第三十五話 クラーラ奥様の台所
休みの日の城下町は、荷車が少ない。
石畳の上を歩く音が、自分の足のぶんしか聞こえない。東寄りの通りに入ると、人の声も減る。テルナー様の家の花壇で、球根の芽が先週より指二本ぶん伸びていた。等間隔のままだ。
戸を叩く前に、戸が開いた。
「ミーナちゃん。足音で分かったわ」
奥様だった。小柄で、白い髪を後ろでまとめている。袖をまくっていて、手に粉がついている。奥から、竈の火の匂いがした。
「今日は、菓子を焼くの。手伝ってくれる?」
「はい」
「返事が早いのね」
「甘いものに弱いので」
奥様が笑った。
「先にご飯を食べましょう。生地はね、手が冷たいとバターが潰れないから、冬は先に湯で温めるのよ。春は、ご飯を食べれば手が温まるわ」
テルナー様は書斎から出てきた。上着を着ていない。
食卓に椅子が三つ。わたしの椅子は、この前と同じ手前の席だ。皿が三つ並んで、かぶと豆の煮込みとパンが出た。
煮込みのかぶに匙を入れると、押しただけで割れた。柔らかい。おいし。
テルナー様が匙を置いた。
「ミーナ殿。妻の名を、まだ言っていなかったな」
「あなた。まさか今まで」
「うむ」
奥様がテルナー様を見て、それからわたしを見た。呆れた顔のまま、笑っている。
「この人ね、家に帰るとあなたの話を始めるでしょう。わたしが名乗る間がなかったのよ」
「……煮込みが冷める」
テルナー様が匙を取った。奥様がわたしに向き直った。
「クラーラよ。遅くなったけれど、そういう名前なの」
「クラーラ様」
「様は要らないわ。クラーラさんでいいのよ」
少し考えた。
この人は奥様で、お名前はクラーラ。両方が本当だ。
「クラーラ奥様、でもいいですか」
「あら。畏まらなくていいのよ」
「畏まりたいのではないんです。奥様と呼んできた一年ぶんを、捨てたくなくて。名前は、その上に足したいんです」
奥様が匙を止めた。テルナー様がパンを割った。
「……いいわよ。クラーラ奥様で。そのかわり、わたしはミーナちゃんのままでいくわね。呼び慣れた名前を変えないのは、お互いさまよ」
「はい」
クラーラ奥様。口の中で一度言ってみた。長いが、収まりがいい。
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台所は食堂の奥にある。竈が一つ、その前に鍋が二つ。壁の棚に壺が五つ並んでいて、蓋に字が書いてある。字の面が全部こちらを向いている。
クラーラ奥様の並べ方だ。変えたら、明日この人が探すことになる。
触らない。手順だけ聞く。
「蜂蜜の菓子。七つやることがあるの。一つずつ言うわね」
一、蜂蜜を緩める。壺を湯に立てる。二、粉をふるう。二度。一度目は塊を取り、二度目は空気を入れる。三、バターを指の腹で潰して粉と混ぜる。四、蜂蜜と卵を入れて捏ねる。五、寝かせる。六、延ばして型で抜く。七、焼く。
七つ。指を折って数えた。
「道具を出してもいいですか?」
「どうぞ。台の上は好きに使って」
台の上だけなら、いい。使う順に、左から並べた。ふるい。鉢。匙。麺棒。型。出した場所を一つずつ覚える。終わったら、全部そこへ戻す。
「左から使うのね」
「順番どおりに並べておくと、次に何を取るか迷いません」
「わたしは全部いっぺんに出すわ。それで麺棒がいつも見つからないの」
「麺棒は、型の左に置きますね」
「ありがとう」
クラーラ奥様が壺を湯に立てた。蜂蜜が緩んでいく。壺の口から、匂いが濃くなる。
竈の火が顔に当たる。
前にいた場所では、火を使える台所がなかった。あったのかもしれないが、物が積み上がっていてたどり着けなかった。冷たいものばかり食べていた。袋から出して、そのまま。
今は、蜂蜜が湯の中で緩んでいくのを見ている。体の奥が、少し緩む。
粉をふるう。一度目の粉は鉢の底で山になった。二度目の前に、クラーラ奥様が棚の壺の一つから一つまみ取って、粉に落とした。何かは訊かなかった。二度目は山が低くなって広がった。空気が入った、というのはこれのことか。バターを指で潰す。冷たくて、すぐに柔らかくなる。ご飯のあとで手が温まっているからだ。蜂蜜と卵を入れて、捏ねる。手が重い。
「捏ねすぎないで。まとまったら、そこでやめるの」
「目印になることは、ありますか?」
「鉢の縁に生地がつかなくなったら」
鉢の縁を見た。ついていない。手を止めた。
「寝かせるあいだに、お茶にしましょう」
壁の棚の下に、引き出しがあった。クラーラ奥様が開けて、木の匙を出した。二本。長いものと短いの。短いほうの柄が、握るところだけへこんでいる。
「短いほうは、柄がへこんでいます。握るところだけ」
「昔、それを持ちたがった子がいたの。……よく使ったわ」
クラーラ奥様は、短いほうを引き出しに戻した。戻してから、指先で柄のへこみを一度なぞった。
長いほうで蜂蜜を掬って、お茶のカップに落とした。
それ以上は言わなかった。わたしも訊かなかった。短いほうは、引き出しの右の奥。出したところに戻っている。
お茶は食堂で飲んだ。テルナー様が書斎から出てきて、向かいに座った。
「ザビーネ殿はどうだ」
「笑わない人だと、思いました。本当のことは言ってくださいます。角を揃えることを、大したものですと言われました」
「ほう」
「声が低くて、独り言のように訊く人です。そう感じました。訊かれたことには答えられます。それから」
「それから」
「机に山が四つあります。棚は空いています。三日たっても四つです」
テルナー様がお茶を飲んだ。口元が緩んでいた。
「最後に棚が来るのが、お前らしいな」
「……そうですか」
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寝かせた生地を、台に出す。
「いつもここで失敗するのよ。延ばすと端が薄くなって、そこだけ焦げるの」
生地を見た。真ん中が指一本ぶん。端は、その半分もない。麺棒を転がすたびに端が逃げる。厚みが揃わないから、焼き時間が揃わない。
竈の脇に、薪の割れ端が積んであった。指一本ぶんの厚さの板が二枚。
「この板、二枚お借りします」
「何に使うの?」
「生地の厚みを揃えます」
生地の左右に板を置いて、麺棒を板の上に渡す。転がす。麺棒が板に当たって、それより下には下がらない。端まで、指一本ぶん。
「……あら、なるほどね。そういう使い方もあるのね」
「板の厚みで止まります。同じ厚さなら、同じ時間で焼けます」
型で抜く。丸。抜いた残りは、まとめて捏ね直してもう一度延ばす。板を置いたままなので、厚みは変わらない。
「指二本、空けて。膨らむから。縁は熱が回りやすいから、一本ぶん内側に」
クラーラ奥様が言った。そのとおりに天板に並べる。指二本ぶんずつ。縁からは指一本ぶん内側。
一枚に六列。三つずつ。十八枚。天板二枚で、三十六枚。
クラーラ奥様が竈に入れる。途中で天板の奥と手前を入れ替える。奥のほうが熱いからだ。
焼けた。
クラーラ奥様が天板を一枚ずつ取り出して、台に置いた。一枚目を見た。二枚目を見た。それから、菓子を一つ裏返した。
「一枚もないわ。焦げが。初めてよ」
「板の厚みで止まっただけです」
「板の厚みでねえ。いつもは焦げてないのが真ん中の何枚かだけ。それをあの人が城へ持っていって、焦げたのはわたしが食べるの」
一枚、渡された。熱い。割った。甘い。端まで同じ味だった。
クラーラ奥様が、菓子を布に包み始めた。十八枚ずつ、二つの包みに分けた。
「一つはミーナちゃんの。もう一つは、ブルーノさんに持っていって。市場で会うと、塩の話ばかりする仲なのよ。味を見てもらいたいの。ずっと渡せなかったのよ。端が焦げてるのを見せるのは、ねえ」
クラーラ奥様は、包みの結び目を直しながら言った。
道具を戻す。出した順の逆に。
型。麺棒。匙。鉢。ふるい。板は竈の脇へ。壺の蓋は、字の面をこちらに向けたまま。引き出しは閉めてある。
台の上が、来たときと同じになった。
「今日はありがとう、ミーナちゃん」
「お邪魔しました」
「次は、もう少し多く焼こうかしら」
「板があれば、端も揃うと思います」
「じゃあ、取っておくわ」
クラーラ奥様が戸口まで送ってくれた。
わたしは包みを一つ抱えた。布がまだ少し温かい。
「またね、ミーナちゃん」
「はい。また」
戸が閉まった。
石畳に出ると、菓子の甘い匂いが布の隙間から少しだけした。
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城に戻ったのは夕方だった。
厨房に寄った。ブルーノさんが大きな鍋を洗っている。
「ブルーノさん」
「おう。どうした」
「クラーラ奥様からです。味を見てほしいそうです」
ブルーノさんが手を拭くのを待って、包みを渡した。そっと開けて一つ取る。
割らずに、一口で食べた。しっかり噛んでいる。
「お前は手伝いをしたのか」
「はい、捏ねるところまでは。焼いたのはクラーラ奥様です」
「端まで焼き色が揃ってる。端が焦げるって、市場でこぼしてたのにな。何をした」
「麺棒の両側に板を二枚置いて、厚みを揃えました」
「……板か。うちの若いのにも教えとけ。パイの端がいつも薄いっていっても直らねえんだ」
「はい」
ブルーノさんがもう一つ取った。それが返事だった。包みを棚の上に置いて、また鍋に向かった。
「奥方に言っとけ。塩が効いてる」
「塩、ですか」
「隠し味だ。食う側は気づかなくていい。作る側だけが分かって、にやりとする。それがいいんだ」
あの一つまみは、塩だったのか。わたしには、甘いことしか分からなかった。わたしも捏ねたのに、まだ食べる側だ。伝言だけ、覚えておく。
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控室に戻って、包みを棚の巾着の隣に置いた。窓を開けた。
庭木は十二本。硬い芽は一つも残っていない。全部、葉の形になっている。まだ小さくて、色が薄い。
今日、名前を一つ教わった。クラーラ奥様。
もう一度、口の中で言った。
次の休みの日は、板を先に出しておこう。




