第三十六話 三日のうちの一日目
窓を開けると、庭木がサワサワと鳴っていた。
葉が手のひらほどになって、風が通ると音がする。冬は同じ風で鳴らなかった。十二本。緑が濃くなって、重なった葉の下に影ができている。
クラーラ奥様とお菓子を焼いてから、ひと月たった。休みの日は二度あったが、テルナー様の家には行けていない。一度は借家の空気を通しに行き、一度は朝から雨だった。
隣の書庫に入る。ニクラスさんはもう来ていた。ペンの音がさらさらとする。
「ニクラスさん。今日の帳簿の綴じは、午後からで間に合いますか」
ペンが止まった。
「……ああ。午後でいい」
わたしは頷いた。
昼前に、廊下でリーゼ様に呼び止められた。城主様の娘で、去年の秋からのお友達だ。
「ミーナ! 今、少し時間ある?」
「あります。午後の綴じまでは空いています」
「よかった。来て。フリーダも部屋にいるの」
リーゼ様の部屋は東棟の三階にある。天蓋つきの寝台。大きな化粧台。書き物机。窓が二つ。窓際に椅子が二つと小さなテーブル。去年の秋に化粧台を並べ替えたときと、同じ並びだ。
違うところが一つあった。寝台の足元に、衣裳箱が三つある。
「あ、箱気になる? 三つに増えたの。春に一つ。前は二つだったの」
三つのうち、二つは同じ大きさで奥に並んでいる。増えた一つは少し小さくて、手前にある。大きいものを奥に、小さいものを手前に。リーゼ様付きのメイド、ハンナさんの並べ方だ。去年の秋に化粧台を並べたときに聞いた、あの人の物差し。
小さい箱の上に、畳んだ服が載っていた。
「それ、入りきらないの。夏の服を新しく作ったから、箱が足りなくなって。増やしたのに、まだ着てないのが載ってて」
ふむふむ、と話を聞いている間に、フリーダさんが化粧台の前から立ってこちらにきた。わたしの後ろに回って、髪を見る。
「ミーナさん。髪、伸びましたね」
「そうですか?」
「冬よりも長くなってます。背中の真ん中だったのが、指三本ぶんも下に」
自分では測っていなかった。
机の水差しは端から五センチで測るのに、自分の髪を測るという発想がなかった。
「夏は、この長さだと首に貼りつきます。結い方を変えませんか」
「変えると、朝にすることって増えますか?」
「覚えれば、あまり変わらないですよ。首も涼しくなります」
フリーダが手で形を作った。うなじで束を折り返して、根元にリボンを二周。それで束が首から離れる。
「ただ、リボンだけでは留まりません。折り返した束は重いので。留め具が要ります」
「留め具ですか」
「輪に棒を差す形の留め具が、いちばん軽くて確かです。……ここには無いのですけれど」
フリーダがリーゼ様を見る。リーゼ様が天井を仰ぐようにして上を向いた。
「あるはずなの。この冬の終わりにもらったの。しまって、それきり。ハンナに探してもらったけど、無かったのよ」
「一度、片付けながら探してみますか?」
「いいの?」
リーゼ様が顔を上げた。
「箱は、見ましたか」
「……箱は服だから」
「いったん、全部見てみましょう」
わたしは三つの箱の前にしゃがんだ。
三つとも開けて、中身を全部出した。寝台の上に広げると、冬の厚い服、春と秋の服、夏の薄い服に分かれた。
量を比べる。小さい箱でも、夏の服なら全部入る。上に載っていた服もなくなる。箱の大きさと服の量が合っていないだけだった。
箱の位置は動かさない。
奥の左に冬。奥の右に春と秋。手前の小さい箱に夏。入れ直せば、どの箱を開けても季節が混ざらない。
冬の服から戻そうとして、手が止まった。手前の箱の底に、冬の下着が一枚残っている。
持ち上げる。その下に、黒い木の輪があった。
輪に通す棒。細い彫りが三本。棒の先は丸めてある。
「あった」
拾い上げた。
「リーゼ様。これですか」
リーゼ様が振り向いて、声を上げた。
「あった! 探してたのに! ハンナが引き出しを三回も見たのに!」
「引き出しにはありませんでした。箱の底です」
「……なんで箱の底に」
「多分、服の組み合わせとして中に入れてたのではないですか? 上の服をどかさないと見えませんでした」
リーゼ様が髪留めを受け取って、掌の上で転がした。
「わたし、一度も使ってないの」
それから、わたしを見た。
「あげる。ミーナが使ってくれるなら、そのほうがいい」
「使っていないものを、いただくのは」
「使ってないから、あげるの。使ってたら、あげられないでしょ」
それは、そうだ。
「ありがとうございます。あとで使い方を教えてくれますか?」
「まっかせて! フリーダが上手なのよ、それ」
「教えるのはわたしなのですね、リーゼ様」
おしゃべりしながら、笑いが混じる。
寝台の上に広げた服を、箱に戻していった。奥の左に冬。奥の右に春と秋。手前に夏。三つの箱が、来たときと同じ場所に戻った。
フリーダさんが横から髪留めを見る。
「その黒は、ミーナさんの髪でこそ良さが出ると思います。リーゼ様の髪色だと沈んで見えてしまいますから」
「フリーダ。それ、わたしに似合わないってこと?」
「似合わないのではありません。リーゼ様は色の組み合わせで見せるほうです! リボンの薄い色をお勧めします」
リーゼ様が口を尖らせて、それから笑った。
化粧台の前に座らされた。
フリーダの手が動く。束をうなじで折り返す。根元にリボンを二周。輪を伏せて、棒を横から差す。棒が通ると、輪が動かなくなった。リボンは固く締めていない。それでも束は落ちない。
首の後ろに、風が当たった。
「涼しいです」
「夏はこれからが本番ですから。三回やれば、手が覚えます」
鏡を見た。
亜麻色の髪が、首の後ろで一つにまとまっている。薄い青のリボン。黒い木の輪。そばかすの顔は同じだ。
前にいた場所では、髪は伸びたら切っていた。長さを気にしたことも、結び方を考えたこともない。今までも一つに結うだけで。……だからなんだか、不思議な感じがした。
「なんか大人っぽくなった! ね、フリーダ」
リーゼ様が椅子の後ろから覗き込んで言った。
「首が見えるからです。髪を上げると、そう見えます」
「理屈はいいの。ミーナに似合ってるよね?」
フリーダが櫛を置いた。
「ええ。よく似合っています」
「でしょ?」
リーゼ様が笑った。
戸口で、音がした。
ハンナさんが立っていた。トレーを持ったまま、寝台の上の服と箱と、わたしの髪を順に見た。
「ミーナ様。箱を、お開けになったのですか」
「開けました。中身を季節で分けました。箱の位置は、ハンナさんの並べ方のままです」
「……あら。髪留めが」
「手前の箱の底にありました」
ハンナさんがトレーを置いた。それから、わたしと箱を見比べた。
「三回探しました。引き出しと机と、化粧台の裏まで。箱は、服しか入っていないと思っていました……」
ハンナさんの目が、わたしの髪の輪で止まった。
「ミーナ様は、箱の中まで見えるんですか」
「見えません。全部出しただけです」
ハンナさんが少し考えた。
「配置は、そのままですね」
「はい。変えたのは中身だけです」
「……では、中身の分け方を教えてください」
わたしは箱を指した。
「奥の左が冬。奥の右が春と秋。手前が夏です」
「承知しました。配置図に、中身の分け方も書き足しておきます」
ハンナさんが箱の蓋を一つずつ閉めていった。
最後に手前の小さい箱を閉めて、元の位置に戻す。
「これなら、衣替えのときも分かりそうです」
「はい」
「ありがとうございます、ミーナ様」
ハンナさんが軽く頭を下げた。わたしも頭を下げた。
リーゼ様が、わたしの後ろ姿を見ながらニコニコとしていた。
「髪、いい感じ。明日から自分でできる?」
「三回やれば、手が覚えるそうです」
「じゃあ、できるようになったら見せてね」
「はい」
午後、綴じを終えて書庫を出た。
廊下の角で、ヴォルフさんと目が合った。剣を腰に、廊下の真ん中を歩いてくる。
ヴォルフさんの目が、わたしの髪で止まった。
一度だけ。それから、先に逸れた。
「ヴォルフさん」
「……ああ」
「今日は、どちらへ」
「いや、なにも」
返事になっていない。通り過ぎるとき、歩く速さが少し変わった。
どこか痛むのかもしれない。明日、顔色を見てみよう。
夜になって、控室に戻った。
棒を抜く。輪を外す。リボンを解く。
三つ。
前はリボンを解くだけだったから、夜は二つ増えた。朝も二つ増える。そのかわり、昼のあいだに緩んだ結び目を締め直す手間がなくなった。前は日に三度あった。
差し引きで、少し増える。それでも、首の後ろが涼しかった。
巾着の口を開ける。リボンを入れる。輪を入れて、棒も入れる。
木が布に当たる音がした。今日から、巾着の中の音が一つ増える。
巾着を棚の上に戻した。襟のリボンの隣。机の水差しは、端から五センチ。うん、合っている。
明日は、三日のうちの一日目だ。




