆっくりと息を吐いた。
考えはまとまらない。
結論も出ない。
それでも、視線はページから離れない。
「……繋がるかもしれん」
小さく、そう言った。
ティアナは首をかしげる。
「何が?」
答えはない。
まだ、何も繋がっていない。
ユルは、変わらない場所にいる。
何も知らずに、目を閉じている。
その日も、特に何も起きなかった。
ただ、言葉だけが残った。




